コンサルとの関わり方




 
 
 
今進めているプロジェクトの一つにコンサル出身の社外アドバイザーの人が入っています。
 
プロジェクトを管轄しているトップの人が信頼を置いているということで依頼されていると聞いています。
 
私はコンサルタントの仕事内容の詳細はよくわかりませんが、恐らくそうだろうと思う、間違いなく大切なことの一つに、依頼者や関係者の意見をまずしっかりとヒアリングして自身の理解を深めながらも依頼者の意思を確認してどういう結果やレポートをまとめるのか考えながら動くというのがあるはずだと思っています。
 
なぜなら、最初の依頼を受けるときに、こういう課題があるから解決するサポートをしてほしいと言われているはずで、ではどんな課題がなぜ課題になっていて、それをどう解決するのがいいのかを自身が知らないといけないでしょうし、依頼者が思う課題の背景や理由が、実はよく調べてみたら一部でしかない、ということもありえるでしょうから、であれば解決方法も変わってくるであろうし、そういうところを解き明かしていくのが求められているのではないかと思うからです。
 
まあ、上述の人はコンサルではなくて、正確に言うとコンサル出身の人ですが、それでもコンサル的に働いてほしいと依頼を受けているのでしょうから、そのように動くべきだろうとは思います。




不満


 

ただし、実際にプロジェクトを進めていく上で感じるのは、仕方のないことではありますが、そもそも事業内容についてよく知らないというのがありますし、これは問題で、表面だけなぞって理解しようとすらしていないような気もします。
 
というか、依頼者の人の依頼をかなり浅いレベルでしか理解していなくて、なんならちょっと誤解をしているのではないかとすら思います。
 
というのも、プロジェクトのレポートの方向性が一貫していなかったり、突然新しいパーツを入れたレポートにしようという指示がきたりするからです。
 
まあそれが依頼者の指示であるならば100歩譲って仕方のないことなのかなとも思いますが、先日あった中間報告では、結果的に依頼者はそんな指示をしていないし求めてもいないということが分かりました。
 
私にとっていい判断だったなと思ったのは、その新しいパーツというのは私が分析や提案を進めてきた内容ではカバーできない内容だから、もしも急に含めるということであればそのパーツはその元コンサルの人でカバーをして話をしてほしいとお願いをして、私は無駄に手を動かさなかったということです。
 
結果的に、そこに時間をかけても説明する時間の無駄にしかならず、依頼者の人は求めていなかったわけですので、我ながらいい判断をしたと思っています。




依頼する側の問題も


 

ちゃんとコンサルタントとして業務を行なっている人であるならば、今回のようなことは起こらなかったのかなという思いはある半面、一方でこの依頼者の人の進め方にも問題はあるのかなと思っています。
 
なぜならこの人を選んだのは依頼者の人だからです。
 
最終成果が左右されかねないことですし、その人を選んだのは依頼者の人であって他の人ではありませんから、その責任は依頼者の人にあるはずです。
 
もしもその人を活用するつもりであるならば、その人とのコミュニケーションをしっかりとって、何を求めているのかというのを詳細に連携してほしいところですし、それができないのであるならば別の人に依頼するなり、自分自身でリードするなりして、プロジェクト全体をうまくコントロールしてほしいなと思います。
 
依頼者の人自身は、自分がやりたいことが明確にあるはずなので、それを実現するにはどうすればいいのかを考えることには責任があるはずです。
 
もちろん、リソースの問題があるなどで、全部が全部を自分が関わるということには限界があるでしょうし、だからこそコンサルタントを雇うということもあるのでしょうけれども、誰を選ぶのかは重要だと思います。
 
今回コンサルタントの役割で参画している人は、基本的に自分の意思はない人だと思っていまして、それ自体はある種仕方のないことだと思います。
 
そこに自分の意思を持てというのは逆に暴論で、あくまでもコンサルタントは論理的に考えて何が最善策化を考える役割だと思うからです。
 
しかしだからこそ、その意思の部分、さらに言えば依頼者の人の意思の部分を明確にして動くことが大切だと思いますので、それができていないならば、コンサルタント的な人もイマイチですし、依頼者の人もイマイチだよなと思います。
 
今回にいたっては、ちょっとそのコンサルタント的な人の動き方が良くないと思いますので、そのことを、今度、依頼者の人に直接言ってみようかなと思っています。
 
私の負担が増えるのは避けたい反面、自分の仕事が厄介になるのはなるべく避けたいです。
 


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金儲けで騙される



 

 

とあるアクセサリーシェアリングサービスを提供していた会社が突然にそのサービスを終了し、さらにはシェア用に顧客から預かっていたアクセサリーもオークションなどで転売をしていたのではないかと言われている事件ですが、発覚から1か月以上たった今でもまだ全容が見えてこないままです。

 

実は、今回とは全くの別件で、過去に知り合った人が、同じようにシェアリングサービスを提供していて途中でドロンした、ということを問題にしているブログにたまたま出会ったことがあります。

 

そのブログに書かれていたことを今回の事件は少しやり方は異なっているようですが、どちらも詐欺ではないかという印象を持ちます。




発想はいいビジネス


 


シェアリングサービスって、ある種の共有財産として、効率よく資産を使っていきましょうという意味では私はいい発想だと思っているのですが、運営者の意図によってこういう詐欺につながりかねないという点も考えると問題があるビジネスモデルであるとも言えますね。

 

本当に発想自体はすごくいいと思いますし、もしも運営者側が誠実な人であるならうまく回るビジネスモデルであるとも思います。

 

