審判も大変だ



 

 

高校野球の神奈川大会で誤審があったのではないかというニュースが話題になっています。

 

映像を見る限りどちらかの確証は難しいのかもしれませんが、見る限りはアウトの判定になるプレイなのかなと思います。

 

特にうまい人になればなるほど、確実にベースの上を踏むという行為ではなくて、ベースにタッチするような感じで流れるようにプレイするというようになりますし、タイミングとしてはアウトなわけですからアウト判定をするプレイなのかなという感じです。

 

もちろん、厳密にアウトセーフの判定をするというのは大切ですし、重要な試合の場合は特に慎重にというのもよく分かりますが、あれをセーフ判定にされるとプレイヤーとしてはちょっと辛いかもなとは思います。

 


審判は大変



とはいえ、審判は一番近くで目を凝らしてみていたわけですので、その審判が判定するのであればそれは絶対でもあるという前提で試合をやっている以上、審判の判定は絶対であるというのは変わらない真実でもあります。

 

もしも実際にベースにタッチすらしていなければ、審判はよく見ていたという評価になると思います。

 

プロ野球ではリクエスト制度というのが導入されて、審判の判定に対して条件付きで見直しを要求することができますが、それによってまあまあそれなりに判定が覆ることを考えると、人間がやる以上は間違った判定をすることがあるというのはどうしても避けられないことなのでしょう。

 

少し前のプロ野球では、誤審を確信した首脳陣が猛抗議をするとか、さらにはナインをベンチに引き上げさせて試合を中断させるなんてこともありましたし、このリクエスト制度によって、そういうのがなくなったのがいいのか悪いのかは分かりませんが、やり玉にあがるのは審判です。

 

プレイヤーとしては、審判をいかに欺くかというのも一つの技術ではありますし、審判にとってはスピード感あふれるプレイの中での一瞬の判断で、どの位置でそのプレーを見るのかというポジショニングの問題もあります。

 

実際問題、百何十キロのボールを見ながら、時速数十キロで走ってくる人のパーツを見ながら、どっちが早いかとか判断する必要がある中で、プレーの邪魔をしないように動きながら判定しやすい位置に場所取りするわけです。

 

まあそう考えると、野球に限らず、審判というのも大変な役回りではあります。

 

あくまでも公平に振る舞い、正しい判断をして当たり前で間違えていると思われると文句を言われる。

 


私も経験がある



私も審判をしていて文句を言われるなんてことはありましたし、そもそもすべてのルールを把握しているわけもないですから、公式試合の審判はできればやりたくなかったくらいです。

 

やっているプレーヤーやチーム関係者が、誤審されると腹が立つというのも良く分かりますので、審判も大変なんだから我慢しろということは言えませんが、ただ審判も辛いんだよねというだけです。

 

もちろん、審判がする誤審の中にも、そもそも見ていないなど、それはさすがにないよな、というものもありますので、そういう場合は審判が責められても真摯に受け止めてとしか言えないと思います。

 

しかし、プロの審判がやっているのであればまだしも、そうでないアマの審判がやっている場合は、少し多めに見てあげて欲しいというのもまた私の感想です。

 

実際にやっている当事者たちからしたら、誤審は許されないものですし、それで夢を断たれることだってあるわけですので、外から勝手なことを言うなという感じかもしれませんけれどもね。

 

私が当事者だったら、めちゃくちゃ怒っているかもしれませんし、恐らく怒っているでしょう。

 

でも私も審判していて誤審をしたこともあるでしょうし、難しいのも事実なんですよね。

 

 

 

 


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災害が増えている気がする


 


 

夏が近づいてくると、日本で大雨による自然災害が発生するのが毎年の恒例になってきましたね。

 

私の記憶違いなだけなのかもしれませんが、ここ最近特に毎年起こっているなという気がしますし、一方で以前はそこまででもなかっただろうと思いますので、確実に環境が変化してきているということなのではないかと思っています。

 

歴史上、災害が多ければそこには人が住まないように心がけてきていたでしょうから、長年そこに人が住み続けてきたエリアでそういう自然災害に襲われるということは、環境要因としか考えられません。


地球温暖化?

 


よく言われるのは地球温暖化が影響しているということで、その真偽は分かりませんが、可能性の一つとしては確実にあるのでしょうし、もしそうだとしたら、今後も夏になると毎年似たような自然災害が起きてしまうのだろうという推測もできます。

 

例えば大雨の影響で浸水をすると、水による被害だけではなく、水と共に流れ込んでくる土砂による被害もありますし、その一連の過程の中で感染症の細菌も運ばれるなんてこともあり得ます。

 

特に温暖化の影響で気温が上がっている中では、そういう細菌の活動もより活発化してしまうかもしれませんし、決してよろしくない事態であることは間違いありません。

 

私は持ち家を持っていませんが、将来的にはどこかに持ち家をもって生活をしようと考えていますので、そうなるといったいどこに住むのがいいのだろうか、という話になってきます。



将来住む場所

 


治安や住みやすさも大切ですが、そういう災害という視点でも安全、安心なエリアというのがどこなのかということを考えないといけません。

 

私が子どもの頃、新幹線に乗った際の車窓から外を見て、日本にはまだまだ人が住めるところがあるのかな、と思っていました。

 

それは単純に、田畑や山が多く見えたので、そのスペースに家を建てればまだまだ人が住めるなと思ったというだけなのですが。

 

物理的にはまだまだ人は住めるのかもしれませんが、そういう災害のことなどを考えると、逆に今まで人が住めていたエリアに人が住めなくなるなんてこともあり得るのかもしれませんね。

