久しぶりの更新

 

しばらく更新が途絶えておりました。

家庭でいろいろとごたごたがありまして、ちょっとブログどころではありませんでした。

要は、子どもが少し大きめのケガをしてしまい、簡単ではありますが手術も受ける必要がありまして、その準備やら対応やらに終われておりました。

命に別条があることではございませんので、それは不幸中の幸いではあります。

しかしながら、親としてもう少し気を付けるべきことはありましたし、親の不注意が招いてしまったことであったと考えており、子どもには大変申し訳ないことをしてしまいました。

普段からもちょっと泣いている子どもを見ることはありますが、それ自体はまあ泣いているなくらいで見ていますが、それでは済まないくらい泣いている子どもを見て大変かわいそうになりました。

子育てをする以上は色々なトラブルはつきものでしょうし、私が子ども時代にもいろいろとあったと思いますが、例えそうだったとしても自分の子どもがケガをした状況を受け入れるのはとても難しいことです。

特に、親の不注意によるものですから、簡単に言えば自分のせいであって、子ども自身が原因となっていることではありつつも、年齢を考えると完全に親の責任です。

非常に前向きに考えますと、もっと大きなケガをしている可能性や、命にかかわるケガとなっている可能性もありましたので、そうではなかったというのはまさに不幸中の幸いです。

もしも今回の件がなければ、親として不注意を続けてしまい、より深刻な事態に子どもが巻き込まれることもあったかもしれませんので、今一度気を引き締めなおさせてくれた経験ではあります。

親として子どもが辛い思いをしているのを見るのは大変悲しいものだということを改めて学ぶ機会になりましたし、自らの不注意を認識して今後一層注意を払っていく必要性を心にとどめる機会となりました。

まだまだ子どもの状況の経過観察も必要ですが、改めて気を引き締めていこうと考えています。


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部下の功績は上司の功績か?


 


 

ネット記事などを読んでいますと、部下の失敗は部下に押し付け、部下の成功は我が物にする困った上司の話を見聞きすることがあります。

そういう人が本当にいるなら、それは本当に困ったことというか、人でなしであるとすら思います。 

良い上司とは、部下が失敗したとしても責任者として批判の矛先は自分の方に向くようにして、部下の成功は部下の成功であることを大々的に周りに喧伝する、そんな上司だというような論調もあります。

まあ確かにそういう上司がいれば、確かに部下はやりやすいと思います。



ちょっと違う考え



一方で、私が少し違和感を抱くというか、こうあってもいいのではないかと思うのは、部下の成功は部下の成功としてほめたたえる一方で、そこに上司のサポートが少しでもあれば、いや仮にあまりなかったとしても、それは上司の成功であるのも間違いないのではないかということです。

もちろん、この成功は自分がいたからこそ、と周りに主張しまくるのはいかがなものかとは思いますが、上司は責任者である以上、部下が失敗すれば批判の矛先になる必要がある一方、成功すれば上司もまた褒められる対象になってもいいのではないかと思うのです。 

ネット記事に出てくる困った上司はいいとこ取りをしようとするからこそ困った上司なのであって、部下が失敗すれば責められるが、部下が成功しても褒められない、ということまで求めるのは少し違うのではないかと思います。

確かに、本当に何のサポートもしない上司もいますし、その上で部下としての成功を上司に取られるのは納得いかないというのも良く分かります。



個人的経験

 


私の場合も、自分でいろいろと動いて情報収集して分析して、見解をまとめてとやっているのに、あたかもさらに階層が上の人が自らそう動いていますというように振る舞っているのを見ることがありまして、実際問題、その人は私が進めている件に関しては何もしていないので、はて、と思うことがあります。

別のその人の指示で何かをやっているわけでもないですが、ただレポートはしていますので、そういうことになってしまいます。

確かにあまり気持ちの良いものではありませんし、別にその人のために働いているわけでもないので、その人の手柄にされるのはちょっと変なのかなとは思います。 

ただそれでも、あたかもその人が関わっているかのような環境を作っておけば、いざとなったときにその人のポジションやら名前やらを使って、自分に有利なように何かを進めることも可能になるとも思っています。

ですので、その人自身があまりポジションの高くない人であればあまり意味がないことなのですが、その人のポジションが高ければ、水戸黄門の印籠のように、いい方は悪いですがそれを振りかざして、自分が思うように物事を進めやすくなるというのは否定できません。

そうなると、少なくとも私は、その人の威光を利用しているわけですから、その人が役に立っているというのも間違いなくて、であれば、それによって私が何かを成し遂げたとすれば、それはその人のおかげでもあると考えられるわけです。

例え、その人自身が何も重要なことをしていなかったとしてもです。 



バランスかな?