シェアリングサービスの発想を革新的だとほめたたえている書籍もないわけではありません。

 

まあその、信頼できる誠実な人、という点が担保できていないということが問題ではあるのでしょうけれども。




騙された側への批判

 



そんな年利10%、20%の投資サービスなんてあるものかとか、大切なものをなぜ見ず知らずの他人に使用させるのか神経が分からない、といった、騙された側にも問題があるのではないかという論調はありますし、確かにその意見そのものは間違ってはいないと思います。

 

冷静に考えれば、本当にそれだけ儲かる投資やサービスがあるだろうかということは眉唾物です。

 

ただそんな風に思う私も、騙される側の気持ちが分からなくはないです。

 

実際にやってはいませんが、過去に問題になった、牛に投資をするという話をネット広告で見まして、やってみようかなと興味をそそられたことがあります。

 

なぜ思いとどまったのか、その理由ははっきりと覚えてはいませんし、ちょっと怪しいなと思っていたのかもしれませんが、そんなに都合のいい投資話があるわけない、とまでは思っていなかったのではないかと思います。

 

儲かる話というのはやはりそれだけで興味がひかれるのだろうと思いますし、こんなに多くの人が利用していますよとか、今はやりのシェアリングサービスですよ、と言われると安心してもいいのかなと思ってしまう気はします。

 

大切なものをなぜ見ず知らずの他人に使用させるのか、というのは確かにそれはそうなのかもしれませんが、あくまでもコレクションとして収集している限りでは、資産価値も上がっていく可能性もあるとは思いますが、フローとしてお金が入ってくるわけではありません。

 

何台もの時計を同時に使用するわけでもありませんので、使用していない時計というのは確実に存在していて、では棚に飾っているだけではなくてキャッシュを生んでくれる資産として活用しようかと思うのもまた無理はないかと感じます。

 

この、今はキャッシュを生んでくれていない資産を活用して、高い利回りで運用ができるのであれば、オーナー側からしたらありがたいという話でしかありません。

 

もしかしたら当然に、オーナーの中にもレンタルによって傷つけられたらどうしようと考えていた人はいたと思いますが、例えば保障があるとか、あるいはそういうのを借りる人は感度が高いので大切に扱ってくれますよとか、なんだかんだ吹き込んで納得させていたのかななんて勝手に想像しています。





いつも冷静ではいられない


 



そういう、儲けたいという人の心理にうまくつけこんで、今回のような話が生まれたのだろうなと思います。

 

外から客観的に観ている人にとっては、なんでそんな話に騙されるのと思うようなことでも、当の本人たちにとっては魅力的に映ってしまうなんてのはよくあることだと思いますし、もしもみんなが本当に冷静に判断できるのであれば宝くじなんて売れないはずですし、マルチに引っ掛かる人もいないはずですからね。

 

まあ一応、宝くじは国が運営しているというのもあっての安心感はあるのでしょうから、今回の話とはまたちょっと違った背景を持っているとは思いますけれども、私が言いたいのは、我々一人一人がいつも冷静で合理的な判断をすることなんてのはないということです。

 

しかしながら例えそうであったとしても、我々は騙されやすいのだからうまい話は眉唾で聞いておく、という心構えを持つことは大事なのだと思います。

 

そんなに簡単に儲かるならば誰でもすぐに億万長者になれるはずですが、世の中そういう話で億万長者になった人なんて数えるくらいしかいないと思います。

 

まあ、私も部外者だから冷静に言えるのでしょうけれどもね。

 

 

 


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子を持つ親をサポートする仕組みはいるな



 

普段、私は仕事帰りに家に着くのが遅めで、その頃の時間には子どもはもう寝ている、ということが多くあります。

 

以前、お子さんがいる同僚と話をしているときに、中途半端な時間に帰ると子どもが起きるから、そういう時間に帰るくらいならどこかで飲んできて遅く帰ってきてほしいと奥さんから言われているなんて話を聞くと、そんなものなのかなと思っていました。

 

実際に自分の場合、平日はなかなか会えない私が、平日の夜に普段よりも少し早く帰ってくると子どもが興奮して、すでにベッドにいたのに起きてきて、遊んでほしいとねだってくる、ということがあります。

 

本当に、次に子どもが眠いから寝るといった時は、ベッドに行って5秒で寝るくらい、限界の限界まで遊びます。

 

寝起きの時なんかはママ、ママで、私のことは視界からどいて欲しいくらいの対応をされるのですが、夜はそんな感じです。

 

そして私が恐らく幸運なのは、だからといって、もっと遅く帰ってきてほしいと妻には言われないことでしょう。

 

子どもにも翌日のことがありますから、あまりそういうことが頻繁にあると言われてしまう可能性はあるとは思いますが、少なくとも今のところは言われていません。




子どもは敏感


 


まあ、私も疲れていることがありますし、やりたいことがあることもありますし、子どもに遊んでと言われてうれしい気持ちがある反面、ちょっと面倒くさいなと思うのも正直なところです。

 

しかし、そういう態度を取っていると子どもは敏感にそれを感じ取って、何とか私の機嫌を取ろうとしているのかなと思う行動をしてくることがあり、それを見るとなんだか非常に申し訳なくなって、ここはもう割り切って遊ぶか、という気持ちになります。

 

そうは言いつつ私も、チャンスがあるなら自分のやりたいことを優先したいという思いは常にあるのですが、そうは言っても子どもが親の顔色を見て、実際にそうやって気を遣ってくることは、少なくともまだ幼い時期には決して良いことではないと感じています。

