子どもとの日々




子どもと週末に出かけていると、他の親御さんもお子さんを連れて出かけてこられているのを目にします。

 

そうすると、どうしても他のお子さんと自分の子どもを比べるということもあります。

 

比べると言っても、何ができるとかできないとかいうことや、なにかしらの優劣のことではなくて、立ち振る舞いや反応の違いみたいなことなのですが。

 

感想にはまあ親バカも入ってのことになると思いますが。


まず、私の子どもはやや照れ屋さんというか、シャイな部分があると思っています。

 


特徴



他の人にとてもニコニコするので、その他の人がちょっかいを出してくれることもあるのですが、そのちょっかいに対しては控えめというか、恥ずかしがるようなそぶりを見せます。

 

他の人にニコニコするので、社交的なのかなという思いもあるのですが、かといって他の人の方に向かっていくというようなこともなく、それは大人に対しても子どもに対しても同じような感じで、少なくとも私が一緒にいる際には、他の子どもを遊びに誘う、というようなことはないような気がします。

 

加えて、結構反応が大きいというか、驚きの感情や喜びの感情を大きめに表現するなと思うことがあります。

 

その大きさは、周りの人がびっくりして振り返ってしまうくらいのもので、自分の好きなものを発見した時の心の底から出てくるような感情の表現ともいえるような気がしており、そういう反応が出ると私としてはとてもうれしく思います。

 

その反応を見て、ああこれが好きなんだな、楽しいんだな、ということがわかってうれしいというのはもちろんのこと、そのような体験をさせてあげられたことに対しても自分がうれしく思うというか、役割を果たしたというのとは違うかもしれませんが、子どもに体験をさせてあげられてよかった、という幸せを感じるからです。

 

私自身の性格もあると思うのですが、あまり感情の起伏が大きくない自身にとって、うれしい、うれしくないというような感情を抱くことも生活の中ではそんなに機会もありません。

 

仕事をしていても、安心した、ということはたくさんあるのですが、それがうれしさであるかというとそうではないような気もしています。



子供への感情

 


そんな半面で、子どもの一挙手一投足に対しては単純にうれしさや幸せを感じるというのが日々の楽しみでもあります。

 

もちろん、思った通りに行動してくれないことが多いですので、その点は大変ではあるのですが、まあ子どもなんだから仕方がないよなというあきらめというか、受容できる気持ちがあります。

 

頭ごなしに怒る、声を荒げて怒るということをしたことがありませんので、それがいいことなのかどうかは判断しかねますし、場面によってはよくないことでもあるとは思うのですが、自分は子どものことが好きなんだろうなというのは実感しています。

 

子どももそれは分かってくれているというか、もっと言えば、私は怒らずに優しいということが分かっているのでしょう。

 

妻に怒られて泣き始めると、私の方に寄ってきて抱きしめてくれと訴えかけてきます。

 

そうやって寄ってきてくれると大変うれしいものです。

 

 


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ミドル層の苦悩と見栄




再雇用や出向後も、昔の肩書に縛られるミドル層がいる、という記事を読みました。

 

まあ、いる、ということであれば一人でもいればいると言えるわけですので、多くの人はそんなことはしていないものとは考えていますが、私の両親の話を聞いていても、確かにそういう方はいる、みたいですね。



こんな人


 


具体的には、すでに退職した前職時代の肩書の入った名刺を持ち歩いていてそれを配る、とか、あるいはわざわざ名刺を作成して、元、と但し書きをした上で配っている、とか、自己紹介の際に以前はどこそこで部長をしていました、と言うとか、そういう感じです。

 

新しい会社に再雇用で入った後も、前職時代の名刺を配るだなんていう話も記事にはありました。

 

そういうのを聞くと、まだまだ将来がある若い世代は、老害、恥ずかしい行動、などと感じるのかもしれません。

 

私も、こういう話を聞くと恥ずかしいと思いますし、私自身別にプライベートでこういう役職ですとか自己紹介しないですし、確かにやりすぎだよなと思います。



自分は大丈夫?


 

ただ、いざ自分がセミリタイアなり定年なりで退職した後に、自分としてのアイデンティティをどう持つのかを考えると、気持ちとしてわからなくもないかな、と思います。

 

要するに、長年、どこどこの誰誰ですっと、会社名を所属先として自己紹介をしていた人たちが、ある時その所属先がなくなってしまう、あるいはその所属先が持つ名前の効果がなくなってしまう環境に放り出されたときに、自分が何者だったのかが分からなくなる感覚、ある種の寂しさみたいなのがあるのかな、と思うのです。

 

例えばある企業、そしてそれが大企業であった場合には、自己紹介をどこかの場でするときには、どこどこ会社のどの部署のこの役職の誰誰です、という自己紹介をするのが普通なわけです。

 

そして、それを繰り返すことで、それが自分なんだという意識が刷り込まれていくのだと思うのですが、それがある瞬間になくなってしまうわけです。

 

そして考える。

 

あれ、自分て何なんだっけ?