この例だけを取り出して、部下の成功は上司の成功でもあるという風には言えないかもしれませんし、確かに中には責任は部下に押し付けてという人もいますので、そういう人に対して思うところはもちろんあります。

しかしそうだったとしても、例えば営業部署で部下が頑張って予算を達成すれば、その営業部署の予算が達成されるわけで、その場合に一番褒められるのは、仮に1%も予算の数字そのものには貢献していなかったとしても、その営業部署の長でしょう。 

逆に予算がいかなければ、営業活動を全くしていなかったとしても、組織として責任を負わされるのもまたその営業部署の長ではないでしょうか。 

ですので、もちろん、責任は責任としてとることが大前提にはなるとは思いますが、部下が成功すればそれは上司の成功でもある、というように考えてもいいのではないかと思いますし、いやそうではないと考える人は、どこかのタイミングで組織的に上の階層に行くのができなくなってしまうのではないかとも思います。 

まあ、それくらいイライラせずに、気軽にやっていた方がストレスも少なくなるかもしれませんというのと、もし出世したい人がいれば、積極的に自分の成功を上の人のおかげにするのが実は効果的であることもあるのではないか、と思います。

自分を立ててくれる人を嫌いになる人はいませんから、引き上げてくれるかも?

 

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インフレと日本経済


 

 


 

デフレの申し子とも目されていた牛丼の値段が並盛でもまた値上げ基調にあり、まだ500円ワンコインでは食べれますが、感覚的にはこの10数年で2倍くらいになったような気がします。

為替が円安に振れていることで原材料費や物流費の高騰、人件費も高騰、と企業努力だけではどうしようもないところまで来ているのでしょう。

お財布にやさしく、安く食べられるのはいち消費者としてはありがたいですが、企業が儲けられなくなって、ビジネスの持続性が失われてしまえば元も子もありません。

ただ、今回の値上げによって企業がより儲けられるようになったのではなく、同じ利益水準を出すために値上げせざるを得なかっただけでしょうから、従業員の人に還元される利益額が増えたわけではなく、結果として従業員の人のお給料も上がらないのではないでしょうか。

そうなると、その従業員の方が消費に回すお金も増えないということですし、お給料は変わらないのに物価は上がる、ということが起きてしまっているわけです。 

仕方がない側面があるとはいえ、多くの人にとっては生活が苦しくなるというのはその通りですし、状況としてはあまりよくないというのが正直なところでしょう。



セミリタイアしていたら



もしも自分がセミリタイアをしていたとして、それで外食で牛丼を食べに行くのかどうかは分かりませんが、この物価上昇以上の資産増を達成できていない可能性もあるかもしれないと思いますので、生活は苦しくなったと感じるのではないかと想像します。

実際のところ、株式投資をしている人であれば、この数年間での資産増は感じられていると思いますので、もしかしたらそこまで痛手ではないのかもしれませんが、配当額はそんなに増えていないという印象ですので、手持ちの現金という意味では影響がやはりあるのかな、と思っています。 

資産がいくらあったとしても、なんだかんだで現金というか流動資産にどれくらい余裕を感じられるかというのが心の安定にもつながるのではないかと考えます。 

会社員をしていて、多額の借金やローンを抱えていなければ、定期的に現金が懐に入ってくるわけですから、やはり会社員は安定していると言えるのではないかと思います。 



将来への不安



それでも、牛丼の事例にあるように、懐に入ってくる現金の額は増えない中で、消費に回る現金が増えてしまうという感覚は、将来への不安を抱かせてしまうでしょう。 

政府や経済団体はお給料を増やすために頑張りますとは言うものの、そんな簡単なものではないのは理解できます。

最近では、海外で働いた方が、生活費も確かにかかるが、懐に入ってくる額が日本と比べてさらに多いので、収入と支出のバランスで言えば海外で働く方が余裕が持てる、だから海外で働ける人は海外で働こう、というような風潮も感じます。