 




悲しくてひどいニュース





でそんなことを考えているときに、両親がわが子を虐待したとか、死に至らしめたなんてニュースをまた見ましたし、だからいい悪いという話ではないですが、その両親は裕福な家庭の資産家で何の不自由なく生活しているということが付随情報として入ってくると、実際にその両親がどういう心境で、どういう環境にさらされていたのかということは分かりませんし、もちろんすごく追い込まれていたのかもしれませんが、なんだかなあという気がします。

 

さらに、子どもを死に至らしめたのもなかなか狡猾というか、子どもの特性をうまく利用したというか、大人のずる賢さが見え隠れするのも非常に嫌です。

 

いえ、私も大人のずる賢さを利用しながら子どもに接することはあります。

 

お菓子を食べているのに食べていないふり、スマホで別のことをしているのに子どもに集中しているふり、そういうことは確かにします。

 

しかしながらそれは程度問題の話でもあるだろうとも思います。

 

何を大人が本気になってその狡猾さを発揮しつつ、さらに子どもを死に至らしめているんだ、というのはちょっと許せません。

 

ニュース記事を読む限りですが、恐らく子どもの方は親の顔色をうかがいながら、親の機嫌をなるべく損ねないように過ごしていたのだろうと思われますし、それは後で親から自分が怒られないようにのための自己防衛から来るものであったと思われます。

 

本当に自分を守るためであれば、助けてほしいというサインを外部に送るべきなのでしょうが、子どもにそんなことを求めるのはとても酷です。




周りも危険を感じていた

 




今回、耳にしたニュースの場合、周りも兆候を感じていたというようなことが読み取れますし、助けようともしていたのだと思いますが、残念ながら力及ばずという事態になってしまったようです。

 

この両親を擁護することはできませんが、親も人間である以上はこういう事象はどれだけ対策をしても必ず起きてしまうでしょう。

 

また、なんだかんだで子どもは親元で過ごした方がいいのではないかという観念はありますし、子どもの方も誰かから尋ねられれば、なんだかんだで親と一緒にいたいと答える可能性が高いのではないかと思います。

 

ただ、親が子どもに恐怖によって本当のことを言わさないようにしていることもありますし、例え子どもが何かを訴えても親の方が論理的な説明ができることでうやむやにされることもあるでしょう。

 




親も人間




当然に、虐待をしている親の方は、その事実が明らかになることを恐れるでしょうし、広く子育てに悩んでいる多くの親も自分自身の能力にも悩んでいることでしょう。

 

そもそも子育てに悩んでいる、うまく子育てができないということを公にすると、親としての資質を疑われるのではないかという不安や恐怖もあると思います。

 

一時的にでも、問題がありそうな親からは子どもを強制的に隔離させる施策やルール作りを強化すれば、このような悲しい事象の抑止には効くのかなとも思いますが、そうすると世間的を傷つけられたとより反発をする親も出てくるかもしれないなとも思います。

 

またになりますが親も人間で感情はありますし、全員が全員、子育てがうまくいくわけでもなく、運の要素が多分に絡んでくるとも思いますので、ちょっと子育てでつまずいたところでそれが人間失格のサインかと言われるとそうではないと思います。

 

その一方で、子どもを全員東大に入れた母親の教育方法、なんてのが持て囃されて、すごいと称賛されているのも確かではありますし、子どものステータスが親のステータスのように見られているというのも確かだなと思います。

 

子どもにとって何が一番幸せなのか、何が不幸なのかははっきりとはわかりませんが、少なくとも、子どもが千差万別なように親だって千差万別で、であるからして子育てに悩むなんて当然で、いつでも外部のサポートをお願いしてよい、周りはなるべくサポートする、子どもは社会で育てるというような認識がまず広がって欲しいと思いますし、今回のように、色々な関係者が危ないと思っている事例においては強制力を持って子どもを親から引き離す、ということも、やり方の検討は必要でしょうが、もっと考えてもいいのかなと思いました。 

 

 


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進歩か倫理か



 

 

遺伝子が改変されて人間への移植用の臓器を持った状態の子ブタが日本で誕生したそうです。

 

本来、種の壁を越えて臓器を移植すると当然に拒絶反応が起きるところを、その拒絶反応を抑えるために、遺伝子レベルでの制御が行なわれているようです。




取り急ぎの印象

 



今、私自身やその近しい関係者が、緊急で何らかの臓器提供を待っているという状況ではありませんので、差し迫った必要性というのはない状態です。

 

ぱっと聞くと、そもそも生のブタを食べてはいけないと言われているのに、ブタから臓器移植をして本当に大丈夫なのかなというのが感想としてあります。

 

当然そのあたりを考慮されての開発であるということは認識しておりますけれども、もしそういうリスクを避けることが可能なのであれば、食べても問題のないレバ刺しの開発というのも可能だということなのだろうか、とつまらない考えにも思いを巡らせています。

 

今後実際に、どのように人間への移植が可能とされる状態に持っていくのか、というのは私にははっきりとはわかりません。

 

つまり、ブタから臓器を提供してもらう形なのか、違う動物を使用するのか、はたまた培養液の中でやるのか、は分かりません。

 

でも、もしブタだとしたら、イスラム教徒の人は当然に嫌がるだろうな、なんて思いますし、宗教に関係なく嫌がる人は当然にいるだろうなと思います。

 