 

あまり自然災害のない国であれば、不動産の価値も比較的下がりにくいでしょうが、その逆となると不動産の価値が下がりやすいということになりますので、今後日本で不動産を持つのであれば、そういうリスクもしっかりを許容をした上で、ということになるのかもしれません。

 

自然には勝てない、というのはよくできた言葉ではありますが、その原因を人間が自ら作り出しているのだとしたらそれはそれでどうなのか、という話ではありますね。

 

一方で、災害に強い都市や街をどう作っていくのかを考えて実行していくことが、今後より大切になってくることなのかもしれませんね。

 

大雨とかを逆に何かに利用できないものかとか考えることもあるのですが、そう頻繁に起きる話でもないですので、それを活用するために何かに投資するということもなかなか難しいのでしょうね。


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人間の証明



 

 

作家の森村誠一氏がお亡くなりになられました。

 

詩人や作詞家として活躍したの西條八十氏の詩から、ぼくのぼうしというものをなぞ解きに活用した、人間の証明という小説も執筆されました。

 

すごく面白い小説ですので、まだ読んだことのない方にはぜひお勧めします。

 

ちょっとあらすじが違いますが、ドラマもあると思いますので、ビデオやDVD Web経由でも見ることができるのではないかと思います。



強い記憶

 


私がこの人間の証明を読んだ際に、あっと思ったことがあります。

 

それはまさに、ぼくのぼうし、の詩そのものなのですが、その詩はまさに昔から知っていたけれども何のことかわからずにいたものだったのです。

 

私は、その詩を、ドラえもんの漫画の中で読んだことがありました。

 

確か、昔に失くしたものや思い出の品物を取り出すことのできる道具で、それでのび太が麦わら帽子を取り出して、のび太のお母さんに見せた際に、まさにその詩の一節を言いながら見せていました。

 

子どもの頃の私は、当然にそれが実際にある詩の引用とはわかりませんから、のび太としての普通のセリフなのだろうと思いながら読んではいるものの、それにしてはセリフとして長いですし、のび太の普段の言い回しとは明らかに違うことも子どもながらに見て取れて、不自然な感じ、不思議な感じがしたものです。

 

だからこそ記憶にもずっと残ったまま、ただそれが何なのかは分からない、という状況が続いていました。

 

そんな中で、その人間の証明を読んだ際に、ああ、この詩をのび太も引用していたのか、ということがようやくわかったのです。

 

正確にはのび太ではなく、ドラえもんの作者の藤子不二雄氏が引用したのでしょうが、そう思うと藤子不二雄氏のセンスがすごいなというか、その時代には有名だったから引用されたのだろうか、とかいろいろと思いを巡らせたものです。

 

そこら辺にある漫画にも、孫氏の兵法いわくとか、そういう引用がされる孫氏もすごいのだと思いますけれども、この西城八十氏の詩が引用されていることは、私の中では強い記憶として残っていますので、だからこそ、森村誠一氏のこともニュースを見たときに、アッと思ってしまいました。



感謝

 


素晴らしい本を世の中に生み出してくださった森村誠一氏には大変感謝をしております。

 

この世の中にある本には、まだまだ私が出会えていない素晴らしい本がたくさんあるのでしょうね。

 

そんな本に今後も出会えることを楽しみにしております。

 


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夏と水辺の事故




この時期になると特に、水辺で遊んでいて溺れてしまってというニュースを見ることが多くなります。

 

私自身も子どもの頃におぼれたこともおぼれかけたこともありますが、結構あっという間にそういう状況に陥りますし、こちらは必死でも意外と周りにいる人に気付いてもらえないということもあります。

 

自分に子どもがいる身としては、特に子どもが関わるニュースを見ると心が痛みます。

 

自分に子どもができてからより実感として感じられるようになったのだと思います。

 

子どもが寝ている瞬間も、笑っている瞬間も、泣いている瞬間でさえ、かわいいなあと思いながら見ていますし、ある日突然この子がどこかに行ってしまったらどうしよう、という気持ちにもなります。

 

まあ、あと数年もしたらものすごく生意気な子どもになるかもしれませんし、ものすごくむかつくことも増えるかもしれませんが、まあそれはそれで。


限界はある


 

しかし、常にずっと子どものことを見ておくということもできないというのもまた正直なところでしょう。

 

幼児のころならまだしも、保育園や幼稚園の年中くらいになれば一人で遊びに出かけることもあるでしょうし、ちょっと危ないことをしてみようという気持ちになることもあるでしょう。

 

なんか昔読んだ漫画で、親としては子どもがやけどをするのを見るのは辛いが、火が熱くて怖いものであるということを子どもが分からないのもよくない、というようなセリフを読んだことがありますが、過保護にしすぎずに、子どもなりにこれは危険なことなんだということも分かってもらわないといけないというのも最近よくわかります。

 

親としては危ないことからはなるべく子どもを遠ざけようとするのは自然かもしれませんが、なぜそれが危ないのかも分かってもらいたいという気持ちはあります。

 

ただその危ないことが、あまりにも重大な致命的なもので、やり直せないなんてこともありますので、その怖さはどうしてもあります。

 

水辺で遊ぶのも、それ自体は楽しい遊びですし、特に暑い日なんかは気持ちのいい遊びです。

 

確かにちょっとしたことで非常に危険にもなりますが、危険だからといって全く禁止をしてしまっていては何もできなくなってしまいます。

 