 

なんだかんだいっても、どこかのコミュニティに所属しておきたいと思う人が多いのではないかと思いますし、もしもかつて自分が誇れる組織に所属していた経験があったなら、それを主張したくなる気持ちもまあ分からなくもないなとは思います。

 

誇れる会社、誇れる役職なら自然と言いたくもなるでしょうし。その気持ちまでは否定はできません。

 

もちろん、そういう主張をする人は滑稽だとは思いますけれども、自分のことを考えると、あまり簡単に馬鹿にしてもいけないかもな、とも思います。

 

実際に、再雇用になった後も、会社で以前までの職位についているかのようにふるまってしまう人というのは、意外と身の回りにいるのではないかと思いますし、私もそうなる可能性は十分にあります。

 

逆に言うと、その他に何か自分の自己紹介になるようなこと、自分が知ってほしいこと、誇れること、そういうものを仕事以外にもきちんと持っておく、というのが人生を豊かにするためには必要だということなのでしょうね。

 

そうすれば、仕事に関わる経歴に固執することもなくなるのではないかと思います。

 

 

 


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未成年飲酒と不祥事




とある名門大学のアメリカンフットボール部の部員が、部に所属しているとわかる服装時、または部の活動中及び、その際の登下校中の喫煙飲酒を禁止する、という部内規定に抵触したとして、退部処分になり、部も活動停止になったそうです。

 

中には未成年で飲酒をした部員もいたということですし、当初は対象者を退部としたうえで、対象外の部員のみで活動は継続するという方針を取ろうとしていたところ、大学側からNoが突き付けられたとのことです。

 

過去にも不祥事を起こしたことがある部のようで、そういうこともあって厳しい処分が下されたものと思われます。



何が起きたのか?

 


たしかに、ニュース記事を読む限りは、活動継続を探っていた中で、部内で今回のことを少し隠ぺいをするような発言があったとか、そもそも未成年飲酒があるのに処分が軽くないのかとか、過去にも不祥事があったなら不祥事に対してのとらえ方が軽い、自浄作用のない部なのではないかとか、そういうネガティブな部分も読み取れます。

 

まったくもってけしからん、というのは簡単ですし、確かに擁護できることは何もないのですが、一方で過去の自分の経験を踏まえると、かわいそうだなあ、という感情を持つというのも正直なところです。

 

もちろん時代は違うでしょうし、そもそもが良くないことでもあって、何一つ誇らしげに言うことでもないですが、我々が大学生の時代を振り返ると、未成年でも酒飲んでいる人が大多数だったよね、と思うのです。


部内規定とかはなかったですが。

 

最近では、飲み屋さんで年齢チェックが行なわれるみたいな話も聞きますが、私の学生時代、4月は大学近くの飲み屋さんは基本的に新歓コンパの名のもとに予約でいっぱいでしたからね。

 

あんなの、未成年飲酒で一網打尽にできますよ。

 

今の時代がどうなっているのかは知りませんし、もちろん、むちゃな酒の飲み方をして死に至る人もいて、それは避けなければならないことであることに全くもって反対の余地はありません。

 

どこの大学のどの部に所属しているのかがわかる格好で、お酒を飲んで、周りに迷惑をかけると、自分たちの部だけではなく大学全体に迷惑をかけるというのもありますし、そういうことをするなという部内規定があることにもなんの反対もありませんので、処罰されるのは仕方がないなと思いますし、大学側としたら厳しい態度を取らざるを得ない事情があるのも良く分かります。

 

その一方で、自分のことを思い返すと、部活名を名乗った上で新歓コンパをしていた自分は、自分の友人たちはいったい何なのだろう、と思ってしまいます。

 

いや、未成年飲酒はよくない、という論調もよく分かりますよ。

 

でも、ほとんどの人がなんだかんだで未成年飲酒をしていたでしょう?とも思いますので、自分のことを棚に上げて、正論だけでたたいているのはなんか違うんじゃないですかね?とは思うんですよね。


人の人生がかかってくると、そうも言ってられないのもわかりますが。

 

 


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不毛な飲み会を考えるセミリタイア志願者

 



一昔前なら、当たり前に行なわれていた、終業後の今日暇?飲みに行く?という会話ですが、最近は様相が変わってきている面があるらしいです。 

いや、なんなら今でも、当たり前のように行なわれているような気が個人的にはするのですが。

 

私は知りませんが昭和の時代にはそれこそ当たり前でしたでしょうし、中には、いったん仕事を切り上げて飲みに行ってから会社に帰ってきて仕事をするなんてこともあったと聞きます。

 

私が知る平成の時代においても、終業後しばらくすると、今日の飲み相手を探しているお偉い方々がフロアをうろうろする、なんて光景はありましたし、同僚同士でもちょっと夕飯でも食べて帰ろうかと言いって、居酒屋に行くなんてことはそれなりの頻度であったと思います。

 

私が勤めている会社の場合、たとえ上の人からの誘いであっても、断りたければ断ってよい、という雰囲気がありましたし、嘘であっても今日はもうちょっと仕事がありましてとか、今日は予定がありますと言えばよかったですし、何よりそうやって誘われると、基本的にはその誘ってきた人がお金を払ってくれる、という状況でした。

 

ですので、夕食の準備を自分でしなければならない独身の人にとっては、時間は確かに取られて、上の人との会話に参加もしなければなりませんが、金銭面でいえば1食分が浮く、さらにお酒も飲める、というメリットもありました。

 

なんなら、仕事は酒の席で進むとか、ちょっとした仕事の根回しを酒の席を利用してやるとかもありましたし、なによりコミュニケーションの場として人間関係を構築する、強化することにつながっていたのは確かにあるなと感じます。

 

やはり、よく飲みの場に参加してくる、つまりは誘いを断らない相手は、上の人からしてもかわいいでしょうしね。

 

そういう思いに至るのは仕方ありません。



酒の場でしか話せないこと

 


よく、酒の席でしか話せないことってなんだ、とか、そんな話は会社で相談すればいいではないか、という正論を聞きますし、それは確かにその通りだと認めざるを得ません。

 

仕事の話であれば、仕事の時間の中でオープンに議論をしあえばいいのは間違いありません。

 