ビザの問題や語学の問題もありますので、誰でも彼でも簡単に海外で働くことはできないとは思いますが、能力があって海外で働くことができる人はその機会をなるべく活かす、という流れは今後も続くかもしれません。

東南アジアの人が日本に出稼ぎに来るのもまた、日本で働いた方が現地で働くよりもお金が稼げるからという理由でしょうし、それが日本人が日本国外にでるというように変わるだけの事とも言えます。 

日本国内での人材の空洞化が起きなければいいなとは思いますが、そうも言ってられないかもしれません。



日本のポテンシャル



とはいえ、日本は今も変わらず安全・安心な国ですし、物価も海外先進国に比べればまだまだ安いです。 

日本を訪れる海外からの旅行客がその安さ、さらに言えば品質が高いのに安い、という点に魅力を感じるということもこれを証明しています。

そうやって海外からの旅行客が、日本国内での消費を活性化させてくれる可能性があるというのは、日本経済にとってはいいことですし、これを一時のブームで終わらすのではなく、しっかりと日本のファンになってもらって、リピーターになってもらえるように、海外からの旅行客にとっても快適な旅行環境をつくるというのも大切である気がします。

まあ、渋谷駅とか横浜駅とか、日本人の私でも構内のことが良く分かりませんから、海外の方はいかほどか、なんて思うことがありますので、そういうところを少し整備していく、というのもまずはアリなのではないかと思っています。

やはり、欧米の人から見て日本という国は物理的に遠いですから、そう頻繁には訪問できないと思いますが、ファンになってもらって、数年に一度でも訪問してくれるようになるとありがたいなと思いますし、訪問したいと思ってくれるような取り組みは必要なのだろうと思います。

草の根的には、ちょっとした道案内なんかでもいいと思います。


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ジョークとご時世



挨拶とスカートは短い方がいいという発言をした、とある市長が、批判を受けて謝罪しました。


まあ、批判されるだろうことは理解できますし、このご時世にこういう発言したセンスとしてはいまいちなのでしょう。


しかしながら、長年使われてきたジョークでもありますし、この市長がその場で真剣にそんなことを思っている、と考える人もいないでしょう。


いや、むしろ、世の中の多くの男性は、挨拶もスカートも短い方がいいとは思っているはずです。


さらに言えば、別に全ての女性のスカートが短くあって欲しいとは思っていないはずです。


だから、真面目に考えると、スカートが短ければいい、という風には実は男性は思ってないはずです。


まあそんなことを言うと、それはそれで批判の的なんでしょうけど、市長がその点は間違っていたと謝罪会見したら、おもしろかったのになあと思います。


100%炎上して、辞任にまで追い込まれるかもしれませんが。




男女関係ないけど




某男性アイドル事務所の騒動に対する一部の女性の反応を見ていると、女性だって男性を性的に見て、その需給が成り立っているじゃないかと思いますし、それに比べたらこの市長の発言は本当にただのジョークです。


世の中は変化していますので、許容される発言が変化していくのは当然です。


とある社会人向けの勉強会を開催している講師の人と話す機会がありましたが、その方は、数年前と今とでは、あるカテゴリーの発言に対する受講者の受け止めに変化がでてきており、国籍や性別に関する軽口には気をつけなくてはならなくなってきたとおっしゃっていました。


いわゆるブラックジョークに対しても批判的な対応を受けるようになっており、気をつけなければならない、もめたこともある、ということで、今回のとある市長の発言にも通じるところがあります。


このご時世ですので、センスの無い発言はするなというのが正しいのでしょうが、なんだかんだでブラックジョークやゴシップはみんな好きでしょうし、あまりに制約がかかりすぎると、ちょっとつまらない世の中にはなりますよね。


