出張の依頼



とある部署から会議出席のための出張依頼がありました。

 

私を含めて他にも同じ目的で何名かを呼んでいるということでして、出張費はその部署負担で気にしなくていいので参加をしてほしいという旨の連絡でした。

 

宿泊も含めてにはなりますが、往復の交通費と宿泊費で含めると4万円はかからないかなという費用感でしょうか。




気になる点


 


メールでその依頼が来ており、会議の日時や趣旨目的なども書かれていたのですが、そこに私含めた参加者の名前と役割も書いてありました。

 

そして、よくよく読んでみると、他の人の場合は名前と会議の中で期待されている役割が明確にあるものの、私の場合は名前しかなく、会議の中で果たすべき役割は特に書かれてありませんでした。

 

会社の経費を使用しての出張は言い方は変ですが、楽しくできる機会ではありますので、出張をすることそのものはありがたいですし、むしろ呼んでくれてありがとうなのですけれども、何名かの宛先と一緒に送られているメールにて、会議の中での私の役割は明確にはありません、いてくれたらそれでいいです、というようなメッセージが発信されているのと同じです。

 

本音を言えばですが、それはありがたいことではあります。

 

仕事のために出張をしてほしいと呼ばれているにもかかわらず、特に期待している仕事はありませんよ、と言われているのと同じです。

 

グループで出張をしてくる、出張をする人の中で、この人別に会議中に発言もしないし、会議にいるだけの人だなと、こちらが感じる人がいると思います。

 

会議後の食事会などでこそっと周りの人に聞くと、あの人は仕事ではなくて遊び出来ているようなものですから、と言われてしまうような人です。

 

なんなら意欲的にそういうポジションに応募してくる、つまり出張について来ようとする人もいるでしょう。

 

そんなポジションにわざわざ指名してくれて、お金も出しますから出張しませんかと声をかけてくれているわけですから、罪悪感のようなものを除けば、ありがたいとしか思えませんし、他にそういう出張がしたい人は山ほどいるのではないでしょうか?

 

ポジティブに考えれば、私もなぜ呼ばれているのか分からないんです、という困惑した態度を取りつつ、出張をして、敵をつくることなく出張を楽しむことができる機会でもあるとは言えます。




ちょっと怖い


 


とは思ったものの、私としてはなぜそのような指名が来るのか、がちょっと怖いと思ったのも正直なところです。

 

会議の内容を全部は知らされてはいませんが、趣旨や目的の事を考えると、私のこれまでの業務内容に関係があるのはあって、内容によっては全く無関係の会議に呼ばれているということではありません。

 

いや、あえて言うのであれば、その会議で私の経験事例を発表をしてください、と依頼されたとしたら、まあそういうことであればと腹落ちするというか、オンラインでもいいとは思うけれども、なるべく対面で発表をした方が確かに良さそうですね、というようにも思うと思います。

 

ですので、会議のアジェンダによっては、私が呼ばれていること自体は正当化できるとは思っています。

 

全く別の部署にいる私であったとしても、発表をすることで、その会議の参加者のためになるとか、会議の目的が満たされるというのであれば、私がいることに意味があるということになります。

 

ただ、改めてですが、今回はそういうことは期待されていなくて、ざっくり言うと他の人の事例を聞いていてください、別にコメントも求めていません、ということなのかなと思っています。

 

もしかしたら、それが今後の私の業務に関係があるから聞いておいてくれと言うことなのかもしれませんけれども、例えそうだとしても、別に出張費を別部署が負担してまで私をただ呼ぶことまでしなくてもいいのではないか、と思うのです。

 

それこそオンラインで参加してくださいでいいのではないか、と思います。

 

それなのに、なぜ私を指名して出張費までかけて呼ぼうとしているのか、何かそこに裏の意図、別の目的があるのか、というのが非常に気持ち悪いわけです。

 

ただ勘繰りすぎているだけかもしれませんし、心配しすぎなだけなのかもしれませんけれども、万が一、私の不安が的中していて、なにか別の意図があるということであれば、火中の栗を拾いに行くようなことになりかねません。

 

少しホッとするポイントは、強制ではなく、あくまでも時間があれば来てくれないか、というトーンでの招待であるということです。

 

とりあえずは前向きに検討しますとだけ返事をして、その裏事情を探ろうとだけ心に決めました。

 

実際に何もわかっていないのですが、さらに何も変わっていないふりをして、本当の意図が一体どこにあるのかを確認してみようと考えています。

 

 


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Z世代



さて、新入社員が入社してきて、まだ1か月もたってはおりませんが、他部署の人とも話をしている中で、少しずつ今年の新入社員の話も聞く機会が増えてきました。
 
その話を聞くたびに、Z世代がという言葉が出てきます。

 