まあ、嫌なのであれば断る権利はある話ですので、決して無理やりにという話ではないのでしょうけれども、ブタではないと思っていたら実は、みたいな話が将来に出てくる可能性はあるだろうなとは思いました。

 

ブタであれば食肉にも活用できるとか、成長が早いとか、色々とブタが選ばれた理由はあるのでしょうから、なぜブタなのかなと素人は思いますが、恐らくそのあたりは合理的に考えられていることなのでしょう。

 




どう考えるか





仮にこの話が成功裏に進んだとして、あとは倫理的、そして心情的にどうかでしょうか。

 

心情的にという話はどこまで行っても出てくる話ですし、例えブタに育ててもらった臓器で生活していますという人がいても、その人がそれで満足、幸せに暮らせているのであれば他人がどうこう言う問題ではないと思います。

 

そして、先ほどもあったように、もしも自分が嫌なのであれば断ればいい話です。

 

倫理的にというのは難しい話かもなと思っています。

 

なにせ、遺伝子改変をして、本来ブタであればというなにかを失わせるわけですから、そのブタはブタの見た目ではありますが、ブタではないなにか、とも言えるわけです。

 

人間の歴史の中で、品種改良や異種交配をさせることで人間のために別のモノを創り出してきたということは事実として存在していますので、それの同じような話であると言えばそういうとらえ方もできるかもしれません。


またこの技術進歩によって救われる人は出てくるでしょうから、ヒトの命を救う観点からはいいことでしょう。



 

 

 


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勘違いするおじさん




月に1回くらい顔を出す居酒屋があるのですが、お店を切り盛りしているのは私よりかはちょっと年配の女性と、私よりもちょっと若めの女性がメインの小さな居酒屋です。

 

値段は決して安くはないのですが、そこまで高いわけでもなく、一人で行ってもその店員さんと時に会話を楽しみながら飲み食いできます。




居心地

 



まあせっかくしゃべるなら男性よりも女性の方がいいというのが私としても正直なところですし、だからこそお店に伺うと年配の男性の方で来られている方もよくいらっしゃいます。

 

まあ、最近はちょっとゆっくり飲みながらほっとしたいのに、店員さんが私と他のお客様を繋ごうとしてくださることが増えてきまして、そうなるとちょっと煩わしいというか、もう少し距離感がある方がいいんだよなと思い始めております。

 

常連になってきているという言い方もできるかもしれませんが、そのために居心地が時に良くないお店になってしまっておりまして、せっかくいいお店を見つけたと思っていたからこそ、ちょっと残念でもあります。

 

中には常連と認識されることがうれしいと思われる人もいると思いますし、私もお店の人に常連と思われること自体は決して悪い気はしないのですが、だからといって他のお客様を紹介されるようになってしまうと、その空間はもう私がゆっくりする空間ではなく、積極的に他人とコミュニケーションを取らないといけない空間になってしまいますので、それがちょっと嫌なのです。

 

ネットなんかで、よく行くお店からの帰り際に、「いつもありがとうございます」という、「いつも」という言葉を言われると急にそのお店に行きづらくなる、という人もいまして、私はそこまでではないのですが、程度によってはその気持ちも分かるなという感じです。

 

もちろん、お店の人は良かれと思って他のお客様に紹介してくれているのは分かりますので、私からしたら冷たく無下にもできません。

 

お店の方自身が、来られているお客様といい関係性を築いているということもあると思います。




相談されたこと

 



で、最近、そのお店の人から相談というか、ちょっと話を聞いてほしいというようなトーンで話しかけられたことがあります。

 

要は、常連の男性のお客様の1人が帰り際、お店の方に無理やりに激しいボディタッチをしようとしたことがあったらしく、なぜそんなことをするのだろうかという内容でした。

 

まず大前提として、そういう行為をする人はどう考えても悪いのは間違いありません。

 

その上で私が感じたのは、お酒に酔っているということもあるとは思いますが、その男性のお客様は単純に勘違いをしたのだろうということです。

 

つまりは、いつもニコニコ接客をしてくれる女性のお店の方は、自分に好意があるのではないか、自分が多少強引に事を進めても受け入れてくれるのではないか、いやむしろそうすることを望んでいるのではないか、と勘違いをしたのではないかということです。

 

そして、例えばクラブなどであれば特に営業目的でコミュニケーションを取ってくる女性がいるのは普通ですが、ただの居酒屋で女性の店員さんが自分に仲良く話しかけてくれるというシチュエーションはそれとはまた違っていて、より男性が勘違いをしやすい状況にはなっているのではないかと思います。

 

恐らく、普通よりかは少しフレンドリーな接客をしているだけでしかないのですが、全てのお店がそういう接客対応をしているわけではありませんので、より距離の近い積極対応をしてくれる人は自分に好意があるからそうしているのではないかという勘違いをしているのです。

 

逆に男性から言わせると、勘違いさせるような言動を取られた、という言い訳も出るかもしれません。

 

勘違いをさせてしまう行動にももしかしたら問題はあるかもしれませんが、ちょっとフレンドリーなくらいでそんな勘違いをするなとは思います。




勘違いであることを認識しよう


 


で、私としては、男性としてそういう勘違いをしてしまうことそのものは仕方がないと思いますし、私だってそういう勘違いをすることがあります。

 

職場にいる若い後輩女性や同年代の女性から、飲みに連れて行ってください、と何度もお願いされて飲みに行っていると、あれ、自分はイケているんじゃないかと思うことはあります。

 