大人が一緒にいたとしても危険になってしまうこともあるでしょうし、何とも難しいところがあります。

 

私の子どもも水遊びが好きですが、まだ水の怖さみたいなのは分かっていないでしょうし、それが親としてはひやひやするところでもあります。

 

読んでいても辛いので、あんまりこういったニュースは見たくないですが、自身への意識づけという意味では変な表現かもしれませんが、気づきや教えになってくれてもいます。

 

どうか皆さん、楽しい夏を過ごされますように。



 

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窓際族の幸せ



 

ネットでいろいろと読み漁っていると、嘘か本当かは分かりませんが、大企業のいわゆる窓際部署で仕事らしい仕事もせずに安定した給料を得ている、という人の書き込みを見かけることがあります。

 

作り話かもしれませんし、嘘か本当かは分からないのですが、誰にでもやれるようなすごく簡単な仕事だけが割り振られて、昇進することもなければ首になることもないような状態で長年勤めている、しかもそこそこの給料をもらっている、というような感じです。



ありえなくはない

 


決してそういう人ばかりではないのは当然ですが、そういう人が会社に何人かいても不思議ではないよなということも思います。

 

特に大企業になると、そもそも人の数が多いですし、その中で全ての仕事に意味を持たせてマネジメントするなんてことはそもそも無理な上に、仕事ができない人は普通に存在しますから。

 

この日と何の仕事しているんだろうなという人は大きい会社になればなるほど存在するのでしょうし、窓際部署というのも発生しやすいでしょうし、その上で簡単に解雇するわけにもいきませんから、仕事もほどほどに安定した給料を得る人がいたとして、レアなケースであったとしてもおかしくもないかなと思います。

 

ある種の勝ち組です。

 

まあ、暇すぎるとそれはそれで脳がとろけるというか、苦痛に感じる場合もありますので、本人の適正なんかも大切にはなってくるとは思いますが、もしも苦痛に感じないのであれば安定したお給料をもらえる暇な仕事というのはかなりの勝ち組です。



そもそもの部署の差

 


またこれは極端な例であったとしても、部署によって業務の難易度やストレスの大きさ、その種類も違ってくるのは当然でしょうし、同じようなお給料でありながら心身への負担は全く違うなんてことは普通にあり得ると思います。

 

もちろん、いわゆる花形部署と呼ばれる部署の方が、業務が難し目でストレスも大きくて、ということにはなって、その反面で出世しやすいということもあるのでしょうけれども、仕事だけが人生ではないと考えると、そういう部署に所属するだけが勝ち組というわけでもありません。

 

目立ちはしないけれども大切な仕事というのは存在しますし、そこに誇りをもって励んだ結果スペシャリストになれば、そこそこのストレスはあるとはいえ、周りからも信頼されながら楽しんで仕事ができるということはあり得ます。

 

暇すぎる窓際部署の仕事に楽しさがあるのかどうかというと、これも心持ち次第ではあるでしょうが、なかなか楽しみを見出すのは難しいというのが正直なところではないでしょうか。

 


楽しいかどうか



仕事を楽しめるかどうか、というのはかなり大きい点であると思いますし、もしも仕事が楽しければ、私のようにセミリタイアを目指す、なんて必要はそもそもないと思います。

 

そういう意味では、もしも窓際部署で安定したお給料をもらいつつ、仕事を楽しむこともできている、というのが勝ち組であると言えるのでしょうね。

 

もしもそんな人がいるのだとしたら、本当にうらやましい限りです。



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組織風土




とある中古自動車の取扱や車検サービスを提供している会社が、わざと車に傷をつけるなどして保険金を過剰請求していたというニュースが話題になっています。

やっていること自体、信じられないことをしているなとさすがに思いますが、どうも組織全体としてそういうことをしていたようで、社内でもこうやって営業成績を稼ぐ方法があるというような社内口コミもあったのではないかと疑ってしまいます。
 
赤信号、みんなで渡れば怖くない、ではないですが、周りもやっているから、どうせばれないから、という誘惑には意外と人間負けますよね。

とある中古車販売や車検実施のサービスを提供している会社で、わざと車に傷をつけるなどして保険金を過剰に請求していた、というニュースが話題になっています。

保険金詐欺とどう違うのかもよくわからないことが横行していたということです。


偉そうには言えないが


まあ、私も赤信号渡りは結構やってしまいます。
 
私も別に人様に偉そうなことを言える清廉潔白な人間ではありませんので、こういうニュースを見聞きするとけしからんという思いがする一方、たたけばホコリが出るであろう私自身の行動について振り返ってドキッとしてしまう、というようなことはあります。
 
白か黒かで、黒は本当にダメなのですけれども、グレーであればまあ理由があれば通るかな、というような思考回路は、私個人の中にはあると思います。
 
また例えば、世間一般的にも、オレオレ詐欺はけしからんというのは常識的な考えとして存在していると思うのですけれども、退職金目当てに金融機関が販売したい商品を積極的に勧誘販売する、というのはグレーゾーンとして許されています。
 
よくよく話を聞いてみると、金融機関は購買者に得をしてほしいから勧誘販売しているのではなくて、それを販売することで金融機関に手数料が多く入るとか、そういうのがあるから勧めているということがあるみたいです。
 
それを詐欺と言ってしまっては元も子もないですし、実際に詐欺ではありませんし、購買者は得をすることだってあるわけなのですが、もしかすると損をする可能性があったり、得できるレベルが小さくなったりするかもしれないのに、組織的には周りもそれをやっているし、なんなら上からそういう指示が来るし、やればむしろほめてもらえるし、ということがあると、当事者としてはやらざるを得ないという心境になっても不思議ではありません。
 
