パワハラには気をつけましょう




 

 

とあるプロ野球の選手がチーム内でパワハラやセクハラをしたとして問題になっています。

 

どうも何かしらの問題行為があったのは事実のようです。

 

中学、高校、大学と体育会系の部活の中には先輩から後輩への厳しいアタリがあるというのはよく聞く話ではあります。

 

私の場合は、当然上下関係はありましたし、後輩が事前準備や荷物運びを率先して行なうというルールはありましたが、よく耳にするような厳しいアタリはなかったので、まあ緩い体育会だったのでしょう。

 

むしろ、思い出に残っているのは私を戒めてくれた、先輩からもらった言葉で、態度を改めろという内容の真っ当な言葉ですし、暴力もなく、私もそんな先輩になろうとも思ったものです。

 

ですので、個人的には、体育会系だからこういう問題があるのではなくて、一部のコミュニティではこういうことがある、と考えるのが正解ではないかと考えています。



スポーツ関係は多い


 

しかしながら確かに、体育会では先輩からの理不尽なしごきやいじめ、が行なわれているということは普段から耳にする機会は多いですし、なんなら少年少女のスポーツであっても、監督やコーチからぼろくそに言われるというのは確かにあります。

 

とある学生選抜チームに選ばれたことがあり、監督は強豪校で指導している監督でしたが、意図はしていませんでしたが、注意力不足から怠慢プレーをしたことがあり、ボロカスに怒られたことがあります。

 

ミスというよりかは怠慢プレーでしたので、怒られても仕方がないのですが、恐らく普段の指導場面では普通のミスでもボロカスに怒っているのかな、なんて印象を持ったこともありますし、河原でやっているお遊びのスポーツでも、なんでそんなに上から目線で子どもに怒れるのだろうかというくらい、怒声を飛ばしている大人もいます。

 

プロ野球の世界でも、最近の若い選手は起こられると委縮してしまうので指導方法に気を付けなければならない、なんて話を聞きますが、逆に言えば少し前までは選手は怒られることが当然であったとも捉えられますし、もしかしたら以前までは見過ごされていた行為が、今の時代だからこそパワハラやセクハラと言われてしまっているというのもあるかもしれません。

 

まあ報道されている内容が真実であれば、今の時代だからとかいう次元ではないような気はしますけれども。




会社員も気をつけないと

 



会社員でも、今の時代はパワハラ、セクハラには厳しい時代ですので、普段の言動には気を付けなくてはいけません。

 

上長が冗談半分で女性にセクハラとも受け取られかねない発言をしている場面に出くわしますが、私はとりあえずはそこに乗らないようにはしますが、発言を注意するということまではしていません。

 

ある種、見て見ぬふりをしていると捉えられても仕方がないとも言えますので、もし何かしら問題として通報されたら私も罰せられるかもしれません。

 

受け手がパワハラ、セクハラと感じたらそうなんだという理論では、いくら自分はそうではないと思っていようがいまいが関係ないので、常に注意を払う必要があります。

 

後輩におごってあげるから飲みに行こうよと誘うことも、しつこく誘えばパワハラになってしまいます。

 

軽口で今度飲みに行こうよ、なんて後輩を誘うのも、後輩からしたら上下関係もあるので断わりづらいというのは確実にあるでしょうから、度が過ぎれば立派なパワハラになりかねません。

 

だからこそ、上の人からしたら下から誘う割れるとうれしいものなんですけれどもね。

 

よくある飲みの場での説教なんてのもパワハラに該当しかねません。

 

酔っぱらっているからこそ、だからお前はダメなんだとか、男らしくないとか、そういう発言をしやすい思考回路になってしまっているということもあるでしょう。

 

まあ、わざわざ飲みに行って説教されるのは大嫌いですから、私はそういうことをしないようにはしていますけれども、どう思われているかは分かりません。

 

 

 


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

セミリタイア後の働き方



 

特にコロナ禍で一気に日本でも需要が増えたと思うのですが、ウーバーイーツはかつては素晴らしい働き方としてニュース記事にもなることがありました。

 

ギグワークの形態として隙間時間に働くことができる、というのも人気の要因の一つになっていたと思いますし、それでも単価の高い仕事でそれなりに稼げるという点も評価されていました。

 

ウーバーイーツを利用できる飲食店の前には時間帯によって多くの配達員が集まっているなんてこともありましたし、マンションの高層階に住んでいる人が地階にあるコーヒーショップから1杯のコーヒーを注文したなんて話も嘘か本当か知りませんが聞いたことがあります。



待遇の悪化?