ただし、たとえそれがそうあるべきであったとしても、ちょっとリラックスした雰囲気の中で、ざっくばらんに話をすることで、互いの理解が進む、あるいは創造力豊かに自由な意見交換ができるという効果そのものまでは決して否定できないのではないでしょうか。



ただ不毛な飲み会はある

 


だから終業後には飲みに行くべきだというと、昭和脳と揶揄されるのかもしれませんし、実際に私も、飲みに行きたければ飲みに行けばいいんじゃないかとしか思っていませんが、昨今はこの飲みの誘いそのものが良くない、という風潮もあるようです。

 

なんというか、パワハラに近い、アルハラというのでしょうか。

 

上の立場の人からお酒を飲むことを強制される、つまらない話を聞かされる、説教される、しかもひどいときは割り勘。

 

一方で、上の立場の人はそういう習慣を経てきているので、ある種当たり前のことだと思っていて、悪気があるわけでもない、という感じです。

 

テレワークをする機会が増え、そもそも対面で仕事をする機会が減少していることもあるでしょうし、そもそも楽に生きたい、という価値観が広がっていると思えるような社会で、仕事の延長かのような飲みの場に誘われることに抵抗を覚える人が増えたとしても別に不思議ではありません。

 

特に、つまらない話を聞かされる程度ならまだしも、説教されるとかは食事も美味しくなくなりますし、割り勘とかは本当なにをしているんだ、と思うのは私も思います。

 

そんな飲み会には私も行きたくないです。

 

まあ、それをアルハラとまでは私は呼びませんが、間違いなく不毛な時間ですよね。

 

いや、いまだにそういう飲み会に連れていかれることはあるのですけれどもね。

 

中には、いつも頑張っている部下や自分よりも年下の同僚を労う気持ちで、食事に誘ってくれる人もいますので、そういう会には参加したいと私は思いますが、そもそもそういう主旨や目的ですら避けようとする世代が会社に入ってきている、そんな時代なのでしょうか?

 

そうなってくると結構難しいですね。

 

私も、比較的古いタイプの価値観を持っている人間ですので、注意が必要ではないかと思っています。

 



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間に挟まれるセミリタイア志願者


事をしていると、誰かと誰か、あるいはある組織と別の組織との間に挟まれることが多く、時には調整役として動かねばならないのですが、調整役として動いたら動いたで、なぜこっちの味方をしないんだ、と不満をぶつけてくる人もいます。

 

いやいや、私は別に、あなたのやりたいことを100%かなえるために味方として動いているわけではなくて、最善策はなにかを自分なりに考えながら調整をしているだけですよと思いますし、文句があるなら直接に相手方とやり取りしてくれればいいのにと思うのですが、それはそれでしようとしないので、なんだか文句を言われっぱなしになってしまいます。

 

個人的に、基本知識しかない専門技術やプロセスについて調整役として間に入っているので、自らが何かを具体的な形としてやり取りをすることは難しいのですが、そうではあっても、双方がどういうところで折り合っていないのか、ということは見えますので、もしも相手方に納得してもらいたいのであれば、こういうことをちゃんと伝えた方がいいですよ、こうすればもっと相手方の理解が進みますよ、というアドバイスもするのですが、そういうのはあまり対応してくれません。

 

まあ、それは私がそういう専門技術やプロセスに詳しくないからこそ言えることなのかもしれませんが、もしも私が誰かに何かを納得してもらおうと説明をする際には、相手方に伝わりやすいこと、相手側にもメリットがあることを目指しますが、そういうのをせずにただ意見を相手に受け入れてもらいたいというのでは、ただのわがままだよなあと思います。

 

私が自分なりに整理できることであれば、要するに、これをやるとこうなるので、みんながハッピーになれる状況が作れるということですよね、という展開もできなくはないと思うのですが、そもそもそこのそれをやったらどうなるの?を私が良く分からない以上、それを明確にしてもらえないと、私も良く分かりませんが、あの人たちがやりたいみたいです、という話しかできません。

 

それって実は何の説得力もないことなんだけれどもな、ということを分かってもらえないのがつらいところです。

 

それで、私が味方になってくれないって怒られてもどうしようもないんだけれどもなあと思います。

 



私は常に味方じゃない



そもそもが別に無条件に味方になるわけではないですし、全体から見て正しそうな意見を採用して進めたいだけですので、私が納得していないことについて誰かを納得させようとは思いませんし、たぶんそんなことは無理です。

 

そういう人に対しては、相手が理解できないのは相手のせいだという姿勢があるのではないかなという風に思ってしまい、単純によろしくないなと思ってしまいますね。


まずは私が味方になれるように私を説得できますか?とも思いますが、そんなこと直接言ったら炎上案件ですから、うまく伝えられるよう四苦八苦しています。


他の人は一体どううまく振る舞っているのでしょうか。

 


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子どもと遊ぶセミリタイア志願者




子どもとゆっくり遊べるのは休日くらいしかありません。

 

休日には平日の疲れが残っていたり、ちょっと仕事をしなければならなかったりと、決して体力や時間の余裕があるわけではないのですが、それでも子どもと遊んでいるととても楽しいです。



成長を楽しむ

 


ちょっと甘えん坊というか、すぐに抱っこをねだってきてそれはそれで大変ではあるのですが、それでも一生懸命に遊んで楽しそうな姿を見ると、とてもうれしく思います。

 

時に、この遊びがしたいと自分で主張して、じゃあそこに行こうかなんて会話をしながら遊び場所に行くこともありますし、そういうやり取りがとても楽しいです。

 