なにかしら自分を正当化できる理由があれば、本来ならやらないかもしれないこともやってしまう、というのは人間の弱さなのでしょうか。
 
もちろん中には常に自分を厳しく律している人もいると思いますし、本来はそうあらなければならないのだと思いますけれども。


板挟みの苦しみ

 

組織の中にいると、組織のメリットを追求するのか、組織外の利害関係者のメリットを追求するのかで板挟みになることもあると思います。
 
先の金融機関の例で言うと、組織を儲けさせるのか、購買者を儲けさせるのか、の板挟みでしょうか。
 
よく言われるのは、組織を儲けさせる方が出世する、購買者を儲けさせようとすると精神的に不衛生になる、ということで、真面目な人ほど葛藤からストレスを抱えてしまうのもあるのかもしれませんね。
 
とはいえ、ストレスで病んでしまうくらいなら組織に従順であれ、というのもかなり乱暴な言葉でしょうし、そんな組織はやめてしまえというのもまた乱暴すぎる第三者の意見なのかもしれません。
 
とはいえ、やっぱりダメなことはダメですから、不正を正当化できる理由にはならないとは思いますが。



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幸せってなんだっけか?


 

 



 

自分の人生にとっての幸せの価値観をどこに置くのかというのはなかなか難しい問題です。

 

というか、なにかが満たされれば、必ず何か別のものを満たしたいと思うのが、煩悩を持った人間の性なのかなと思いますので、結局のところ、幸せの価値観なんてものは固定できないのではないかとすら思ってしまいます。

 

ある特定の時期にある幸せの価値観によって満たされる、というのはあり得るでしょうが、それが恒常的になるかどうかというのはまた違った問題かなと思います。



私の場合

 


例えば、私が30代前半の際は、お金はいいからとにかく旅行に行きたいと思った時期があり、それこそ毎週のようにどこかに出かけていました。

 

本当に毎週だったですし、時間と経験はお金で買ってしまえの精神でしたので、貧乏旅行とはいかずに、ホテル代はなるべく節約していたかなくらいでしたので、残念ながらお金はたまりませんでした。

 

ただそれがとても幸せでしたし、来週はどこに行こう、その次はどこに行こう、なんてことを考えることもまた幸せでした。

 

今でももしかしたら、そうやってお金を使うことで幸せを感じられるのかもしれないなと思うのですが、残念ながら体力的に持たないような気がしますし、お金も貯めたいなという欲が出てきています。

 

楽しいことをやっているようでも、体力は使うんですよね、旅行って。

 

今、お金を貯めたいのは、早くセミリタイアをして、ストレスが軽い仕事をしながら人生を過ごしたいからですが、なぜそれがしたいのかというと、仕事で受けるストレスによって自分が不幸だと感じたからです。

 

仕事のストレスから解放されれば幸せになるのではないか、という思いがあるからこそ、そういう考えを持っているのが今です。

 

今、旅行をたくさんすることで、確かに幸福感を感じられるかもしれませんが、その一方でお金を消費することに対しては、幸福感を感じないのではないかと思いますし、総合的に見れば、お金を使いすぎると幸福感はむしろ低くなるような気はします。

 

たまに旅行する分には問題ありませんし、そうしたいとは思っていますが。



ちょっと待てよ?

 


はてさて、そうするとなのですが、いざセミリタイアをした際に、私は恒常的に幸福感を感じられるのだろうか、ということがふと不安として頭によぎります。

 

もしかして、いざセミリタイアをしたら、旅行がもっとしたい、とか、おいしいものが食べたい、とか、そういう欲が出てきてしまうのではないだろうか、という不安です。

 

まあ、皆さんそういう感情と普段からうまく付き合っておられるのでしょうけれども、何かが満たされると、別の何かを満たしたくなる、ということはあり得る話だなと、ちょっと考えさせられます。

 

 


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ネット空間での振る舞い


インターネット上やSNSでの誹謗中傷は行き過ぎている、という論調がまた少し高まる状況になっています。
 
そもそも誹謗中傷はネット空間であろうとなかろうと良くないのですが、匿名性があるゆえに、安全な場所から他人を攻撃できるということで特にネット空間では行き過ぎてしまうきらいはあるのでしょう。
 

いったい何が誹謗中傷で、いったい何が建設的な批判なのかというのには別に明確な定義があるわけではないと思いますが、誹謗中傷というのは根拠がないとか、相手のためを思ってではなくて一方的な攻撃性を持っているとか、議論をしようとしていないただの悪口とか、そういうことになるのかなと思います。
 
ですので、芸能人のコメントや言動に対して批判をする、ということ自体は別に誹謗中傷ではないと思います。


 

批判は普通にある



会社でだって、なぜこんなミスをしたのかとか、納期を守れとか、業務指示を守れ、みたいな怒られ方はするでしょうし、スポーツでだって、ミスをしたりルールを守れなかったりすると怒られることはあります。
 
ただそこに、人格攻撃が混じってきたり、恫喝、脅迫みたいな用を呈してきたりすると、それは誹謗中傷であると言われても問題ないのではないでしょうか。
 
しかしながら、芸能人だって人間ですし、だれしも常に冷静で論理的にいられるなんてことはありませんので、たとえ建設的な批判であってもそれに対して感情的に反応してしまうこともあるでしょうし、そうしてしまうとそこに対してさらに様々な意見が寄せられる、というような流れができてしまうというのもありがちなのかなと思います。