そうして会話をしていると、「すごいですね」「尊敬します」なんて言葉もかけられるわけです。


誇ることではないですが、当然に私に下心はありますから、イケるならイったろか、の姿勢は程度の大小はあれ、あります。

 

で、当然私も勘違いをする気持ちにはなるのですが、そこでもう一歩大切にしているのは、「これは勘違いであると肝に銘じよ」ということです。

 

個人の嗜好にも関わってきますのでもちろん一概には言えませんが、自分が20代後半、30代前半だった頃に、10歳、15歳上の女性にどこまで魅力を感じていただろうか、ということを考えて、今はその逆のシチュエーションが起きているだけだとすれば、相手が自分に対してどういうことを思っているのか、はなんとなく想像できるはずです。

 

誰かとの関係性を敢えて悪化させようとする人は少ないでしょうし、先輩と後輩、お客とお店、といった関係性も踏まえれば、多少のリップサービスはあって当然です。

 

もしかしたら本当に好意を持たれていることもあるかもしれませんが、その可能性は限りなく低いと考えた方が間違いなく正しいでしょうから、今自分は勘違いをしている、ということをちゃんと認識できた方がいいと思ってそうしています。

 

なにより、そんな勘違いを基にした軽率な行動で訴えられて、人生を棒に振ることなんてあったらそれこそもったいないですよね。

 

もしもどうしても我慢できなかったら、しかるべきサービスを受けられるお店に行った方が、みんなが幸せになると思います。


私はこのお店の人の話を聞くだけで、アドバイスはしませんでしたが、まあ、勘違いした人が悪いと思います。

 

 


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セミリタイア志向者にとってのいいニュース?

 



 

 

近年は勤務時間外の仕事に関するメールを無視する「つながらない権利」の法制化が各国で進んでいるみたいなのですが、オーストラリアでもこの度上院で法案が可決されたというニュースを読みました。

 

最近は、在宅環境で業務につながれるシステムの整備やら会社スマホの導入やらで、ひっきりなしに業務関連のメールが来ますし、なんなら会社のチームの間でのライングループの作成などでの業務関連メッセージも来ることがあります。

 

つい先日も、そういうチャットでの業務指示はやめてほしいという話を書きましたが、残念ながらきますし、それが便利だと思っている人は年齢に関わらずにいます。

 

しかしそれは常に仕事に追われるという環境を創り出していることに他なりません。

 

週末、休日関係なくメールを送ってくる上司もいますし、さらには早い返信を求めてくる人、返信しないと怒る人すらいます。

 

別に休日に仕事がしたい人はすればいいと思うのですが、それを他人にまで求めるのは違うと思っているし、休日に仕事をしないからダメだというように評価をするのは間違っている、というのが私の考えです。




知らない過去を懐古する


 



私が社会人になりたての頃に、当時の先輩社員から聞いた話では、まだ1人に1台パソコンもなく、当然にスマホや携帯電話をほとんど誰も持っていなかった時代は、営業担当社員は社外に出ますが、誰がどこにいるのかも分からなかった時代でした。

 

一応、前日や当日朝に、どこの得意先を回るなんてことはホワイトボードに書いたり、上市に報告したりしてはいたみたいですが、実際には得意先にはいかずにちょっとサボるというようなこともあったようです。

 

まあ、サボりの話は当時に限った話ではなくて、今でもある話だとは思いますが。

 

しかし今と違うのは、直接に社員に連絡が取れないということであって、仕方なく上司や会社は得意先の固定電話に電話をかけるなんてことがあったみたいです。

 

そうすると、優しい得意先さんなんかは、本当は営業に来ていないのに、さっきまでいましたよというような話をしてくれて、その後で営業担当者の人にこういう電話があったよと教えてくれる、なんてこともあったみたいです。

 

サボることは良くないことなのかもしれませんが、人情というか、非常に温かみのある話だなと思いながら聞いていました。

 

まあ、今でも田舎の方に行けば、ちょっとゆったり時間が流れているというのは本当ですし、ちょっと人情で何とかという文化も残っているとは聞きますから、スマホからは逃げられませんが、気持ち的に余裕はあるのかもしれません。




部下であり上司でもある人


 


サラリーマンと言っても、上司の立場の人もいれば部下の立場の人もいます。

 

中間管理職になるとその違った立場に同時に立たされます。

 

で、私も色々な立場の人に話を聞いてみることがありますが、もちろん休みの日に業務メールを送ってくる、あるいは業務対応を求めてくるのはやめてほしいと主張する人もいますし、管理職になれば休日も業務対応するのが当然だと主張する人もいます。

 

私が面白いなと思ったのは、自分には休日の業務対応を強制しないでほしい、その代わり、自分の部下は自分のために休日であっても働いてほしいという主張をする人もいたことです。

 

まあはっきりと言いまして自分勝手な態度ではありますが、かなり自分に正直でもあり、その主張の仕方も含めた潔さに私はむしろ心地よさを覚えたくらいでした。

 

もちろん、上司や部下といったくくりに関わらず、みんなが健康に気を付けながら、プライベートとワークのバランスをしっかりとって働くというのが理想だとは思います。

 

その一方で、自分は嫌だけれども自分の部下は自分のためにとにかく必死に働いてくれれば、上司であれば決して悪い話ばかりでもないというのも事実ではないかと感じました。

 

上司としては、優秀な部下が馬車馬のように働いてくれれば自分の結果として評価を受けるでしょうし、優秀な部下に自分のポジションを奪われるリスクは出てはきますが、少なくとも彼らを部下にしている間は安心して自分の仕事を進められるでしょう。