まだ遊び足りないところを、大人の都合で帰りたいとか、私が疲れたとかでちょっと早めに遊びを切り上げることもあるので、常に遊びたいだけ遊ばせているかというとそうではないところがあって、それは少し申し訳ないとも思いますが、それでも遊び場所から離れて抱っこをするとすぐに眠りにつくことがほとんどなので、まあ満足できる程度には遊ばせることができたのだろうと思うようにしています。

 

帰りたいときは自分で帰りたいという意思表示をしますので、そういう際は分かりやすいですけれども、時にはまだ帰りたくないんだろうなという姿も見ます。

 

泣き出して、もっとここにいたいというようなことを意思表示する際は、遊びが楽しかったんだろうなと思う瞬間です。

 

変な話ですが、そうやって泣いている姿を見るのもまた楽しみというか、ああここは楽しかったんだなということが感じ取れて、また連れてきてあげたいなとか、別の場所でも遊ばせてあげたいなということを感じます。

 

大人の力で抱っこをして、半ば無理やりに遊びを切り上げさせるのはやはり申し訳なくはありますが、それはもうある種仕方のないこととして割り切っています。

 

世の中の親御さんたちはいったいどうやってうまいこと対処されているのでしょうか?



これから

 


いずれにせよ、休日を子どもと過ごすことの大切さを実感していますし、そのためになるべく平日頑張って仕事をして、なるべく休日には仕事をしないことを心がけようと思いました。

 

相変わらず、仕事関係のメールは休日にも受信しますが、ちらっと見はするものの、返信はしないなどの対応を取るようにしています。

 

休日に作業しないだけでも子どもとの時間はとりやすくなりますので、今後もこれを心掛けていきたいなと思います。



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出社についての話題





テレワークから、オフィスへの出社を促した、とある米国の企業のCEOが、出社するために従業員が家族の愛犬を売却した従業員の行動を称賛したことが、愛犬家から叩かれているようです。

そういう行動をしてまで出社せよということかとか、愛犬を手放すなんてとんでもないとか、いろいろとあるとは思いますし、そもそも愛犬は単なるペットではなくて家族だ、とか、いろいろな価値観はあると思います。

背景がよくわからないところもあるので、難しいですが、個人的にはそれが叩かれてしまうんだなあ、というのが、正直な感想です。

CEOの人が、出社できないなら愛犬を手放せと強制したわけでもないと思いますし、従業員の判断としてそうしたことを賞賛しただけじゃないのかと思います。

確かに、このことによって、愛犬がいるから出社できませんという理由を他の従業員が使うことは難しくなりましたから、CEOの立場を利用したある種のパワハラと捉えられるかもしれませんが、別に犬を飼うなと言っているわけではなくて、出社しろというのがメッセージで、そのために愛犬を手放すなんて、そこまでしてくれてありがとう、というだけじゃないのか、と思います。

愛犬が家にいるから出社できないという環境の方が異常ではないかとも思う私は、やや昭和脳なのかもしれませんが、もし出社するには愛犬を家に置いて置けない環境があるなら、その環境をまずなんとかしようとしたでしょうし、それができなかった上で、会社と愛犬を天秤にかけて会社を優先したのだと思います。

ただそれだけです。

まあ、それをあえて称賛する必要はなかったかもしれませんけど。

ただのペットではなくて、家族の一員であれば、手放すという行為そのものがよくない行為なのに、それを称賛するなんて、というのはわからないでもないですけどね。

ペットは飼いたいけど、事情があるから飼わないでおこうか、という判断は多くの人がしているでしょうし、このCEOがコロナ禍でペットを飼うことを推奨していたわけでもないでしょうからね。

会社の方針である出社を拒否したらクビにされるかもしれませんし、生きていくために転職をしないのであれば、愛犬を手放さざるを得なくなるのもまあいたしかたなしかもしれません。


会社でもあります


会社にも、私は出社しませんと頑なに主張する人もいますが、その上長は苦労してますね。

成果を出しているからいいでしょ、という事かもしれませんし、それはそうなんですけど、難しい話題ですね。




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セミリタイア志願者の健康管理



徐々にジョギング継続の効果が出てきたのか、体重が少しづつですが減ってきて、かつ減った状態でキープができるようにもなってきました。

 

運動と共に、そもそも食べる量を調整するようにしていますし、お酒を飲む量も減っているので、カロリー摂取そのものが抑制されている効果も大きいと思いますが。

 

炭水化物を取りすぎないようにして、たんぱく質や食物繊維などを多めに取るようにするとよいという大雑把な知識はあるのですが、実際にはあまり詳しくない中、とりあえず、炭水化物を取りすぎないようにはしています。

 

例えばですが、外食をしてもポテトフライとかその他揚げ物は少し控えめにするとかの簡単な心掛けです。



ストイックでなくていい

 


YouTubeを見ていると、いわゆる筋トレYouTuberというのでしょうか、そういう人たちが食事についてのアドバイスをしています。

 

そういうのを見ていると、かなりストイックだなというか、そこまでしたくはないなというのが正直なところですが、参考にはなります。

 

私の場合、おいしいものを食べるというのが幸せなので、食事は食事で楽しみたいという思いはあります。

 

筋トレYouTuberの方たちは、それ以上に筋肉を鍛えることが幸せに感じるので、我慢もできるのでしょうし、むしろ楽しめるのかもしれません。

 

体重は少しづつ減っているとは言っても、まだ20代だったころの体重に比べると重くなっています。

 

いったいどこにその重くなった脂肪があるのだろうかと、一見すると分からないのですが、体の内部に脂肪が詰まっているのでしょうか。

 