 

わざわざ攻撃しに行く人



自分のSNS上で勝手になにかを意見しているだけならまだしも、わざわざ攻撃対象の人のSNSに意見をしに行く、という人もいます。
 
想像するに、されるほうはきついでしょうね。
 
嫌なら見なければいい、反応しなければいい、というものではなくて、そういう意見が1件でも自分に対して直接送られてきている、という事実が辛いものだと思います。
 
そして内容を読んでしまった日にはまあ気分はダダ下がりでしょう。
 
たとえそういう意見はほんの一部の人間の意見であるということが分かっていたとしても、そもそもそんな意見が1件でもきたらかなり嫌な気持ちがすると思います。
 
私だけかもしれませんが、業務上、誰かからの建設的な内容の批判メールが来たのを読んで、そしてそれに返信するのでも結構気分は下がりますから。
 
普段の生活で、自分の知り合いに意見するときにそんなに攻撃的にはならないでしょう、と思うのですが、ネット空間だとそうなってしまうのはやはり匿名だからなのでしょうか。
 
相手だってそんな知り合いと同じく人間で感情があるというのを少し想像するだけでも違うと思います。
 
もちろん相手に対して色々な感情を持つことも理解はできますが、悪口が言いたいなら知り合い同士で言って盛り上がるとか、ネット空間で言うにしても対象が特定できない形で言うとか、方法はあると思いますので、そういう方法を取ればいいのに、と思いますけれど。
 
わざわざ相手に直接言いに行かなくてもいいのに、と思います。


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楽して生きていきたい



 

苦労は買ってでもしろ、という言葉もありますが、楽して稼ぎたい、というのはほぼ万人に共通する思いなのではないでしょうか。

 

最近は、一時期よりもセミリタイア関連のネット記事の取り扱いも、やや盛り上がりが下がってきたかなとは思いますが、それでもいかに不労所得を得るか、というトピックは定期的に目にしますし、マルチ商法が大きく取り上げられたり、あるいは高収入につられて闇バイトやら強盗やらをするというニュースも目にします。

 

可能であれば、そんなに必死に働かずにお金を得たいというのは、私のようにセミリタイアを目指している人に限らず、共通の認識でしょう。



苦労はつきものかも

 


正直に言って、正当な手段で、十分な不労所得を手にするというのは、よほどの幸運でない限りかなりの努力を要求されるものだと思いますので、その不労所得の基盤を確立するまでの道のりは決して楽なものではないと思いますけれどもね。

 

投資をするにだって元手がいりますし、その元手をどうするんだというのを考えると、ある程度は努力しないと得られませんからね。

 

親が資産家だとか、宝くじが当たったとか、そういう幸運がないとすると、なんとかしてお金を稼がないといけませんし、子どものなりたい職業に挙げられるYouTuberだって、楽そうに稼いでいるように見えて、稼げるようになるにはかなりの才能と努力を求められるのだろうと想像できます。

 

もちろん、中には、お金を稼ぐというよりも、仕事が楽しくて、例えるなら仕事をゲーム感覚でしていて、お金は後からついてきているだけという人もいるでしょうし、確かに私にもそういう時期はありました。

 

そういうのはまあ特殊な事例でしょうし、もしそういう状況になれれば、それこそ天職で、ひとりでもそういう人が多くなれば、人生が幸せになる人も増えるのだろうなと思います。



外部環境もある


 

日本のバブル期なんかも、ものをつくれば売れる、給料や資産価値がどんどん上がる、だから物がまた売れるという好循環がまずあって、その上でそういう状況がずっと続くのだろうという期待感からよく働きよく遊べ、ができていたという話を聞きますし、思うにそれによって多くの人が幸せを感じていたのでしょう。

 

結果としてはそれが過熱しすぎたのと、その後の日本の政策が良くなかったがために長引く不況が訪れ、不幸せを感じる人が増えてしまったのでしょう。

 

本来であれば、楽して稼ぎたいというのよりも、楽しんで稼ぎたい、という思考の人が増えた方が精神衛生上も、経済的にもいいのでしょうけれども、実際にはなかなかそううまくはいきません。

 

先に挙げたように、子どものなりたい職業にYouTuberがランクインするというのも、もしかしたら子どもの目にはYouTuberが楽しんでいるように見える、というのが大きいのかもしれませんね。

 

子どもから見て、サラリーマンは疲れているように見える、楽しんでいないように見える、のは残念ながらその通りかもしれません。

 

ひとりひとりは頑張っていますし、楽しそうに見えないからと責められる筋合いは全くないと思いますけれども、実際問題として、子どもの憧れの対象にはなりにくいというのもその通りかなと思います。


 


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コストか投資か

 

 

香川県の県議会議員8人が海外視察を計画しており、ブラジル、パラグアイ、米国の3か国を周るそうなのですが、1人あたりの費用が260万円程度になるということで、市民団体が派遣人数を1人に絞る、あるいは派遣を中止する陳情を出していたようですが、結局は賛成多数で可決されたそうです。

 

税金が使用されているということで、そんな高額な海外視察を大人数でやる必要があるのか、という批判が市民側から出ることは理解できます。

 

詳細の行程は知りませんが、一応、県議会議員ですし、異動の大変さの軽減や安全面の確保を考えると、1人あたりの費用がそこそこ高額になるのはまだ分からなくはありません。

 