ブラックジョークも含めて、笑い合えるのがいいのではないかと思いますが、傷つきますと言われると、やめとこうか、となるのは仕方がないことではありますが。

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真実の主張



どちらが正しい、間違っているという話はさておき、イスラエルとパレスチナのガザ地区を実行支配しているハマスが戦争状態に入りました。

お互いに無辜の市民に被害を与えておりますし、これまでもそういうことは起こってきました。

無辜の市民が巻き込まれた映像を見せられれば、どちらにも相手を攻撃する理由はあるように思えますし、相手方はなんてひどいやつらなんだ、と感じると思います。

そもそもの原因を作ったのはな誰かなんて遡れば一世紀前まで遡れますし、誰が諦めるべきなのかというのはおいそれと判断できないことでもあります。



広告



そんな中で、YouTubeの広告が流れたのを観ました。

イスラエルの政府機関が、自分たちに正当性があると主張する広告です。

悪いのは相手であり、自分たちに正当性があるとする戦略的な広報です。

おそらく、財政面ではイスラエルからしたらなんてことない広告費でしょう。

また、この広告を見る人が、今の戦争状態の根本にある理由やこれまでの経緯をどこまで理解しているのかと言えば、あまり理解していない人が大半ではないかと思います。

私も別に深くは理解していませんが、それでも、広告を見る際には、冷静に見ないとなあと思いますが、中には、見た結果、これはイスラエルが100%正しいと感じる人もいるでしょう。

もしそうなれば、この広告の目的は達成されますし、そういうことを目的としているのだと思います。

そもそも、一般企業が行う広告や広報活動だって、その企業の主張をしているだけですから、その主体が政府に変わったというだけです。

また、その国の政府の主張は目に見える形、見えない形で普段から主張活動がされています。

ただまあ、今回の件においては、ハマス側の主張はその主張を目や耳にする機会の多少という点で、比較的、日本人には見えにくいのではないかと思います。

使用される媒体という意味では、欧米諸国もあてはまるかもしれません。 

  


何が真実か



また、今回の件に限らず、もしも前提知識が少ない場合、我々は目にしない主張より目にする主張の方を信用する傾向にあると思います。

国際社会では嘘の主張でも、声の大きい方が信用される、というようなことも言われます。

何も言わなくても、周りは真実を理解してくれるというのは間違っているのかもしれません。

一方で、声高に主張されていることが正しい、とも断定できません。

別になんでもかんでも事細かに検証して真偽をはっきりさせる必要もないと思いますし、それをしていては生活に支障をきたしますが、真偽が入り乱れているということを頭に入れておくのは大切かもしれないですね。


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スカッとしたいのはなぜ?

 



 

以前にはそういうテレビ番組もやっていましたし、今ではYouTubeなんかでもそういうチャンネルがあると思うのですが、一度はピンチに陥ったり、理不尽を押し付けられたりしたりした人が、色々な機転を利かせたり、周りの人に助けられたりしながら、形勢逆転をしてやり返す、みたいなスカッとする話をご存じでしょうか。

個人的に、その手の番組やチャンネルを見て面白いと思わないのですよね。

中には、自分の実体験としていろいろとSNSに載せて、それに対してすっきりしますね、というコメントをしている人を見ることもあります。

でも私の印象では、そんな作り話に対してすっきりするもなにもないだろう、と思いますし、なによりも作られた話そのものがあまり面白くない、というようにも思います。



創作すぎる実体験



そんな人いるだろうか、というようなとんでもない人が出てくることが多いですが、現実問題として、そんな人いないだろうと思うのです。

もちろん世の中にはいろいろな人がいますし、まともな人ばかりではないと思いますし、中にはむかつく人も多くいますが、あまりに過剰に悪い人としてデコレーションされた人が出てくることが多いなと思ってしまうので、冷めてしまうのです。

勧善懲悪の世界観は分かりやすいですし、水戸黄門や戦隊ものもそういう構図ですから、それそのものが悪いわけでも何でもないと思うのですが、これは実際にあった話です、というように扱われると、そこには少し違和感を覚えるというのが正直なところです。

でも、そういう話を見て、ああすっきりすると思う人が確かにいるわけで、それについては少し不思議だなという気がします。

もしかすると、実は私のように、そんな人は現実にはいないだろうというのが難しく考えすぎで、あまり深く考えずに楽しめばいいのではないか、というのもあり得るのかもしれません。