 

しかし、参入する配達員が増えるにつれて、徐々に仕事の単価が引き下げられたとか、競争が激しくなるので配達回数が減ったとか、中には劣悪なサービスを提供する配達員がいるのでイメージそのものが悪くなったとか、以前にはあった素晴らしい働き方としてのイメージが崩れていっているように思います。

 

これはある種当然のように思います。

 

配達業務自体、決して楽ではないと思うのですが、新しい働き方としてもてはやされて、なおかつ結構稼いでこれで生活が維持できますという人が記事になることもありましたし、そもそもが資格なども何もいらない、参入障壁がすごく低い仕事だと思いますので、競争が激化するのは当たり前です。

 

魅力的で、なおかつやりたいと思えばやれる仕事があるなら、みんながやりたいと思うのは当然ですし、運営側やお店側、お客側にしても誰が配達しようがそこまで差別化にはならないということであれば、コストはなるべく安い方がいいというのは自然の流れです。

 

まあ、今回の場合は、市場をぐっと広げた後で、運営側が懐に入れる利益を増やしているだけかもしれませんから、そういう意味では運営側がうまくやっただけの話かもしれませんが、一方で配達員の人の待遇は悪くなってしまったというところでしょうか。

 

しかしそうなっては、ウーバーイーツで生計を立てようとしていた人たちは大変困ることにはなります。

 



そもそも論か?




ただ、少し前提に立ち戻るとウーバーイーツでの働き方はギグワークなのか、生計を立てる手段としてのメインの働き方なのか、どちらなのだろうかという話に立ち戻ります。

 

ギグワークがもてはやされる背景には、長時間拘束されるような働き方では達成できない人生の目的を目指しながら隙間時間でお金を儲けられる、というようなことであって、必ずしも長期間にわたって安定的に生計を立てるための働き方ではない、あくまでも繋ぎの仕事として優秀だからということがあると思います。

 

であれば、その働き方で生計を立てようとするのはいいのですが、それをサラリーマンのような安定的な収入源であると考えるのはそもそもちょっと違うのかもしれないのかな、と思います。

 

ただ、そう考える人が増えてしまった結果、市場への参入者が増えて、自らの首を絞めてしまっていると考えることもできるのかもしれません。

 

ウーバーイーツでは稼げなくなった、冷遇されているという経験者の声を耳にすることも最近増えているのですが、構造上、仕方のないことというか、むしろ市場の原理が働いていると言えるのかもしれません。

 

セミリタイアをした際の働き方としても一時期もてはやされた気がしますし、捉え方次第では魅力的な働き方だとは思いますが、一方で安定した収入口とはならないのかもしれないですね。

 


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

趣味は趣味のままでいたい



私の趣味としてマラソンがありましてもう5年以上続けています。


秋以降は各地でマラソン大会が行なわれますので、シーズンと呼べるでしょう。


中には大人気で、先着順であったり抽選であったりのマラソン大会があります。


一度も出たことのない、東京マラソンも大人気の大会です。


かつては、2ヶ月に1回くらい大会にエントリーをしていたこともありましたが、家族が出来てからは年に1、2回くらいの参加となりました。


周りに話をすると、なぜそんなしんどそうなことを趣味にしているのか分からない、という言葉をもらうことがあります。


確かにしんどいですし、負担をかけているので、多分体にもあまりよくないと思いますし、そういう言葉についてはよく分かります。




理由はある




私の場合、まずは普段健康のためにジョギングをしているのですが、それを継続するためにマラソン大会というゴールを設定していることが理由の1つです。 


健康のためにジョギングをするというだけではちょっとモチベーション維持の目的としては弱いのです。


また、今の私は、マラソン完走のタイムを気にしすぎないようにしてはいますが、少なくとも4時間以内でと目標設定して、しっかり走り切るとしておりまして、やり切るという意味でなかなか骨のある、でもやり方次第で達成できないわけではないのがマラソンなのです。


10kmやハーフならば多少飛ばしても走り切れる自信がありますが、マラソンはペース配分をしっかりして、気持ちも強く持たないと私は途中でたくさん歩いてしまいます。


乗り越えられないわけではないけど、簡単には乗り越えられないのがマラソンで、だからこそ挑戦しがいがあるといえます。




仕事とは違う




仕事も同じような姿勢で取り組めば、もうちょっと成果を挙げられるかもしれませんが、仕事は、短距離走が幾つも組み合わさった、距離は無限にある障害物競走のようなもので、また、自分の実力以外に運や周りの参加者にも左右されてしまいます。


趣味のマラソンの場合は、自分との戦いである一方、一緒に走っている人や沿道の人が応援もしてくれますが、仕事の場合は足を引っ張ってくる人もいれば、不条理な上長やさらに上の人もいますからね。