ちょっと違うぞ





例えばですが、何か上司が伝えようとしてもその返答が結構友達に向けたような態度であるとか、おおよそ我々世代が思う社会人としての態度ではないということを感じているということです。
 
よく、最近の若い世代はという枕詞で、以前とは違う、この世代はこう特徴的だ、というようなことが言われます。
 
私の感覚としては、それはどの世代も言われていることなのではないかと思いますし、どこかの世代を切り取って、明らかにこれまでと違うということは簡単には言えないのではないかと思います。
 
ですので、新入社員が入るたびに、今年の新入社員はどうだこうだというのは言われているのだと思いますし、自分たちとどう違う、特徴的だ、みたいなことも話題にされているのだと思います。
 
それは、年配の方々が、自分が若いころは、という枕詞で、いかに自分たちの若い頃が特徴的だったのかを話すのと同じように、過去は今とは違う、今は過去とは違う、ということを語るのはある種、不変的なことなのだろうと思います。
 
ですので、それは毎年毎年起きている、続いている恒例行事のようなものだと思います。
 
私が新入社員のころも、直接は言われていないだけで、最近の新入社員は礼儀がなっていないとか、ここがこうおかしいとか、言われていたのだと思います。
 
私自身はそう言われたことは記憶にはありませんし、周りの同期を見ていてもそういわれていた人は思いつきません。
 
なんなら、新入社員の研修時代に、学生気分から一気に社会人としての意識づけをさせようとする数日間があって、そこでやりすぎだろうと思うくらいに教育というか、何ならやりすぎの洗脳くらいのことがあって、もちろんのことそれでも学生気分は抜けないとは思いますが、社会人って厳しいんだなという意識を持って新入社員としての初日を迎えますので、一応、意識としては、気を付けていかないと、という思いを持つようになると思います。
 
特に社会人としての最初の数か月は緊張もするでしょうし、研修で叩き込まれたことを守ろう、と思うと思います。
 
そして、今の新入社員もそういう研修は受けていると思うのですが、それでも出社してみると、「自分の新入社員の時とは違う」と古い世代が言ってしまいたくなることが起きている、ということを感じます。
 


明らかな違和感



 

もちろん個人差はありますので、例えばすぐにやめてしまった新入社員も知らなくはないですが、いい方は難しいですが、「変わった」新入社員がいたとはしても、事例としては稀でした。
 
それが、何名かの新入社員が「社会人ぽくない」という話を聞くと、恐らくそうなのだろうなと感じざるを得ません。
 
そしてそれは、私自身が年を取ってしまったことの証でもありますし、それこそ「自分の若いころは」という枕詞を使ってしまう年齢になってしまったということでもあります。
 
いやしかし、新入社員研修の時はどういう態度を取っていたのか、確かめたくはなります。
 
恐らくその時はちゃんとやっていたのではないかと思いますが、いざ働き始めるとちょっと違う態度が出てきてしまったということなのでしょうか。



受け入れ側の覚悟



 

話を聞く限り、結構衝撃的な話もありまして、時代は変わってしまったのか、それともその新入社員が変わっているだけなのか、よく分かりませんが少なくとも、受け入れる会社側としてはそれをどううまくハンドリングしていくのか、というのが大切になってきそうです。
 
今後、必ず一定数はそういう人が入社してくるというのは間違いないのですから、それを受け入れる側がどう対応するのかという準備は必要なのでしょう。
 
本音を言えば、決して新入社員の全員が全員そういう人ではないのでしょうから、選考段階でなるべくスクリーニングをして、あれ?と思う人はなるべくはじくようにして欲しいなと思いますが、巧妙にそれをすり抜けてくる人はいるでしょうし、まあある種の騙し合いが選考過程にはありますから、難しいのかもしれないですね。
 
本当にそういう人が新入社員市場には多く存在しているのだろうかと、今はちょっと不思議ではありますが、あと数年もするとそれが不思議ではなくなるのかもしれないですね。
 
 
 
 

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省人化と不便さの間で


 

JRのみどりの窓口の数が減っており、利用しようとする人が長時間待たなければならないなどの不便を感じているというニュース記事を読みました。

 

JR側の思惑についてはよく分かりませんが、まずコスト削減をしたいというようなことはあるでしょう。

 

そもそもものすごく需要があれば、利用者が不便を感じるほどに数が減るということは考えにくいので、需要はあるものの、減ってきているというのもあるのかもしれません。




使う機会


 


私自身、みどりの窓口を利用する機会がないわけではありませんが、その機会はかなり限定されたもので、SUICAのキャンセル・払い戻しや、新幹線の切符の払い戻しくらいのものです。

 

普通に切符を購入するということは券売機でできるようになっておりますし、今ではインターネットを介しての購入もできるようになっています。

 