むしろ、何をそんなに真剣になっているの、というとらえ方ですね。



なぜスカッが必要か



その一方で、よし理不尽な相手をやり込めたぞ、やったぞ、というように本当に思って見ている人がいるのだとしたら、それはいったいどういう思考回路なのだろうかと思ってしまうのです。 

もしかしたら、現実にはいろいろと抑圧されている人が、自分と主人公を重ね合わせて、疑似的にその抑圧を跳ね返した体験として楽しんでいるのでしょうか。

仮にそうだとしたら、それって少しかわいそうだなと思いますし、普段のその抑圧されているところからどうやって抜け出すか、逃げ出すか、というのをもっと考えてもいいのではないだろうかと思います。 

自分の疑似体験にしてしまっているのだとしたら、それはあまり精神衛生上よくない状況にすでに追い込まれてしまっているのではないだろうか、という印象を持ちますし、であれば現実世界でしっかりとその抑圧に対応しないといつまでたってもその抑圧からは抜けられないままになってしまうと思います。

さらに言えば、もしもこういうすっきりした経験を疑似体験できる話が人気になっているのだとしたら、それは現実に抑圧されている人が多く存在しており、救いを求めているのではないかと考えることもできます。

それは社会にとっては不健全だと思いますし、望ましいことでも決してないということを表しています。

ただ、なんだかちょっと日本社会や日本人そのものが自信を失ってしまっているというような状況なのかななんて思ってしまい、少し心配です。

 


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イチローさんの重みのある言葉

  


日本が誇る野球スターのイチローさんの、「がんばれない日があるみんな」へ贈る言葉が少し話題になっているのを見ました。

私の理解では、常時自分の100%の力を出すことのできる人なんてのはいないのだからそうする必要はないのだけれども、仮に50%しか出せない日があっても、その50%は全力で出しなさい、45%でいいやという風にはするな、という言葉です。

最高のパフォーマンスでなくてもいいが、最善のパフォーマンスは出しましょう、ということでしょうか。



重みがある



いいことを言っているという評価の声を多く目にしましたし、さすが一流の人の言うことだなとも思いましたが、実際に自分の生き方に照らし合わせると、実際にそう振る舞うのは結構難しいなというようにも思いました。

要するに私の場合、今日は50%の力しかだせないから、思い切って休んでしまって明日頑張ろう、というように過ごすことはあるなと思うのです。

確かに、今できる範囲のことをやろうとか、できる限りのことはやろう、というように過ごすことはあります。

しかし、無理しすぎることはないとあきらめることも多くある気がします。

恐らくイチローさんの言っているのは、最善の50%以上に無理をしなくていい、ということではあると思います。

それに対して、ちょっとわかりにくい言い方かもしれませんが、実はその最善の50%を出すことが無理をしているように感じることがあるのかなとも思います。

そういう意味で、結構厳しい言葉のようにも感じてしまいます。

もちろん、イチローさんに言わせれば、そういう時は30%があなたの最善なんだよ、50%を出そうと無理をすることはない、ということかもしれませんので、そうであれば優しい言葉であるとも捉えられるかもしれません。 



心構えが違う



ただ、心構えみたいなのはやっぱり自分の場合はちょっと違うのかなと思います。

イチローさんは、上記の場合であっても、自分は最善まで頑張れているだろうかを自問しているでしょうから、まさに最善を尽くそうとしているわけです。 

そう考えると、自分の心構えは最善まで頑張れなくても仕方ないじゃないか、という心構えのように思いますし、そういやそもそも普段から100%の力を出そうなんてことを思っていないかもな、とも思います。 

だって、できれば楽して暮らしたいな、感じるストレスは少なく過ごしたいな、って思っているわけですからね。

特にやらなければならない仕事がなければ仕事をしないことだってあるわけです。

これもイチローさんの言っているのは、もしかしたら、やらなければならないことがあれば0%でいいという解釈をしてもいいのかな、と感じますが、イチローさんはそういうことを意図したわけではないのではないかと思います。

恐らくイチローさんなら、やらなければならいことがない、そんなことが本当にありますか、という思考なのではないでしょうか。

基本思想として、イチローさんは、さぼってはいけない、と思っているのではないかと思うのです。

そう考えると、当然ではありますが、そもそも私の思考回路がイチローさんとは全く違うという話で、自分の都合のいいように勝手に解釈するな、ということですね。

大変失礼いたしました。


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戦力外通告と会社員

 