 

漫画にあるような、能力が低い、問題児ばかりを集めてチームを組んだら化学反応が起きて絶大な業務成果を出したなんてことも、もしかしたらあるのはあるのかもしれませんが、恐らくそんなのは稀で、優秀なメンバーが馬車馬のように働いてくれた方が安定的に高い評価を出せるのは間違いないと思います。

 

実際問題としては、部下が馬車馬のように働いてくれる上司にならないといけませんから、恐怖による支配なのか、優れたリーダーシップなのかは分かりませんが、上司の方も部下をそうさせる何かしらのパワーが必要にはなりますので、決してそんなに簡単なことでもないとは思いますが、もしもそういう状況をつくれるのであれば上司としては楽でしょうし楽しいかもしれません。

 

というようなことも踏まえて考えると、「つながらない権利」が法制化されると、一部の上司の人にとっては困ったことになるのは確かですし、もしかするとそれが回りまわって、企業にとっても困ったことになるかもしれないというのはあります。

 

現代の事を考えると、それで企業が困ったことになるということが問題なのであるということになるとは思いますけれども。

 

法制化ということは、それに違反した際には不法行為として何かしらの罰則規定を設けるのかどうか、というのも企業にとってはなかなか大変な死活問題になってくるかもしれませんね。

 

 

 

 

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習い事とはなにか



 

少年野球は習い事ではないという主旨のネット記事を読みました。

 

何を言っているんだ、少年野球は習い事だろう、という気もぱっと聞くと思いますが、主張としては、習い事ではなくてコミュニティ活動なのではないか、ということでした。




記事の筆者の考え


 



この筆者の定義づけとしては、習い事というのはスキルを磨くことやお客様に対価を与えることに主眼が置かれるのに対して、コミュニティというのは営利目的ではない互助的な関係性の元で活動が行なわれているという違いがあり、すごく極端に言うと、習い事は野球塾のような感じで、強いチームであることや、そのチームから強豪校に進んで野球をやっていることが大切にされる一方で、コミュニティではみんなで集まってちょっと遊ぼうか、というような感じという違いでしょうか。

 

お金を払って、時間が決まっていて、ユニフォームをしっかりときて、監督やコーチがいて、グランドが予約されていて、ビシバシと指導されるのが習い事である一方で、道具やらを持ち寄って、時間のある人が集まって、好きな服で、野球好きのおじさんが勝手に教えていて、そこら辺の空き地でわいわいやっているのがコミュニティとも言えるかもしれません。

 

私も子どもの頃に習い事をしていましたし、野球に限らずスポーツ、楽器、公文や英語などの勉強、周りの友人も色々な習い事をしていました。

 

習い事である以上、(親が)お金を払っていましたが、少なくとも私の場合、必ずしもスキルアップのみに主眼を置いて習い事をしていたわけではありません。

 

もちろん、スキルアップにはつながってはいましたが、別にそれを武器に生きていこうとか、ずっと続けようということではなくて、時間もあったし、友達も習っていたからそうした、というような意味合いが強い場合もあったような気がします。


子どもはあまり気にしないのかもしれませんが、周りの親の方が加熱している場合は、こういう習い事の場合はある気がします。

 




筆者の意図





というところで、なぜ筆者の人がこのような主張をしているのかを考えるに、恐らくですが、昨今の少年野球で、多くのチームが野球塾のような感じになっていることに警鐘を鳴らしているというか、さらに言うとそうなっていることで野球人気が下がってしまっていることに警鐘を鳴らしているのではないかと思われます。

 

もっと言うならば、野球って本来楽しいものなのだから、楽しくやろうよ、ということでしょうか。

 

私も話でしか聞きませんし、そういう話だから私でも聞くのかもしれませんが、小学生の頃から野球チームで勝利第一の指導がされる、ミスをすれば監督やコーチからどやされる、チーム内の親の力関係でスタメンやベンチが決められる、親がボランティア的にチームのサポートをしなければならない、など、空き地で子どもだけで時に喧嘩もしながら野球をしていた私の周りにあった環境とはがらりと変わった環境が、今の少年野球にはあるということは耳にします。

 

私の子どもの頃は、近所のおじさんが、ちょっとおじさんが教えてあげよう、なんて声をかけてくることもありましたが、今ではそういうことをやると変質者扱いされるかもしれませんね。

 

今では、やっている子どもよりも親の方が子どもの習い事に熱中しているなんて話も聞きますし、親の立場からすればかわいい子どもを応援したくなるのは仕方のないことなのかもしれませんけれども、不思議だなと思うこともあります。

 

親の側が、なぜうちの子どもは試合に出れないんだ、と文句を言う気持ちは分からなくはありません。

 

最近話題にされるモンスターペアレントの方もいるでしょうし、勝利至上主義のためにうまい子しか試合に使ってもらえないというのもあるかもしれませんが、やはりやっている本人としても試合には出たいものだと思います。




共感するところがある


 



私は野球が好きなので、子どもとキャッチボールしたいなと思いますし、子どもが野球を好きになってくれたらいいなと思いますが、そんな子どもを少年野球チームに入れるとなった場合に、ミスしたら怒声が飛んでくるようなチームには入れたくないなと正直に思います。

 