以前は、一部の夜間列車などはみどりの窓口でないと購入できないなどあったような気はしますが、今ではかなりインターネット対応がされているものと思います。

 

どうしても並びの席が欲しいとか、特別な事情がある場合は、みどりの窓口の係の方に調べてもらってその席を購入する方が手間は省けるのかもしれませんが、私自身の経験としてはそのようなことはありません。

 

ということは、恐らくですが、まず需要が減っているということがみどりの窓口の数を減らすための動機づけになっているような気はします。

 

そこに人件費もかけていられないよということです。




価値と対価請求

 



みどりの窓口で何かをしてもらうならそこに手数料を取りますよということをすれば、みどりの窓口そのものが金銭的に見えるメリットを生む場所になるのでしょうが、それをするとお客様からの評価は下がることも間違いないでしょう。

 

旅行会社を通して旅行を手配すれば当然に手数料がかかってきますので、そういう意味ではみどりの窓口が手数料をとっても理屈は通るような気もしますが、今まで無料だったものに費用が掛かるというのは世論が感情的に許さないでしょう。

 

理屈は通るけれども、正しいかどうかというのも正直分かりません。

 

その状況であれば、みどりの窓口を減らして、券売機やインターネットでの対応を拡充すれば、初期投資はかかるでしょうがランニングコストは下がることになると思いますので、JRとしてはそちらをやりたいということなのでしょう。

 

とても合理的です。

 

その分、その余剰になった人員を別の業務につかせることで、何かしらの価値を生んで利益を上げることもできるわけですから。

 

その一方で、全ての人がインターネットを上手に扱えるとはまだ言えませんし、券売機の操作方法が分からないということもあるかもしれません。

 

そういう人にとっては、友人対応をしてくれるみどりの窓口は、とてもありがたいサービスになりますから、そのサービスがなくなるのは困るというのも良く分かります。

 

ただし、自分が困るからということと、企業側がそのサービスを続けてくれるのかどうかということは全くの別問題です。

 

バスや電車の路線廃止や本数削減なんかと同じです。

 

そもそもそのサービスを提供することで、企業が利益を上げることができるのであればサービスを継続する、企業が利益を上げられないのであればサービスを終了するという、というのが基本的な考え方のはずです。

 

もちろん、儲からないサービスであっても、それが何かしら別の価値を生んでいるとか、企業にとっては別のメリットがあるということはあると思いますから、結局のところ、そのサービスを継続することで企業になにかメリットがあるのか、ないのかという点かなと思います。

 

で、みどりの窓口は、今の数までは要らないだろうという判断がされたのでしょう。

 

先ほどの議論に戻って、今の数は維持するけれども手数料を取るようにします、と言われると利用者側は文句を言うでしょう。

 

サービスは受けたいけれども、それは安いコストで受けたいと思うのは当然であって責められることではないとは思いますが、もっとお金を払ってでもそのサービスを受けたい、とまでは思わないのであれば、不満を持つのは自然なことでかまいませんが、だからと言って企業に求めすぎてはいけないよとも思います。

 

人口減少が進みながら、その一方でAIやテクノロジーの発達がある中では、こういう事例は色々なところで出てくるのかもしれないですね。

 

セルフレジなんかも最近は増えていますし、その反面で万引きが増えたというのもあるのかもしれませんので、トータルで見た時にどちらが得なのかを企業側は考える必要はありますが、省人化の流れは今後も確実に進んでいくと思います。

 

 


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左遷された人の話



お給料日になりました。

 

牛歩ではありますが、コツコツと資産を貯めていくことができています。




ありがたい話

 



最近は大きく下がる日もありますが、日経平均株価がこれまで上昇を続けていた分、株式などの資産価値は大きく上がっています。

 

日経平均株価の上昇は円安の影響も大きいと思いますし、物価高もこれからどうなるか分からない中では、日本円ベースで資産が増えていたとしても手放しで喜ぶこともできないというのは事実ではありますが、それでも今の段階で生活に窮することもなく、貯金や資産を増やしていくことができているのは大変ありがたいことです。

 

私自身の仕事は直接的な数字として会社の利益に貢献する仕事ではありませんので、私の仕事そのものが私がいただくお給料の原資になっているとは言えないと思っています。

 

実際にその原資となる利益を稼いでくださっている部署の方にも感謝です。

 

数字のプレッシャーや理不尽な上司からの詰めを受けている部署、あるいはミスが許されない環境で愚直に仕事に取り組んでくれている部署、というのが利益を生み出す源泉になっていると思いますし、そういう意味では私の部署はそういう役割を果たしているわけでは正直ありません。

 

色々な仕事がある、色々な仕事があっていい、ということではありますし、私自身も任された仕事は責任を持ってやろうと取り組んではいますけれども、頭は下がりますね。




左遷?