20代だったころの、個人的にベストだったと思われる体重に戻すのは至難の業かもしれませんが、健康な体にするためには、もう少し体重を絞らないといけないかもしれませんし、なんならやはり筋トレもした方がいいのだろうか、と思う時があります。

 

その筋トレYouTuberの人たちはこぞって、体重を減らしたいならまずは筋肉量を増やせと主張しています。

 

そうすれば基礎代謝が上がるからという理由なので、確かに合理的なのですよね。

 

例えば私の場合、ジョギングをやめたら消費カロリーが減りますので、また元通りの体重に戻っていくかもしれませんし。

 

いや、それはまあ、筋トレをして基礎代謝を上げても、筋トレをやめたら元通りになるのですけれども。

 

 

 



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新たな業務が始まりそうな予感




いくつかプロジェクトベースで業務を進めているのですが、つい先日上長から呼ばれ、新しい業務対応をしてほしい、と言われました。

 

説明の中では、今回の業務は他部署が中心に進めているものではあるが、手が足りないということでサポート対応してほしいということでした。

 

今回の業務の背景を説明された後、上長からは非常に短期的で終わることが予想される業務で、恐らく資料作成などで手を動かすことを求められるであろうということと、それくらいならばサポートできると考えて、他部署の依頼にも同意したので協力してほしい、というように言われました。

 

背景の説明を受けた際に、裏では結構でかい力が働いていそうだなと感じたのもあって、今回の仕事は何かプロジェクト組織がつくられて動いていくような類のものなのでしょうか、とは私から尋ねたのですが、返答としては、いやそんなことはなくて、確かにでかい力のうごめきはあって炎上しそうな状態ではあるものの、まずは急ぎ鎮火のために対処療法的に取り組んでくれたらそれでいいよ、というように言われており、そんな感じなのかととらえていました。

 

まあ確かに、大きい力が動いている類の業務であれば、本来は上長が入って対応すべき案件になってくると思いますし、そうなっていないのであればまあ本腰を入れて対応というよりかはその場しのぎの対応でまずはしのぐ、ということなのかなと考えていました。

 

説明を受けて、そういうことであれば分かりました、というように受けました。



しかし

 


しかし、ふたを開けてみると実は結構重めのプロジェクトであるということが分かりました。

 

煙が上がっているので消防活動をやってくれという類の話ではまったくなくて、むしろ整地して高層ビルを建てろ、という話でした。

 

しかも、海外とやり取りをしながら進めるというような話になっており、かつ、私以外に日本人がいないということも分かりました。



聞いていた話と違う

 


少なくとも、上長から聞いていた話とは全く違っており、いったい上長はどんな議論をした上で、同意するという判断をしたのだろう、ということがかなりの謎でした。

 

同意をしたことはもうしてしまったことですので、いまさらどうこうという話をしても仕方がありませんが、少なくとも上長の理解とは異なる業務内容なわけですから、そもそも上長が話をちゃんと聞いていたのかどうかすら怪しいと思いました。

 

いや、もちろん、もしかしたら上長もある種、騙されたのかもしれませんので、上長の責任なのかどうかというのは私には明確には分かりません。

 

分かりませんが、おかしな話だよなと思います。

 

野球で言えば、前の打者がランナーで出たら送りバントのサインを出すからな、と言われていたので分かりましたと答えて、実際に前の打者がランナーで出たら、フルスイングでホームランを狙え、とサインが出たくらい、ではあの指示は何だったのだろう、状態です。

 

せめて、バントの指示を伝えたときはこういう状況だったのが、こう変わったので、結果的にサインはこう変える、ということが後出しでもいいから分かれば、まだ納得感は深まりますが、そういうのもないので、ただ謎です。

 

むしろ、私は状況に応じてサインは変わらないんですか?と確認したら、変わらないと言われていたようなものですし。

 

しかし、炎上注意な案件を多く担当させられます。

 

これはまたストレスがたまるだろうなと思います



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リタイア後の余暇を楽しみたい




ピーコさんが行方不明というニュースが出ていましたが、どうも真相としては認知症を発症されて施設に入居されているということのようです。

 

年齢としては78歳ということで、確かにご高齢ではありますが、それでもあれだけ昼間のワイドショーに出ていて活発なコメントをされていたような方ですので、そんな方でも認知症にかかってしまうのかという事実に愕然としたのが正直なところです。

 

私がまだ10代の頃にワイドショーに出られていたのを目にした記憶がありますので、ざっくり20年前になるのでしょうか。

 

よくしゃべるエネルギッシュな人だなあと思ってテレビを観ていたと思います。

 

そんな方でもなってしまうのでしょう。

 

認知症という名前なので、病気のようにも思えますが、多かれ少なかれ誰しもが経験する衰えでもあるでしょうし、長生きすると抱えてしまう自然の対価とも受け取れるかもしれません。

 

ピーコさんも数年前から認知症っぽい症状があったということですが、認知症になってしまうと、健康的に生きている、という状態とは言えないだろうと思います。

 

仮に75歳くらいまでは認知症もなくお元気にされていた、と仮定しましょう。

 

もちろん、世の中には大変お元気で健康に過ごされている高齢の方はたくさんいますし、だからこそシニア世代のさらなる活躍とか、定年延長なんて話が出てくるわけですが、仮に70歳まで立派に勤め上げたとしても、75歳で認知症を発症してしまったら、リタイア後の猶予は5年しかありません。

 

5年を長いと考えるのか短いと考えるのかは人それぞれだと思いますが、個人的には5年しかないのか、短い、と感じます。

 