そもそもが、もちろんルールは守らないといけませんが、野球の理論だって年を経るごとに何が正しいのかというのは変わってきているわけですし、その指導者が教える型でやらないと間違いだ、というのもおかしいと思いますし、ミスなんて誰でもするものであって、子どもが野球のプレーでミスをするぐらい別にいいじゃないかと思います。

 

むしろ、子どもが野球を好きになってくれることすら少しの可能性しかないことでうれしいのに、変な指導者に出会うことで、好きだったはずの野球が面白くないものに変わってしまうということの方が私は不安です。

 

子どもであろうが大人であろうが、怒られることを避けよう、とすれば萎縮してしまって楽しくないですし、いいプレーをすることよりも変なプレーをしないことに意識が向かいます。

 

もちろん堅実なプレーをするということ自体は非常にいいことだと思うのですが、子どもの時からそればっかりになってしまうのには違和感があります。

 

お子さんがいる方なら分かると思うのですが、最初に子どもが立ち上がってあるこうとしているときに、歩き方の型なんて教えないですし、もっと踏ん張ってとか言わないでしょうし、多少間違っていようが歩いていることをほめるはずです。

 

前を見て歩きなさい、周りをよく見て歩きなさい、と怒ることはありますが、それは子どもの安全のためにそう言っているだけであって、こけたからといって怒るということもないでしょう。

 

筆者も、野球塾のようなスタイルが必ずしも悪いわけではないという立場に立っており、私も同じ立場ではありますが、それでも筆者が言わんとしていることには共感できます。

 

まあそもそもの環境として、公園でのボール遊び禁止とか、大人が環境を制限してしまっているからこそ、いわゆるコミュニティでの遊びができるスペースが限られてしまう結果、習い事の場しか社会が提供できなくなってきているのではないか、特に都心ではその傾向が顕著なのではないか、と思いますけれども。

 

 

 

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本質が議論されない現状


 


 

 

 

 

少子化対策のための財源確保のために、医療保険料の値上げを検討しているということを政府が発表しました。

 

まあただでさえ、裏金問題として社会的な注目が政治家の行動に向けられている中での発表ですから、国民の負担をいたずらに増やすような施策を発表するタイミングとして、ちょっとセンスがないなとは思います。

 

聞いている方からしたら、そうじゃないだろと思うのは至極当然です。

 

だって、与党の多くの政治家が税金逃れをして、負担を逃れていたというのは間違いないのですから。




センスがない




また、それによって国民の負担が増えるのではないかという質問に対しての答えでは、国民1人当たり月あたり500円の負担となる試算で、賃上げを目指しているので国民の負担は増えない、という回答で、これまたちょっとセンスのない回答だなという気がします。

 

その負担増がなくて賃上げが達成されれば国民の収入はもっと増えるだろう、というのが一つと、達成される賃上げの規模が分からないので、万が一500円の賃上げ達成と500円の負担増でトントンということであれば国民の生活は楽にならないじゃないかというのが一つと、そもそも本当に賃上げは達成されるのだろうかという懐疑的な見方があるというのが一つでしょう。

 

説明としてそうなるのは仕方がないかもしれませんが、国民1人当たりという言葉も結構あいまいで、実際には負担する人としない人もいるでしょうし、年収が1000万円の人も300万円の人もいる中で、そういわれるとあまり負担は増えないような気もするけれども、その負担の強度の感じ方は人それぞれでしょう。


 



本質ではない議論で見失われるもの




とそんなこんなで、もちろん少子化対策をすること自体は大切だと思っていますし、何ならもっと真剣に取り組むべき課題で、取り組む時期もスピードも本気度も不十分だというのが私の感想ですが、そんな重要な案件について国民が考える機会を与えるのではなく、政治家自身の行動によって国民の反発を生んでしまうというのは本当にもったいないと思います。

 

以前にも書きましたが、私はその政治家が本当に国のためを思って政策を考え実行しているのであれば、多少の懐を肥やしていても別にそこまで腹は立たないと思います。

 

国のためにと働いている政治家が私腹を肥やすだろうか、というポイントは横に置いておいて、何がなんでも清廉潔白でいろ、とは思わないし、欲のある人間である以上は、まあいろいろとあるかもね、と理解はできるということです。

 

ただし、国民のためになる政治活動をしてほしいわけですが。

 

他の方がどう思っているのかは分かりませんが、繰り返しになりますが、少子化対策をすること自体は私は日本という国のために必要だと思っていますので、今すぐにでも政府には強化してほしい政策です。

 

少子化対策を考えようとすると、単純に子どもを生むことに対して何らかのアメを与えるということだけではなくて、子どもを生みたくなる社会づくりであったり、そもそも未来が希望にあふれたものであるということを多くの日本人がイメージとして持ったりなど、日本という国をどうやって良くしようか、ということを考えて政策として実行していく必要があると思います。

 

当然それには財源も必要でしょうから場合によっては増税も選択肢の一つでしょうし、中にはより負担を感じる人も増えるかもしれませんが、それは避けられない痛みでもあると思います。

 

今は痛みがあったとしても、人口が減る、少子高齢化するというのは緩やかに国が衰退に向かっていくということですので、それは避けたいという思いがあり、だからこそ、本来、政府としてやるべきこととしてしっかりと取り組んでほしいのに、そこに至るまでのプロセスがあまりにもゴタゴタしすぎていて、なんだか少子化対策をすること自体が間違いなのではないかという印象を国民に与えてはいないか、それは日本という国として大変な損失なのではないか、と思うわけです。

 

もっと真剣に政府が、国が取り組んでほしい、と思います。

 