 


さてそんなこんなですが、会社でちょっと不可思議だなと思う人事異動があったことを耳にしました。

 

別の部署の知っている人なのですが、タイミング的にも、異動先の部署から考えても不思議だなと思う異動です。

 

背景が良く分からなくて、とはいえ本人に聞くわけにもいかなくてだったのですが、風のうわさでどうも懲罰人事であるということが聞こえてきました。

 

ちょっといろいろとやらかしてしまったみたいだということです。

 

本人に聞いたわけではないですが、やらかしてしまってしまったというのはあるでしょうし、一応懲罰人事ということで罰を受けているのも間違いありませんが、でもその行先の部署というのが別に悪い部署ではないと思っています。

 

確かに、本流ではないかもしれない部署ではありますが、私自身そこに異動と言われたら、うれしいと思うかもしれないなと思います。

 

一つの業務経験としても興味があると言ってもいいかもしれませんし、部署の業務内容的に過剰なプレッシャーはなく、バランスのとれた働き方もできるのではないかと思います。

 

しかし、懲罰人事として、その受け入れ先になる部署にいる方は決して面白くはないですよね。

 

その方々は別に懲罰でそこの部署に異動されたわけではないでしょうし、プライドを持って働かれているかもしれないのに、懲罰人事を受けた人が送られる部署という事実があると、そういう扱いを受ける部署なのか、自分は会社から期待されていないということなのか、と思ってしまいかねません。

 

その部署で働かれている人のモチベーションという意味では悪い影響を与えかねないのではないでしょうか。

 

仕事ができる人ではありますし、出世欲も強い人だと聞いたこともありますので、本人の方が今何をどう思っているのかは分かりませんが、考え方によってはこれからは仕事以外のプライベートな生活を充実させることで人生の豊かさを追い求めていくことも可能です。

 

これは私が第三者的な意見を言えるからそう言えるだけなのかもしれず、本人は悔しくて悔しくてたまらないということもあるとは思いますが、自分がやってしまったことの責任は自分で取らなければなりませんし、もう終わってしまったことはどうしようもありません。

 

仕事だけが人生ではありませんし、出世だけが人生でもありません。

 

運が悪かったで終わらせてはいけないと思いますが、実際問題として、色々とやらかしているのに何のお咎めもなく偉くなっていく人もいますから、納得できるできないというのはあるかもしれませんが、だからと言って他人を恨んでも仕方がないです。

 

しかしながら、人の振り見て我が振り直せでして、自分がどう思うかではなく他人がどう思うかでいろいろと問題が起きるわけで、そのあたりは少し自分自身も気を付けないといけないなと思いました。

 

ちょっとした発言なんかも、自分にはそういうつもりがなかったとしても、不快に思う人がいる可能性はありますから。



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アドバイスが偏重する



さて、セミリタイアをしたいというのが私の変わらぬ思いなわけです。

また後日書こうと思いますが、私の場合、仕事をすること自体が嫌なわけではありません。

学生時代の飲食店バイトで、月に25日くらい、毎日6時間以上働いたこともありまして、その時はお金が欲しいということもありそうしていましたが、バイトそのものも楽しんでいたと思います。

今でも、労働をすること自体から逃げたいというわけではないのです。

むしろ、少しくらいは労働していたいとすら思います。

しかしその一方で、労働だけが人生ではない、労働は人生の一部にしか過ぎないというのは強く信じていまして、だからこそ、労働から感じる不要なストレスからは逃げたいわけです。



他人との会話への影響

 


というようなことを信念として持っていると、他人と話すときの内容に影響があることはよく分かります。

それがいいのか悪いのかは正直分かりません。

例えば私の同僚で、仕事量が多く、また海外とやり取りする機会も多い人で、時差の関係で日本の就業時間には収まらない範囲で働いている人がいます。

その人と軽く話している場で、その人から、結構無理があるかもということを聞くことがあります。

その人自身は、私が思う限りは真面目で、働くことが好きで、また能力もある人です。

恐らくですが、会社が無茶な働き方をしろと言えばしますし、耐性はあると思います。

ただ、私はそういう話を聞くと、健康第一だから絶対に無理をするな、今は対応できても蓄積されたストレスが一気に爆発することがあるから早めにSOSを出せ、絶対に無理をするな、という話をしてしまいます。

私は、仕事が全てではないという価値観で話をするわけです。

で、そういう話をしていて、その一方でその価値観が普遍的なものでもないのは感じています。

つまり、もしもその人が仕事が全てで大切なものだと感じていたとしたら、私の発言はその人に寄り添ったものではありません。

私は間接的に、あなたの考えは違いますよと醸し出しているかもしれません。

私はそれでいいのですが、もしかしたらその人は違った考えを持って、信じていて、その背中を押して欲しいだけなのに、私は押せていないかもと思う時があります。

もしかしたらですが、その人からすれば、私は仕事への真剣度が足りない人に見えているかもしれません。

私も海外とやり取りする機会がありますから、いかに時差をマネジメントするかを聞きたいと思っているかもしれないのに、無理はダメ、絶対という言葉が返ってくるわけですから、そうなると期待には応えられていないですよね。