飛行機のビジネスクラスではなくてエコノミークラスで行けと主張する人もいると思いますが、体の疲れ具合を考えるとビジネスクラスの方がより快適ですし、なにより大切なのは視察ですので、視察の前にいたずらに体を疲労させるのは得策ではないだろうなと思います。

 

安すぎるホテルに泊まるとかも安全面を考慮するとあまりお勧めはできません。

 

それなりの都市でそれなりのホテルに泊まったら、5万円とかは普通にあり得ます。



大切なのは視察


 

そう、大切なのは視察であって、その視察によって例えば香川県の産業が盛り上がるとか、運営コストが下がるとか、そういう効果をもたらす可能性があるものになるのであれば、海外視察のコストはむしろ投資のようなもので、費用対効果で効果がより見込まれるというのであれば、むしろやるべきものなのだと思います。

 

税金を使う以上は当然、説明責任は求められると思いますが、だからこそ効果をちゃんと示すことというのが大切なのでしょう。

 

もちろん投資すればすべて効果が出るとは限りませんが、それは確かに海外視察に行く価値はあるね、ということを説明する義務は県議会側にはあると思います。

 

企業では、この出張って完全に遊びだよな、というのはそれなりにあると思います。

 

私の場合も、たたかれたらホコリが出る、という出張や経費はあると思います。

 

他の人の場合で、30分の打ち合わせのために海外のある拠点に出張する、なんてのがあるというのも知っていますので、そんなのただの遊びじゃないか、とも思います。

 

まあ、それでもそういう建前でいいので、理由をつけるということは1企業でも求められていることですし、税金を使用している県議会議員であればなおさらそれを明確にして、報告書のようなものもちゃんと出す、その上で香川県の振興につながるような具体的な政策に反映させる、ということをちゃんとやれば、文句を言われることもないだろうになと思います。

 

結局はちゃんと成果につなげれば、コストではなくて投資になりますから。

 

 

 


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早期退職者の募集



 

 

 

とある大手製薬会社でも、50歳以上の勤続5年以上の従業員を対象に早期退職者を募集するというニュースを読みました。

 

管理職クラスは対象外のようですが、退職金の割り増しや再雇用支援などを行なう予定のようです。

 

営業部隊が結構強い会社という印象を持っているのですが、研究人員よりかは営業人員が特に対象になってくるのでしょうか。

 

人によっては営業先との強い人間関係を構築している人もいると思うのですが、もちろんそういう人ばかりではないですし、50歳以上となると多くの会社でも多くの人が入社したとされる、バブル期の入社組が特に対象として当てはまるのでしょう。

 

その世代の人員が多いということは、年功序列の組織文化だったとしても管理職になれない人も多く出るでしょうし、一方で給与は大きくなる層でもありますので、会社としても人件費コスト削減のターゲットにしやすい、というのは間違いないでしょう。

 


建前と本音




形の上では、「グローバルな成長」や「新規事業の確立・成長」の実現に向けた人材ポートフォリオの見直しを目的とした今回の制度運用のようで、それについて間違っているという気も全くしませんが、対象となっている人はそういう目標実現のためには必要とされない人材なのだなということを明示しているような気もして、少し残酷な気もします。

 

いや、もちろん、そもそも働いているのかいないのか分からないような、いまいちな人材もいるでしょうから、一概に残酷とも言えないとは思いますが、人間、歳を取ってくると誰しもが新しい能力取得や新しい環境への順応は難しくなってくると思いますので、必要とされたくても必要とされない、という人材も出てきてしまうのかなと思うと、残酷だなと思ってしまいます。

 

一方で、会社としては、そんなこと関係なく、生き残っていかなければいけませんし、必要とされるなら待遇を上げてでも残すよということでしょうので、仕方がないと言えば仕方がないとは思います。

 


考えの変化




私も若いころは、働かないのに給料だけは高い高年齢層の方を半ば馬鹿にするというか、自分はなぜこんなに頑張っているのに給料が低いんだという怒りを覚えるというか、そういう心持ちでしたが、歳を取ってくると、なんとなくそういう人も会社には必要なのかなという気もしてきました。

 

若いころはその人たちも、低いお給料でがむしゃらに働いていたのかもしれませんし、まさに取り返している途中なのかもしれません。

 

なによりも、長年勤めている人であるからこそ、ある程度安心して仕事を任せることも可能、ということもあると思います。

 

残念ながら、本当に全く仕事のできなさそうな人もたまにいますけれども。

 

この1020年でも世の中は大きく変化していますし、私がさらに歳を重ねるころにはまた大きな変化もしているだろうと思われる中、セミリタイア云々の前に、会社に必要とされている能力を自分が持っていない、というような状況になるということもあり得るかもしれませんね。

 

そして、それは今の自分は会社に必要とされている、と思っている多くの人に訪れてしまう状況なのかもしれませんので、それが嫌なら社会人になってもずっと能力開発をするとか、その会社になくてはならない人になるとか、努力をし続けないといけないのでしょうね。

 

仕方がないけれども、厳しい世の中ですね。

 

 

 


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処理水の放出と科学的安全性






 

 

福島第1原発の処理水放出をめぐって、抗議行動が起きています。

 

国際機関のIAEAも、今回の放出に安全性の危惧はないということを報告していますので、科学的には問題ないというお墨付きも一応あります。

 

他国でも同じように処理水の海洋放出を行なっているという話もありますし、今回の件は政争目的に利用されているという声もあります。

 

その一方で、与党政治家の中にも、海水浴シーズンには放出を避けるべきと表明する人もいて、発言だけを聞くと安全性に本当に問題はないのか、というふうに思ってしまいます。