確かに、一方で多くの国民の人に、少子化対策は重要であると思ってほしいと考えていますし、例えば本来であれば裏金問題と少子化対策の話は分けて考えて、それぞれに対してどうか、ということを議論しなければならないと思います。

 

しかしながら今の状況において、それらを結びつけての議論になってしまうのもまた当たり前というか、それを結び付けて考えないなんて間違っている、とは言えません。

 

あまりにも国民から信頼されない行動を政府、与党がとってしまっているのですから、そんな政府や与党が出してくるアイデアは全部おかしなものである、という印象を与えてしまうのはどうしても避けられません。

 

そういう意味で、あまりにも政府や与党はセンスがなさすぎではないか、と思いますし、国のかじ取りを任されている自負があるのかと問いかけたくなります。

 

正しいことをやろうとしているのに信頼されていないってなかなかのものだと思いますが、そんな状況をつくったのは誰だと問いかけられると、悲しいかな政府、与党なのですよね。

 

残念ですね。


少子高齢化とか知らないよ、と思っている方ならば尚更反発するでしょうね。

 

 

 


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ペットの扱い方




飼い主から逃げた犬が人を噛んで怪我をさせたなんてニュースを見ましたが、年始の羽田空港での航空機事故の後に、旅行の移動の際にペットを人間同様に扱うことについての賛否の声が出ました。

 

特に欧米では、ペットを家族の一員として扱う傾向が強く、日本でもよりそのような方向に向かうべきではないかという声が賛成の声だと理解しています。

 

今回のような事故を想定した場合に、ペットを貨物室で運搬するというのはかわいそうではないかということも影響していると思います。

 

貨物室がどのような環境か知りませんが、貨物室に乗るペットはかわいそうな気がするなというのも感じますが。





欧米もいろいろ

 




とはいえ、欧米であっても、航空機内にペットを持ち込んでいる人というのをあまり見た記憶はありませんので、実際問題は客室にペットを持ち込むということは欧米でもされていないのではないかと思っております。

 

バスや電車であればそうしている人を見たことがありますが、まず大前提としてしっかりと躾がされているということがあると思いますし、あまりにも大型の犬を公共交通機関に乗せることについて、支持をする声ばかりかというとそんなこともないという印象です。

 

やはりいくら訓練されていたとしても、いい言葉づかいではありませんが犬は犬ですし、いつ何時、暴れだすかもわからない中で、公共交通機関には体の弱い人や子どもなんかも乗っていて、場合によってはかなり危険というのがあると思います。

 

実際に乗ってきた飼い主と犬を排除しようとまではならないものの、あいつは常識がないな、というようなことを周りの知らない人から私が小声で言われるという経験をしたことがありますし、何事もバランスと言えばバランスなのだと思います。

 

カフェなんかで、ペットフレンドリーなカフェやレストランが日本と比べて多いか少ないか、で言えば、圧倒的に欧米は多いと言えると思っておりますが、であるから全ての面でペットが人間同様レベルの扱いを受けているかと言われれば、そうではないと思っています。

 

旅行に行く際などに利用できる、ペット用のホテルなどの環境が欧米の方が整っているのかなと思うことはありますが、それはあくまでも想定でして実態は良く分かりません。




ペットは家族か

 



そんな私は、大人になってからペットを飼った経験がありませんが、ペットを家族の一員として扱ってほしいという思い自体は理解できます。

 

特に、長い間一緒に時間を共にして可愛がったペットというのは、それだけ愛着もあるでしょうし、他人から見ればただの動物ではありますが、自分から見れば相棒、友人、家族、そういう言葉で表すことのできる対象となっていても何ら不思議ではありません。

 

最近でも能登の震災で、買っていたペットがいなくなり、いつか戻ってくるかもと元々住んでいた場所に居続けた方が、事故でお亡くなりになった、その後ペットは別のところで見つかった、といったニュースを目にしましたが、結果としては不幸以外何物でもないのですが、ペットは帰ってくると信じて待ち続けた飼い主の方を思うと、より悲しく感じられました。

 

もしもの場合に、けがをして、あるいはおなかをすかせて帰ってくるかもしれないペットのことを考えると、その場所に居続けなければならないという風に思ったでしょうし、またペットが帰ってきてくれることを強く願っていたからこそそのような行動に出たのだと想像します。

 

そう考えると、ただただ悲しいニュースです。

 

実際問題として、動物の場合はアレルギーを持っている人の問題もありますから、例え家族の一員として扱いましょう、例えば公共交通機関に乗ることも不通と捉えましょう、ということになったとしても、実際には結構社会的に問題になることはあるだろうと思います。

 

ケースとしてはそんなに多くはないのかもしれませんが、アレルギーの話は下手をしたら命にかかわる問題になりかねませんし、何をどこまで配慮するのかというのはなかなか解決しない問題ではないかと感じます。

 

欧米のバスや電車であるような、ペットを持ち込むことの安全性の問題も議論は必要かもしれませんし、躾がちゃんとされているかどうか、というのもそもそもの問題になりえるでしょう。

 

色々な主張があることはいいことですし、議論がされること自体は何ら悪いことではないと思いますので、もしも今後この話題が熱を帯びるようになったとしても、関わる皆が寛容な態度で意見を交換するということは社会として必要だと思います。

 

なんだかんだで、まずは人間優先という形になるのはある程度仕方がないとは思いますが、どのようなメリットを誰が享受するのか、どのようなリスクを誰が負うのか、という視点でオープンに議論をすればいいのかなと感じます。



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