私は、自分がセミリタイアしたいと公言はしていませんし、周りの人もそうは捉えていないのではないかと思っています。

で、そんな環境で、私は内面から来る信念で主張する意見が、果たして周りの人のためになっているのかどうか、これが分かりません。

まあ、愚痴を言われるということは、無邪気に背中を押して欲しいということではないだろうとは思っていますが、もしかしたらポジティブなことを言って欲しいと思っているのに全然違うことを私が言っている可能性もあるな、と感じることがあります。

究極的には、だったらなんだ、ということかもしれませんが、実は求められていることと違ったコメントをしていたら申し訳ないなとは思います。

ただ、私の基本的な価値観として、仕事そのものは人生ではないと思っていますから、そうなると今の仕事環境を乗り越えたところに成長があるとか、それに類するようなことは頭の中にはありません。



問題がある可能性



で、これは結構問題でもあるかなとも思っています。

特に、もしも新入社員など若手の社員に同じようなことを言われたときに、自分は何をいうのだろうかと思います。

上述した人は、ある程度社歴もあって、仕事も出来る人で、仕事を頑張る人だからこそ、長く元気に働いて欲しいとも思います。

それが、あまり経験もなく、実績もない人から、仕事が大変でと言われたら、私はそんな負担は大したこともないだろうと言うのか、それとも同じように仕事は人生ではないと言うのか。

自分としては、ある程度の能力をつけるのには無理をする期間は必要だとも思っていて、であれば、甘いんだよバカやろーと言ってあげることも必要かなと思っていますが、今の私は、辛いなら逃げちゃえと誰にでも言ってしまいそうです。

しかし、それって、実は本人のためにはなっていないよな、と感じます。

もうちょっと頑張ってみろ、逃げるのはそれからでも遅くない、あなたのレベルの悩みや課題なら解決策は出せるから言ってみな、というのが、本人にとってはいいのではないかと思いますが、そうしない可能性が高いと自分で思うくらい、自分の価値観がセミリタイア実現に寄っている気がします。

果たして、それがいいのかと自身に問いかけると、正直違うかもしれないと思うことはあります。

私はいいのです。

ただ、相手の人生を狂わせる可能性はあります。

相手が、私のアドバイスは意味がないと思う方がまだよくて、あまりに感化されると、むしろマイナスに働く可能性があるなと思います。

そんなに感化できているようにも思いませんけどね。

理想は相手の状況や思いに寄り添ったアドバイスができるといいのですが、なかなか今は難しいなと思います。



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管理職にしたらダメな人



 

 

「管理職にしたら絶対マズい人」を見抜く“シンプルな方法という面白いネット記事を読みました。

 

特に面白いと感じた点ですが、部下は管理職やリーダーの良いところではなくて、悪いところに合わせるという話が書かれていまして、リーダーを選ぶ際にはその人の強みの強度で選ぶのではなくて、一番悪いところがどれだけましかを見極めるということが述べられていました。

 

リーダーと管理職がごちゃ混ぜになっているという話は一つ違和感を感じたところではあるのですが、恐らく管理職=リーダーとしてとらえているのだろうという前提で読んでいました。




不適切項目



 

そして、以下のポイントの一つでも当てはまったら、リーダーとしては不適切だということで述べられていました。

 

  1. すぐにあきらめる
  2. できない言い訳をする
  3. 危機感がない
  4. 成果が出ない理由を外部要因にする
  5. やるべきことを「自分がやらなくていい理由」を見つけてやらない
  6. ミスをしても謝らない
  7. ミスをしても、バレないようにごまかす
  8. 人が見ていないところでサボる
  9. うそをついてごまかす
  10. トラブルから逃げる

 

まあ読んでいまして、あてはまるやつがあるなあ、私は管理職になってはいけないのだな、と思いながら読んでいました。

 

なんとなく、強弱ありつつ、複数当てはまるなと思っていましたが、特に当てはまるなと思ったのは、できない言い訳をする、成果が出ない理由を外部要因にする、人が見ていないところでサボる、ですね。

 

特に前2つは、公式の報告の際には避けますが、例えば自分の部署のトップの人とキャッチアップMTGをする場合などに、巧妙に、自分はここまでやろうとしているんですけれどもね、担当部署の動きがいまいちでね、という報告をすることがあります。

 