 

まあそもそもが、科学的に大丈夫という話と、心理的に大丈夫と思えるかどうかという話は違います。



不安は科学では解消しきれない


 

極端に言えば、ただの鉄の塊が空を飛ぶなんて安心できないから飛行機には乗らないという人がいたとして、飛行機事故が起こる確率はこんなに低いから乗っても大丈夫だという科学的根拠は意味をなさないのです。

 

ただし、だからと言って、その人が乗る乗らないの話以外に、飛行機を全く飛ばさないのかどうかと言われるとそういう話にはなりませんけれどもね。

 

今回の処理水の放出も、それをしなくてもいいならしないかもしれませんが、しないといけないからするという話で、するとなったら安全である必要があるからそれを科学的に証明してからにしましょう、という話の流れであると考えています。

 

で、科学的に安全であるからということはよくわかるけれども、それが心理的安全を保証はしてくれないことは明らかなので、風評被害が出るかもしれないし、そもそも自分たちが住んでいるエリアに放出されるからいやだ、という意見が出ることは良く分かります。

 

今回の処理水の放出に賛成の人の中にも、それを自分のエリアの川に流しますと言われたらいやだと思う人はいると思いますし、それは普通の感覚だとも思います。

 

どこどこ産の農産物はできれば避けたいな、という人は日本人の中にもいると思います。



不信感もあるのでは

 


そしてその感覚の背景には、そもそも科学的に安全っていうけれどもそれって本当なのかな、という100%信じきれない思いもあるのだと思います。

 

後から、実は、と言われても時すでに遅しですから。

 

そして、そもそもちょっと不安というのもあると思いますし、もしかしたら、今回の不信感をつくっている要因の一つに、これまでの政府や企業の対応があるのかもしれません。

 

例え、数値を細かく見せられたとしても、改ざんしているのではないかと疑う人もいるでしょう。

 

そういう不信感を軽減していくためにも、今後、政府や企業に求められているのは、今回定められたことをきっちりと今後も守っていく、ということだと思います。

 

なんだかんだで、実は定められた基準外のことをこっそりやっていましたというのが起こりがちなので、それで不信感を生むということをせずにやっていけるかどうかでしょうね。


科学的に安全とされた基準はせめて守れよと思いますが、意外に軽視されるのではという不安はあります。




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沈みゆく地元を思う



ずっと以前から小さい子どもは好きではありましたが、自分に子どもができてからはより一層温かい目で見ることができるようになりました。

 

ちょっとぐずっている子がいても子どもだから仕方ないよなと思えますし、ベビーカーを持って一人で階段移動している人を見かけるとお手伝いを声掛けすることが自然になったりです。

 

よく、自分が子どもを持つと自分の親の気持ちが良く分かる、と言われますが、それも確かにその通りですね。

 


子どもに優しくない面も



その割には、子どもが公園でボール遊びをする声がうるさいと苦情を入れる人がいて、公園でのボール遊びが禁止されるという良く分からない話も聞きますが。

 

私は子どもの頃に公園でボール遊びをする機会は少なかったと思いますが、それはなぜかというと、公園が小さくて、ボール遊びに適さなかったのと、いわゆるニュータウンで開発が進んでいたエリアだったので、まだ草っぱらがそこらへんにあったのと、大きめのグラウンドも歩いて20分もいけばあったということで、わざわざ公園でボール遊びをしなくてもよかったからに他なりません。

 


子どもの頃の思い出と今



そんな実家の近くでも今ではたくさんの家が建って、草っぱら球場と呼んでいたエリアもなくなってしまったので、帰省した際にはふと悲しくもなりますが、まああくまでも個人的な話です。

 

それだけ家が建ってはいますが、私が子どもの頃は、小学校のクラスが5つくらいあったのが、今では2つくらいになり、さらに1クラス当たりの規模も小さくなっていますので、エリアとして子どもの数が減っているのだろうと思います。

 

ニュータウンですので仕方がなくて、私が子どもの頃はいわゆる子連れの世帯が多く流入していたのが、子どもが大きくなり、都市部や他のエリアに移動する一方で、新しい家が建つことスピードも減っていったことで人口流入スピードが遅くなり、高齢化も進むので出生率も下がっていく、という流れがそのまま来たということでしょう。

 

私が子どもの頃にあった小さいスーパーや商店街はつぶれてしまいましたが、大手のスーパーが進出してきて、実家から徒歩圏内にも生協のスーパーがありますので、今のところ、買い物などには困ることはないと思います。

 

しかしこのまま実家エリアでの少子高齢化が進んでいくと、空き家も増えてくるでしょうし、そこで商売をしている人たちの生活にも関わってくるだろうなと思います。

 

高齢者向けのデイケアみたいなビジネスはもしかしたら機会があるかもしれませんし、実際にいろいろと進出が起きていますが、大変なサービス業であることも間違いありませんから簡単なものではありません。

 

都心部では、外国人が流入してきて、それまでそこに住んでいた日本人との軋轢が生まれている地域もあると聞きますし、心情的に、外国人が地元に流入してきてもらいたいとは思いません。

 

その一方で、人口動態の若返りを図ろうにも、今のままですとなかなか若い世代にとって、あえての魅力的ななにかはあまり見えないのかなと思います。

 

私の地元は静かに沈んでいくのでしょうか。

 

セミリタイアしたら戻りたいなという気持ちはありますけれどもね。

 

 

 

 