さて、毎年の事にはなりますが、今年もプロ野球では戦力外通告を受ける選手が出る時期となりました。

もちろん、プロ野球選手に限らず、多くのプロ選手が毎年戦力外通告を受けるのでしょうが、個人的に気になるのがプロ野球選手というだけです。

中には、別の球団に声をかけられて引き続きプロとして活躍の場を獲得する選手もいるでしょうし、同じ球団内に野球選手としてではない活躍の場を与えてもらえる選手もいれば、社会人や独立リーグで選手としての活躍の場を求める選手や、野球から完全に離れて就職をして働くことが必要となる選手もいます。

既に長年プロ野球界で活躍をしている選手で、引退勧告を受けてもそれが受け入れられずにあえて戦力外通告を選ぶ選手もいますが、そこまで気にかけてもらえる人は選手は本当に一握りです。

そこまで長年やれれば、ある程度の資金的な貯えもあるでしょうし、仮に引退したとしても生活に困窮するということは少ないのだろうと思うのと、そこまでの選手であれば将来的にまた野球に関わる指導者としての道や、解説やコメンテーターとしての仕事も得られやすいのではないかと思います。

次の道に進むならば、早い方、若い方がいいという話もありますが、年齢はどうであれ、それまで野球しかしてこなかった人が急に別の世界に放り込まれるというのもなかなか過酷な話であるとは思います。 

自分で選んだ道と言えば確かにそうなのですが、厳しい世界であることは間違いありません。



会社員は安定している



日本企業の会社員である私の場合、もちろん低い評価をつけられるということはありますが、それでいきなりの戦力外通告というのはなかなかされないですし、大金を稼ぐ可能性は低いものの、生活は安定はしていると言えます。

一部の外資系企業の会社員の場合は、成果が出ていないと首を切られてしまうということもありますが、比較的、それまでの経験をもとに転職もしやすい、ということはあります。

また、会社員の場合は、ある程度年数や経験がものをいうところもありますから、どれだけすごい新入社員が入社してきたとしても、それでいきなり立場がなくなるなんてこともありませんし、一般的には、毎日会社員としてレベルアップをするためのトレーニングをしないといけないなんてこともありません。 

その気になれば、会社員としての経験の貯金で生活をしていくという、まさにセミリタイア生活の会社版みたいなことも可能なわけです。

能力的に、なぜこの人が管理職をやっているのだろうなと感じる人も周りにいますが、そういう人がいるということは日本企業の悪い点でもあり、また同時になにかしら良い点でもあるのだろうと思っています。

部下からしたらたまったものではないかもしれませんけれども。



私も恩恵を受けている



この年功序列や終身雇用の慣習ももしかしたら今後見直しが図られるかもしれませんが、少なくとも現段階、そして大きな企業では、この慣習は続いているように思いますし、今日明日でいきなりそれが変更されることもないと思います。

私も、若かりし頃は、働かないおじさんの給料が高いのは納得いかない、なんて思っていましたが、いざ自分が年齢を重ねてくると、既得権益を感じるような立場になってきています。

若かりし頃はバリバリ働いて、もらっている給料以上のアウトプットを出しているという自負もあり、その一方で給料は高いのにあまり働いていないように見える人のことをあまりよく思っていませんでした。

それが今となっては、むしろ自分はもらっている給料に見合うだけのアウトプットを出せているのだろうか、と思うようになっています。

日本企業の賃金体系は、若いころは比較的抑えられていて、年齢と共に上がっていくという形になっていることが多いと言われています。 

その分、日本企業は安定した雇用環境提供をしながら、若手を育成しているということで、これもまた終身雇用制度があるからこそ可能な制度、日本の特徴でもある制度なのでしょう。

その恩恵を受けている身としては、これが悪い制度だとも思いませんし、冒頭に述べたようなプロ野球の世界からすると、むしろ非常に恵まれている制度であるなと思います。

改めて考えると、確かに私は恩恵を受けているのです。

もしも今すぐその制度を変更しますとなったら、私は反対するかもしれませんね。

 


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