そこに、できれば組織のトップ同士で話てプレッシャーをかけてくれませんかね、なんなら打ち合わせを設定しましょうか、というお願いをセットでしますので、そういう意味でいいのか悪いのかは分かりませんが、少なくとも他人に責任をかぶせる形の言い訳はします。

 

というか、自分でできる範囲の事であればやりますが、他の組織のことに口出ししに行くというのは正直なかなか難しくて、私が口出しをして意見をいったん聞いてくれても、従う必要は他の組織にはないわけですから、それはそれね、という対応をされることは実際にあります。

 

そういう対応をされるからと、じゃあ自分のところでその仕事は全部引き受けます、ということもできないので、任せるしかない仕事もたくさんあるというのが正直なところです。

 

というように、とりあえずこれって正当な理由ですよね、仕方がないですよね、ということを醸し出しつつ、それを言い訳材料にする、ということを私は確実にやっています。

 

このネット記事の内容に沿うのであれば、私はリーダーとしては不適格、ということですね。

 

できない理由を探すのではなく、どうすればできるのかを考える、みたいな標語を聞いたことがありますが、そういう態度で臨みなさいよということなのでしょうかね。




無能には見られたくないけど


 


もちろん、できていないことに対して誰かからプレッシャーを受けるのは非常に嫌なのですけれども、そういうプレッシャーで体を壊すのも嫌ですし、そこまで仕事に人生をかけたいとは思えないということでセミリタイアをしたいと思っているというのが私の現状ですので、当然に任された以上は責任を持って仕事に臨みたいと思っておりますが、必要以上に仕事を重荷にも感じたくない、という考えが根本にあります。

 

そういう態度で臨もうとしていても、プレッシャーがあればそこに対して何らかの回答が必要だなとか、対応しないとな、というようには思いますし、そんなのどうでもいいよ、という態度にまではなれないというのは生まれ持った気質なのでしょう。

 

逆に、そういう態度で振る舞える人の話を聞くと、ちょっとうらやましく感じます。

 

まあ、そういう態度で人生を過ごしていたら、もしかしたら私の人生の幸福度は落ちていたかもしれませんので、他人の目を気にする、責任感を持つ、というのも決して悪いことではないとは思っていますが、それに押しつぶされそうになるのは避けたい、のが本音です。

 

ちなみに、人が見ていないとことでサボる、というのは間違いなくそうしている、と断言できてしまうのが悲しいくらい、断言できます。

 

忙しく働かなくていいならば働かないです。

 

自分がやらないといけない仕事がなさすぎるとちょっと焦る、というのも確かにありますが、働かなくてもいいのであれば働かない、というのは真実だなと思います。

 

残念ながら自分はあてはまってるなあ、と思いながら読んだネット記事の紹介でした。

 

 

 

 


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ストレスから逃げたい

 





基本的にストレスフリーな生き方をしたいと思っておりまして、だからセミリタイアを頭に入れながら日々過ごしています。


ストレスというのは主には仕事上でのプレッシャーで、特に仕事でうまく行っていないことを責められたり、詰められたり、人間関係で振り回されたりのことで、なるべくそれを避けたいわけです。


それらのストレスが行き過ぎると、朝起きれない、休日も憂鬱、全て投げ出したくなる、精神的に追い込まれるなど、明らかに自分が不調であると感じる時間が続きます。


会社員人生において、そんな、ストレス過多になる時期というのは定期的にやってきているように思います。


振り返って幸せなのは、ストレス過多の時期とそうでない時期は、まるで波のように来たり、遠くに行ったりしていて、ストレスしか感じない時期しかない、というわけではないということでしょうか。




それでも逃げたい




しかしそれでも、ストレス過多の時期は本当に辛くて、嫌だな、逃げ出したいな、と強く思っています。


後から振り返って、そうは言ってもそんな時期があったからこそ、今があるんだななんて思うことがないわけではありません。


しかし、それはあくまでも後からついてくる話であって、ストレス過多の時期には、今を乗り越えれば、なんて風には全く感じませんし、早く終わってくれ、今すぐに逃げたいと強く思います。


しかし、逃げたい自分がいる一方で、逃げたら生活どうしようかと冷静な自分がいます。


究極的に言えば、なんとかなる気はしますが、気がしているだけかもしれず、なんの根拠もありません。


そしてそのなんとかなるか、ならないかは経済的なこと、生きていくのにお金に困らないか、ということに集約されます。


セミリタイアをするということは、その経済的なことに目処がついた、ということだと思います。


私にとって、その経済的な目処がついたということは、いつでも逃げられる状況を確保したということに他なりません。


そして、その状況の確保が、私にとっては過度なストレスを緩和する薬になるのではないかと思っています。





逃げ道を持つこと




別に今でも私はいくつも人生の選択肢を持っていますが、持っていることと使う勇気があるかどうかは別問題です。


しかし、さまざまな選択肢をもっているだけではなく、自分は使えるんだという気持ちの余裕があれば、その余裕によって、同じストレスでも感じ方が違ってくるのではないかと思っていますし、さらに言えばストレス耐性が上がるということがあるのではないかと考えます。