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誰しも悩みを抱えているのか




平和なニュースも色々とありますが、第三者的にみるとすごく恵まれていて、いわゆる人生の勝ち組じゃないか、という人がなぜそんなことをしてしまったのか、ということをしでかしてしまう、というニュースもよく見ます。

 

一見勝ち組に見えても、多くの人が悩み、不安を抱えており、またあるいは一瞬の気のゆるみから大失敗をしてしまう、あるいは人生を台無しにしてしまうのだろうなと思います。

 

実際に相手の立場に立つことはできませんから、心の奥底でどういう感情を抱えているのか、他人からは判断できません。

 

他人からすればもったいないなと思うのでしょうが、意外と本人からしたら追い込まれていて仕方がなかったということもあるのでしょう。



意外と誰しもが孤独なのか


 

私もストレスや悩みを抱えているときに、仮にそれを吐露した際に、相手から、まあそんなもんだよという反応をされることがありますし、逆に私がそういう反応をするということもあります。

 

自分の経験上、過去に同じような環境に身を置いたことがある人は、そういうことってあるよねと共感することはできるのですが、実際にはもう乗り越えている経験でもありますので、そんなこともあるよねという反応になるのでしょう。

 

しかし、実際に今、その環境に身を置いて悩んでいる人からしたら、その共感そのものは何の役にも立たないなんてこともあり得ます。

 

してほしいのは決して共感ではなかったりしますから。

 

そんなことでくよくよ悩まなくていいよという声かけも、場合によっては効果があるでしょうが、本人はそれを求めてはいないこともあるでしょう。

 

結局のところ、本人次第というのは究極的にはどうしようもありません。

 

本人が辛いと思うことは他人がどう思おうがその本人にとっては辛いのです。



とは言え


 

ただ例えそうだとしても、他人から見たら、そこまで悩まなくても、と見える、思えることがあるというのもまた真実だと思います。

 

そういう場合はたくさんあるのでしょうから、いい意味であきらめる、真剣に悩みすぎない、という心構えは人生をゆったりと楽しむためには大切なのでしょう。

 

言うは易し、でして実際に厳しい環境に置かれてしまったらそんな風には思えないというのが現実なのでしょうが、実際問題その心の余裕を持つ秘訣って何なのでしょうかね。

 

小さな幸せをいくつも持っておくとか、期待しすぎない、プライドを持ちすぎないとか、色々とあるような気もしますが、一筋縄ではいかないことばかりのような気がします。

 

 

 

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やりたいことがないセミリタイア志願者



 

 

会社のちょっと偉い人たち何名かと、飲みながら話をしていた際に、私がこれからどんなことをしていきたいのか、というのを質問されました。

 

絶対にこれがやりたいという仕事はないので、今やっている仕事のことも踏まえて、こういうことならさらにレベルが上のことをできる気はしますけれども、という答え方をしました。

 

すると、やんわりとではありましたが、できる気がするということではなくて、やりたいという強い思いがないとダメだ、ということを言われました。

 

その人は、人事などを差配する人ですので、人材を割り当てる際に意思を問いたくなるというのはもちろんあると思いますし、その人自身がこうしたいという思いをもって仕事をやってきているというのもその通りだと思いますし、質問そのものもどんなことをしていきたいのか、ですから私の答えでは答えになっていないのもその通りです。



でも困るんだよな

 


その一方で、私自身からすると、そんな質問されても困るんだよな、というのも正直なところなのです。

 

当然ながら、やりたいことがある方がないよりも良いのは間違いないと思いますし、仕事をしていても幸せだと思います。

 

就職活動中なんかも必ず問われますよね。

 

この会社で何がしたいのですかと。

 

その時にはっきりと答えられるかどうか、は確実に合否の分かれ目になると思いますし、求められるのはやりたいことがあることです。

 

ただ、今の私には、別に絶対にこれをやりたい、というものがないのです。

 

そもそも会社に入ってから、何かの専門性を高めるようなキャリアを歩んできたわけではなく、ある種便利使いをされながら、色々な業務を担ってきました。

 

その過程で、苦手な仕事や嫌いな仕事、得意な仕事や好きな仕事、というのはありますが、この仕事がやりたいという仕事は正直言って、ありません。

 

苦手なことや嫌いなことを避けて仕事をさせてもらえるならそれでいいですよ、というのが思いです。



ちゃんとやってる自負はある

 


セミリタイアを目指しながらも、とはいえプライドもありますので、どんなにつまらない仕事でも任された以上はきちんとやろうとは思いますし、実際にめちゃくちゃ成果を出すことはできなくても、合格点を出すくらいにはどんな仕事もやりとげてきているだろう、という自負もあります。

 

私の感覚をチームスポーツで例えるなら、このポジションが絶対やりたいというのはないけれども、試合に出してもらえるなら別に何でもやりますよ、というものに似ているかもしれません。

 

というのは、私の周りには優秀な人たちがたくさんいるというのを知っていますので、その人たちを差し置いて自分がそのポジションにつきたいとは思いません。

 

その人材配置は、組織からしたら、少なくとも短期的には損失だろうということが分かるのです。

 

そういうのを超えた、自分のやりたいことを主張しないと、と他の人から言われますが、そもそもそこまでの思いがないのです。

 

自分のやりたいことって、無理やりに見つけるようなことでもないよなあ、と思います。

 

しかし、よくそのことで説教じみたことを言われてしまうのですよね。

 

自分のやりたいことがある人はうらやましいと思いますし、そうあれれば素晴らしいことだというのも分かりますので、対応がなかなか難しいです。

 

 


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