一生懸命頑張ってきて、よし少し余暇を楽しむかと思っていたら5年しかないのです。

 

もちろん、長いと感じる人もいるでしょう。

 

もしも暇で何もやることがなかったら、5年という時間はかなり長く感じるはずです。

 

特にそれまで仕事で頑張ってきた人にとっては、暇な時間というのは意外と苦痛に感じるかもしれません。

 

そういう私も、暇すぎたら暇すぎたで、無駄な時間を過ごしているような感情に襲われてしまい、何かをしないと、と焦りを感じたことがあります。

 

学生時代ですらそう感じたことがあるのですが、端的に言うと、自分が目標も何もなくただ時間を過ごしているだけだと感じた瞬間に、このままではいけないと思ったのです。

 

当時の私の判断そのものは正しかったと思っていますし、これまで何度もブログでも書いてきたように、私自身も若い年齢で完全にリタイアしてしまうことは考えていません。

 

細々でもいいから、働くのは働いていたいのです。

 

しかし、バリバリやるのは今までも十分にやってきましたし、あくまでもほそぼそでいいのです。

 

そんな中で、70歳までは働いて、そこから5年間の余暇を楽しむぞ、ではなくて、例えば70歳に至るまででも趣味やリラックスの時間も常に持ちながら、人生を過ごしてきたいと思うのです。

 

そもそも70歳まで生きられるかどうかも定かではないのですから、我慢のし過ぎにメリットはありません。

 

 

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楽しそうに生きているように見える他人



 

人生を楽しく生きていそうな人を見ると、とてもいいなあと思います。

 

妬みということではなくて、ただ、いいなあ、という感じです。

 

私も別に、楽しんでいないわけではないですし、むしろ楽しんでいる方だと思うのですが、それでも限界はありますし、まあないものねだりというか、他の人には他の人なりの苦しみや不安もあるのでしょうし、決して私から見て楽しそうに生きている人が能天気に生きているわけではないと思いますし、ある人から見れば私もまた楽しそうに生きているのだと思いますが。



不満や不安の根源

 


他の人は楽しそうに生きているようでいいなあ、というのは、自分はそうじゃないと思うから感じているのだと思います。


そうすると、果たして私は何を不満や不安に思っているのだろうか、ということが気になってきます。

 

冷静に考えて、決して恵まれていないわけではないですが、自分は楽しそうに生きているとは思っていなくて、その原因があるのではないかと感じます。

 

いったい何が解消されれば、私は満足するのか、が分かれば、そうなるようにすればいいわけです。

 

というように考えてくると、なんとなくですが、私が抱えているのは不満や不安の正体は、けっしてこれだというように明確に示せるものではなくて、あくまでも漠然とした現状への不満と未来への不安、としか表現できないのではないかと思ってしまいます。

 

つまり、どこまで行っても解消されない性質のものであって、ある種、うまく付き合っていくしかない類のものなのではないかと。

 

もちろん、パワハラ気味の上長は嫌だ、とか、面倒くさい仕事ばかり押し付けてくるあの部署が嫌だ、とか、そういうのは確かにありますし、もしかしたら一時的にはそれも解消できるかもしれませんが、人生を過ごしていく上で、あるいは会社で働く上では、恐らく今後もそのまま、あるいは形を変えて出会う可能性のある要素なのではないかな、と思います。

 

今、手元に1億円が手に入ったとして、ならそれらの今気になっていることが気にならなくなるかと言えばそんなこともないでしょうし、もしかしたらそうなったとしても、今度は別のことが不満、不安要素になってくる可能性があります。

 

人生でやりたいこととかがはっきりあれば、それを目指している間は多少和らぐのでしょうけれどもね。

 

人生の目的がないのがダメなのでしょうか。

 

短期的なものでいいので、これを達成するぞとか、何かあればまた心持ちが異なってくるのかもしれないですね。

 

 


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新制度に驚くセミリタイア志願者




ある日本企業が海外に赴任せずに、リモート勤務で海外現地法人の業務に従事できる制度を導入するようです。

 

海外の人が日本法人の業務に従事する、日本の人が海外法人の業務に従事する、ということが可能になるので、多様な働き方の一つとして、ということらしいです。

 

子育てや介護の事情があるので、海外転勤できない人を活用するための方策でもあるようです。


私はこの制度の詳細は知りませんので、あくまでもただの個人的な感覚の話です。

 

実際に運用されてみないことには、これがうまく運用されるのかどうかというのは分かりませんが、結構危険な試みでもあると私は思っています。


もちろん、考えられた上での制度でしょうから、私の懸念は杞憂の可能性も高いでしょが。



時差はでかい

 


まず一つは時差の問題です。

 

時差が少なければ問題はそこまで大きくならないとは思いますが、時差がありすぎる場合、コミュニケーションを取るのに時間がかかります。

 

場合によっては早朝とか深夜にメールを確認、発信しなければいけないこともあると思います。

 

メールのやり取りだけではなく、会議が開催される場合はどうするのでしょうか?

 

もちろん人それぞれでしょうし、私がそれは嫌だというだけかもしれませんが、そういうのが頻発すると結構、体の負担になります。

 

私の場合、日本と欧州と米国をまたいだ会議に参加することがあり、その際に日本の深夜に会議に出ることがあります。

 

断ってしまえばいいよね、という意見もその通りかもしれませんが、日本から私しか出ない会議の場合、そして私の意見も求められる場合は出席するしかありません。

 

もっというなれば、そういう3拠点で会議をする場合は誰かがババを引くのです。

 

しかしながら、結構つらいですよ?