セミリタイアを志向する私も、働くのが楽しいのであればそれに越したことはないと思っていまして、働くこと自体が大嫌いというわけではないと自覚しています。


中には、働くこと自体が嫌いで耐えられないからセミリタイアしたい、という人もいると思いますが、私はそうではなく、あくまでも、その働く過程において感じることがある過度のストレスが嫌なのだろうと思います。


人生を過ごす上での経済的な目処がついていれば、無理に過度のストレスに耐え続ける必要性が低下しますし、そういう心持ちがあればそもそものストレス要因に対する態度も変わるのではないか、と思います。


どうせなら自分のやりたいことをする人生がいいですが、あらゆるリスクを許容して自分のやりたいことだけに挑戦するような根性も覚悟もありません。


そんな私が、少しでもストレスフリーな人生を送るには、いつでもセミリタイアができる環境を早く整えることが大切だと思っています。


またまだその環境には道険しですがね。


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人事制度の変更について




 
 
人事制度が変更されるかもという内容を以前のブログで書きましたが、なんとなくその全容が見えてきました。
 
日本の人口ピラミッドと似ていて、会社の従業員年齢ピラミッドの平均年齢が上がっていく中で、実力主義も取り入れながら若手の積極登用路線を取りたいというのが会社の思惑のようです。




年功序列からの緩やかな脱却


 


中堅層やシニア層を冷遇しますというような言い方は当然になくて、その層のこともしっかりと考えていますよというのが会社側の説明でしたが、恐らく、そのようなことを会社が説明する以上は、若手の管理職の割合を何%にするというような目標を持つはずですから、そのあおりを食う中堅層は今後出てくるだろうなとは予想できます。
 
従来であれば、年功序列の考えがやはり強い中で、同じような成果を出していれば若手よりも中堅層を優先して管理職にしてあげようという思惑はやはりあったのではないかと思っています。
 
そのような説明をすること自体は良くないことなのかもしれませんが、そのような事情があるから分かってほしいということを、遠回しに説明を受けた経験は私もありますし、他の人もあると思います。
 
私の周りでは、それはおかしいということを声高に言う人もいますし、そう主張することは間違っていないと思っています。
 
私としても、その説明自体は完全に納得できる説明になっていないと思いますが、ただし、筋は通っていないかもしれないけれども、受け入れることにそこまで抵抗もありません。
 
というのは、恐らく、そのような事情で今回評価されることになった方が若かりし頃に、同じようなことでその方自身が別の中堅層の方のために劣後された経験があるだろうと思うからというのが一つ。
 
また、もしかしたら自分もその恩恵を受けてきたのかもしれない、今後受けるかもしれないと想像するからです。
 
はっきりいって、欧米企業ではなかなかあり得ない、日本企業らしい対応だなとは思いますし、実力主義を掲げるのであれば全く持っておかしな話だと思うのですが、そのような対応自体、悪いことであると断罪することもまた唯一の正解ではないのではないかと思います。
 
よく、仕事で頑張っているからと評価をするのはあまりよくない、仕事の評価はやはり成果をどれだけ挙げたかだ、ということが言われますし、それは正しいと思いますが、その一方で、長らく組織に貢献してくれた人に花を持たせるというのも必ずしも悪くないのではないかとも思います。
 
この場合、花を持たせてもらう人もある一瞬だけ成果を出した、ということではなく、ある程度継続して成果を挙げてきて、それでもなかなか報われなかったのが、今回はせめてという感じであることが多いのではないかと思います。
 
ですので、ただ長く会社にいるからというだけで多くの給料がもらえているのはおかしいとか、勤続年数で評価されるのはおかしいというのはよくわかりますし、おかしな場合もありますが、それでもそのすべてがおかしいとも言い切れないとも思っています。




何を正解とするか次第


 


これらは、何を正しいとするのかの話であると思っていて、利益を生み出すことが一番正しいとするのであれば、その正しさに準じた評価をするというのが良いのでしょう。
 
いやいや、利益は確かに大事だが、他の要素もまた大事であろうというのであれば、それも大切にした評価になるという、基準の問題なのではないかと思います。
 
そんな中で、温情人事があったとしてもそれが過度なものでなければ、ある程度は受け入れてもいいじゃないかと考えています。
 
ただ、本当に実力主義になれば成果を追い求める形に組織は変わるでしょうから、もしかしたら中堅層の中には、これまでは年功序列の空気の中で我慢を強いられ、これからは実力主義の空気の中で戦わざるを得ないという、ちょっと損する形になってしまうかもな、というように思います。
 
実力主義が悪いわけではありませんし、過渡期には完全に損をする人は出てきてしまうのも確かだと思います。
 
まあ、私がまさにその中堅層にあてはまっているわけですが、私の場合は、よほど理不尽にひどい評価をされない限りは、人事評価はあまり気にしないというタイプですし、今までの評価でも我慢をすることはあれ損はしてきていないのではないかと思っています。
 
成果だけで評価されている欧米企業では、成果が第一になりますので、一番成果が上がることのみをやろうとしますし、結果として効率が良くなることは確かにあっても、成果にはつながらなさそうなアイデアの芽は大きな企業では生まれにくいなんてこともあり得ます。
 
あるいは、日本企業よりも上司に従うことが大切に考えられていますから、上司に気に入られなければ明日には自分の場所がなくなるなんてこともあり得ます。
 
今では日本企業でも早期退職者募集や肩たたきということが行なわれていますが、終身雇用を前提としているからこそ、生活の安定という安心感があって、だから会社に貢献しようかと思うこともあるでしょうし、ちょっと新しいことをやってみようかとも考える余地が生まれるのではないかと思います。
 
実力主義、成果主義の良さもよくわかりますが、その危うさも同時にある気はしますので、はてさて、何がどこまで実現に向かうのか、これからも何かあれば会社から説明があるのだろうなと思っています。
 
まあ、若い層からしたらチャンスであることは間違いないので、この制度の変更をプラスに変えられる人には頑張ってほしいですね。
 

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騙される人



 

 

お金があっても幸せになれるわけではありませんが、お金の浪費は人生を狂わせます。

 

アイドルの推し活といったのも最近耳にする機会がありますが、すごく簡単に言えば、キャバ嬢に貢ぐ、ホストに貢ぐ、というのと似たような構造ですね。

 

すごく極端に言えば、自分がファンのスポーツチームのグッズを購入したり、試合の観戦チケットを買ったりというのも似たような構造なのでしょう。 




他人が何しようが勝手だが

 




構造は似ているとはいえ、別にキャバ嬢に入れ込もうが、ホストに入れ込もうが、それは個人の勝手でしょ、というのが正解で、周りに迷惑をかけないのであればそれ自体が批判される筋合いはありません。

 

ただ、そうやってお金を浪費していく中で、会社から横領したり、誰かからだまし取ったり、ということまでしていまうと、それは良くないことなのです。

 

ホストに貢ぐためにお金が必要なので、夜の仕事に身を投じるという女性もいるのでしょう。

 

そうやってお金を稼ぐことで、ひいては自分の幸せにつながるのであればそういう生き方もあるでしょうし、逆に世の中の男性はそういう女性にお世話になっている部分もあるわけで、ただの需要と供給の話なんだと言われれば反論も難しいです。

 

個人的には、キャバクラの何が楽しいのかはよくわかりませんけれども、仕事の絡みで連れていかれる際には文句は言わずに従っています。

 

安いお店ですので、明らかに中味を詰め替えていますよね、残念ながらそれくらいは分かりますよ、というようなお酒が出てきて、別に楽しくもなんともない時間を過ごすのは苦痛でもありますが、いい人生経験でもあります。

 




お金に狂わされる





で、誰かが事件を起こしてニュースになって、その原因を探っていく記事で背景の一つにお金の浪費があって、どうもそういったキャバ嬢やホストやらにうまく転がされているようなこともあるみたいだ、みたいなニュースを見聞きします。

 

そういう時、私は、世の中にはそうやって簡単に騙されてしまう人がいるんだな、という軽い驚きと、そうやってお金を稼げる人って才能がある人なんだろうな、という思いが交錯します。

 

いいか悪いかはわかりませんが、そうやって、他人からお金を巻き上げられるのは間違いなく才能だと思います。

 

他人に好きになってもらって、でものらりくらりとかわしながら、自分のためにお金を使ってもらい、そのうち相手はお金をなるべく手に入れようと色々と頑張り始める、犯罪にまで手を染めることも、というのは、なかなか作り出せない状況だと思いますよ。

 

その才能、もっと違うところで輝かせて、社会に貢献することもできるだろうに、とは思いますけれどもね。

 

何ならまともに働いたらもっとお金を稼げるかもしれませんが、必ずしもそういうわけでもないのかな。

 

まあ、曲がりなりにも誰かを幸せにしているのであれば、それもそれで立派だなとは思いますが、本当に幸せにしているのかどうかは何とも判断ができません。

 

むしろ、中長期的に見れば不幸にしている場合だってあるわけで、その一例が、お金のために犯罪にまで手を染めてしまうというようなことなのでしょうし。

 

人生を過ごす上で、お金をかけずに幸せを感じられることを何か持っているかどうか、ということも大切なんでしょうね。

 

 


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