 

私の場合は日中は日本国内の人と働きますが、周りの人は、深夜に会議があるとか知りませんよ、という態度が当たり前ですし、それは当然です。


また、現地法人の仕事だけをやるのでしょうか?


ある国にいるならその国に法人の仕事もやらせよう、となりがちですが、それはないのでしょうか。



 コミュニケーションそのもの



次に、コミュニケーションの深さ、現地への理解の問題です。

 

なんだかんだで仕事は人間関係で回ります。

 

現地にいて顔を合わせないでいても仕事をある程度回すことは可能ですが、それでは現地でどういうことが起きているのか、というところまではやはり理解しにくいのです。

 

もちろん、正論や論理ばかりで仕事が回るのであればそれも可能かもしれませんが、実際問題そういうことはありませんし、現地のことが分からないままであれこれ言われたら、誰だって嫌ではないでしょうか?

 

いわゆる経営戦略部とかに対して、あるいは企画部門の人に対して、あいつらは机の上だけで考えている、とか、文句言う人多いですよね?

 

同じ国内だってそういうことがどうしても起きるのです。

 

現地にいないと、その現地の内情はやはりわかりにくくなりがちです。

 

その状態で仕事をしてもなかなかうまくいかないのではないかと思います。


オンライン環境が整備されても、オンラインだけで人間関係わつくるのは簡単ではないですよ。



仕事の質

 


最後に、これは現地への理解ともつながるのですが、現地に行かずに現地の仕事をする、ということができる仕事って、すごく定型的な仕事でしかないのではないか、と思うのです。

 

ITサポート部門をインドに置く、という例が分かりやすいかもしれません。


電話やメールだけで事足りる類の仕事です。

 

言い方が悪いかもしれませんが、それはあくまもでサポートであって、問題解決であって、いわゆる創造性のある、課題解決の業務ではありません。


めちゃくちゃ重要なんですけどね。

 

多様な働き方って、優秀な人材をつなぎとめるための方策でもあると思うのですが、定型業務って優秀な人材にやらせる業務ではないですよね?

 

はたして、対象になってくるような業務がどこまであって、それはこの仕組みを使ってまでやることなのかどうか、あまり見えてこない気がします。

 

まあ、なによりも、海外転勤は現地に行くことに一つの意味合いがあるのだから、それをなくさないでよ、という個人的な勝手な感情もありますけれどもね。


というか、最後のが一番かも笑


 


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大手企業の福利厚生がうらやましい




大手企業のサラリーマンの場合、出張すると、日当がつくことがあるようです。

 

宿泊を伴う出張の場合は、宿泊代だけではなくて、宿泊先で食事をとることも想定した日当がやや多めに出るということもあるようです。

 

地方エリアの営業周りで宿泊することが多い人の場合、それだけで1週間で+1万円くらい支給されることもあるという話を聞いたことがあります。

 

ものすごく多いわけではないですし、家族と離れる時間もあるでしょうし、宿泊しなければ参加できたかもしれない飲み会にも参加できないかもしれない、ということを考えると、会社事情で時間や場所を拘束されてしまうことの対価としては必要であろうと思う反面、意外と馬鹿にできない手当だなと思います。

 

1人で食事をとった場合でも、よほど飲み食いをしない限りはそこそこの金額で収まるでしょうし、単純に手取り額が多くなるということですので、特に若いころなんかは、ありがたい手当てになるのではないかと思います。

 

若くなくなっても、お小遣い制の人とかは、幾分かお小遣いに回せるなんてこともあるのではないかと勝手に想像しています。

 

中には、そんなお金いらないから自宅に帰らせてくれよという人もいるかもしれませんけれども。

 

たまたまとある大手企業の友人と食事をした際にそんな話になりまして、そういう手当のことを知りました。



うらやましい

 


大手企業ってやはり福利厚生も手厚いんだなあという感じですね。

 

一方で、そういう手当があるからこそ、ちょろまかしなんてのも時にはあるみたいで責任問題になることもあるみたいです。

 

どうやってちょろまかすのかわかりませんが、空出張ってやつでしょうか?

 

それでも金額としてそんなに大きくないでしょうし、いちいち内勤日と出張日の確認なんかもしないでしょうし、よほどのことがない限り、発覚しなさそうですけれども、やりすぎてしまうのでしょうかね。

 

しかしながら、福利厚生を考えると、働くならやはり大手企業がいいんだろうな、ということを改めてですが認識しました。

 


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悪夢の話




最近寝ているときに、月に1回くらいは決まって似たような不穏な夢を見ます。

 

不穏な夢と言っても、若いころにかなえたかったことで、もう手に入りそうになっていたのに手放さなければならなかったことに関する夢を見るのです。

 

恐らく自分の中では、あきらめたと思っているとはいえ、心の底ではあきらめがついていないのだろうと思いますので、そういう気持ちが反映された夢を見てしまうのでしょう。

 

できるのであれば、そのかなえたかったことがかなっている夢を見せてくれたらいいのに、かなわない夢を見てしまって、心が押しつぶされそうになりながら夜中にはっと目が覚める、というようなことが起きるのです。

 

若かりし頃の後悔の思い出というか、かなえられなかった思いを今になっても夢で見せられるのですから、私本人としてはたまったものではないのですけれども。

 

多かれ少なかれ、ほとんどの人が、いまだに心のしこりとして残るような、そのような経験を持っているのでしょうか?


後悔か心残りか


 

今の生活が幸せであるかどうかというのとは関係なく、ただ、過去の経験への後悔の念が自分の中にあるのでしょうかね。

 

やりたいことがあるならば今からまた頑張ればいいじゃない、という声もありそうですが、そういう類の話ではないので、過去に戻れない限りは実現はできないんですよね。

 

今から何かをすればまた実現ができるということであれば今からまた頑張るかで努力もできるのでしょうが、そういうわけでもありませんので難しいところです。

 

別にこの10数年ずっとそういう夢を見てきたわけではなくて、本当にここ最近そういう夢を見るようになったので、何かしらのきっかけというか原因みたいなのはあったのかもしれません。

 

逆に考えると、他にもいろいろとかなえられなかったこととか、失敗したことというのはあるのですが、そういう関連の夢を見ないということは、それらについては心の片隅にも残っていないような、自分の中でもしっかりと消化ができていることなのでしょう。

 

もしそうだとするならば、いまだに夢に出てきてしまうということはそこまで本気で自分がかなえたかった数少ない願いだったのかなという気がします。

 

そういう経験があるというだけでも、本気になったことがあるという意味ではもしかしたら幸せなことなのかもしれませんが、あまり大っぴらにもできないだろうなと思うことなので、一人で抱えつつ、うまく付き合っていくしかないのでしょうね。

 

 


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生活保護とセミリタイア




セミリタイアを目指す人の中には、いざとなったら生活保護に頼るという意見の人もいますね。


さて、生活保護費の引き下げは生存権を保障した憲法25条に反するとして、国や大阪市を相手に起きていた訴訟で、高裁は原告側の主張を退けました。

 

ここ最近起こされている類似の裁判では、原告の請求を認める場合もあれば認めない場合もあって、司法としても意見は分かれているそうです。

 

今後どのような見解が主流になってくるのかはわかりませんが、司法判断に対する意見も真っ二つに分かれているみたいです。

 

当然に、一つは原告側が正しいという意見で、生活保護費の引き下げを取り消すべきという意見ですが、引き下げは当然という意見もあります。

 

生活保護費は本来は生活を維持していく上でのセーフティーネットであるはずなのですが、一方で不正受給している人がいる、というような事実もありますし、特に後者に対する世間の目は厳しくなりがちですので、引き下げて当然という意見も出やすいのだと思います。

 

不正受給をしている人は一部でしょうし、本当に生活に困って生活保護費を受給している人もいるはずなので、一概に引き下げがいい、悪いという話もしにくいと思うのですが、ここで少しそもそも生活保護とは何だということを考えてみましょう。



生活保護とは


 

厚生労働省の定義によると、「生活保護制度は、生活に困窮する方に対し、その困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを目的としています」とあります。

 

つまり、生活に困窮している人がその生活から抜け出すための一時的なサポート、を想定しているとも言えるかもしれません。

 

読み方によっては、生活保護を受けるのであれば、健康で文化的な最低限度の生活をただ続けるのではなく、自立しようともしてくださいね、というようにも読めます。

 

とはいえ、自立を「助長する」ことを目的にしているだけですので、あ、こいつは自立しようとしていないなと判断して生活保護を停止するということもできないのでしょう。



健康で文化的な最低限どの生活

 


さて、健康で文化的な最低限度の生活とはいったいどんな生活なのか、この定義をすることがなかなか難しいので、では一体いくらのお金が必要になるのか、というのが良く分からず、そうなると今回の引き上げや引き下げに理があるのかないのかも明確には判断できません。

 

というのもあって、司法の判断も分かれざるを得ないというのがあるのでしょう。

 

例えばですが、ひとり暮らしをするにあたって、月に10万円があれば、生活は十分にやっていけると私は直感的に思いますし、多くの人もそう思うと思います。。

 

もちろん、住む場所によっては家賃が高いのでなかなか候補物件がないとか、物件があったとしても古くて住みにくいとか、そういうのはあると思います。

 

ただ、物件が古くて住みにくいことで、健康で文化的な最低限度の生活が送れないのであれば、今そこに住んでいる人の生活はその水準に達していないのかと言われると、そうはならないと思います。

 

一方で、そういう物件にずっと住み続けられるのかどうか、と考えると、実はそうではないかもしれない可能性もあります。

 

賃貸物件の場合、ある一定の年齢以上の人は住まわせないようにする、ということは世間一般にも言われていますので、仮に月に10万円の収入が保証されていたとしても、お金ではなくて、一人暮らしの老人には貸したくない、なんて物件もあるはずです。

 

家がなければ当然に、健康で文化的な最低限度の生活というのは送れないでしょうので、貸してくれるところを探す必要がありますが、そこの家賃がはたしていくらなのかは誰も見当がつきません。

 

家賃が安い物件は探せばいくらでもあると思うのですが、そこが実際に貸してくれるのかどうかというのは誰にもわかりません。

 

かといって、じゃあ多めの家賃を払う前提で、家賃10万円のところに住むと仮定して、、、なんて感じで生活保護費の額を決定するわけにもいきません。

 

今度は、そんな家賃の高いところに住まなくても健康で文化的な最低限度の生活は送れるのだから、生活保護費は不当に高いという議論が巻き起こるでしょう。

 

それをもっと極端にしていくと、税金から支給してもらっているのだから、もらえるだけでもありがたく思え、という意見の人がいても不思議ではありません。

 

最低限度の生活なのだから贅沢するな、毎食自炊しろ、スーパーの見切り品だけを買え、なんて意見もでるかもしれません。

 

生活保護を受けている多くの人は、本当に生活に困窮した結果として受けているだけなのに、それは贅沢だという意見が出てしまうのは悲しいことですが、不正受給をする人たちがいるとどうしてもうがった目で見られてしまいますし、難しい問題ですね。

 



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