今年エントリーしたマラソン大会は11月で既に走ってしまいまして、学びや自信、反省点もいくつか得ることができました。


機会はまた来年になりますが、一方でマジになると趣味が義務みたいになってしまうかもしれませんし、健康のための普段のジョギングがトレーニングになってしまうので、それはそれであまり好ましくないんですよね。


私としては人生で長く続けられそうな趣味をようやく手に入れたので、楽しみながらやりたいです。


趣味の範囲だとお金もあまりかからないので、セミリタイア時にも続けたい趣味です。


お腹減るから、食費に影響する可能性はありますが。


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

業務指示変更に悩む




 

 

最近、プロジェクト的に色々と動いてほしいという依頼を受けまして、スパイのように関係者とやりとりしながらそのプロジェクトを進めていました。

 

当然、カバー範囲はある種特定されており、その範囲に特化して進めています。

 

で、中間報告をしようということで資料を作成しまして、プレゼンに向けての事前打ち合わせをしました。

 

説明の場では、なぜこのプロジェクトをやっているのか、目的は何なのかなどを冒頭で明らかにしないとと思い、そういう説明資料を入れてリーダーとの事前打ち合わせに臨んだわけです。




寝耳に水

 



で、そこで初めて言われたのは、実は私のプロジェクトはより大きなプロジェクトの一部分、先行スタディのようなものであって、私が説明している内容では実は目的を十分に説明できていないので、説明内容を追加して、目的を変えて欲しいというものでした。

 

プロジェクトにはオーナーがいますし、オーナーの求めに応じて目的が変わるというのも別に構いませんし、それ自体は仕方がないことだとは思いますが、私からしたら、そもそもこの分野に特化して動いてほしいという説明を受けていたわけですし、これが先行スタディであるなんて正式に伝えてもらっていません。

 

であれば、私が説明をするにあたって、受け手側が先行スタディだと考えるのは自由ですが、私からこれは先行スタディなんですという説明をするのは実はおかしいのではないか、とふと思いました。

 

厳密に言うと、目的と内容は少し乖離しています。



細かいけど大切では

 



まあ、細かいと言えば細かい話で、大勢に影響はありませんが、別にそれならそうと早く伝えておいてくれればいいのにという思いです。

 

なぜならば、もし先行スタディであることが分かっていれば、もっと内容が深められることもあったと思いますし、色々なことが絡み合っているのに、私がすべてを理解した上で今回のプレゼンをしているかのような印象を与えると、逆に変な誤解を生むかもしれないと思うからです。

 

さらに言えば、ちょっと恐れているのですが、もしもこの先行スタディを受けて、スタディ範囲を広げて欲しいという依頼がないとも限りません。

 

その場合に、色々なことが絡み合っていることから二度手間になる恐れもあります。

 

単純に複雑になりそうですし、やり取りをしなければいけない人もかなり増えそうな気がしますので、なんならその依頼は私にはしてほしくないというのが正直なところです。

 

というか、その背景にある大きなプロジェクトというのも、ややもすると自己中な意図が働いていそうで、それを推進することが正しいのかどうかは私には分からない、という感じです。

 

一応、私が進めていたカバー範囲においては、利害関係者がなるべくWin-Winになるように考えてそういう提案をしようと思っていますが、背景のプロジェクトはある特定の組織のWinの達成が発端になっているのではないかと感じます。

 

それは個別最適にはいいけれども、あまりよろしくないなと思いますし、軋轢を生むだけなのでやはり関わりたくはないですね。

 

 

 


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

早期退職で実家に戻る選択肢

 


 

 

さて、11月も終わりに近づきまして、そろそろ年末年始の予定はどうしようかなと検討するタイミングになってきました。

 

年末年始は、私の実家や妻の実家に寄って数日過ごすというのがここ最近の大きなイベントになっていまして、今年もそのように過ごすつもりです。

 

両親、義両親ともに高齢になってきていまして、また私を含めた子どもはそれぞれ別の場所に住んでいます。

 

私の両親の方が義両親よりも年を取っていまして、まだまだ健康ではあるものの、やはり老いというものを感じます。

 



実家の扱い方




まだ気が早いと言えば気が早いのですが、今後この実家がどうなっていくのだろうかということは気になります。

 

私の兄弟はあまり転勤もない職種であることもあって、既に家族を持ち、家も購入しており、兄弟の中では私のみがいまだに賃貸に住んでいるという状況です。

 

私の場合は今後も転勤の可能性がありますので、家を購入してもそこに住み続けることができるかどうかは分かりませんし、さらに言えば今の首都圏の不動産価格ではなかなか手が出せないというのも正直なところです。

 

なによりも、不動産を購入してしまえば、一気に手許現金がなくなるか、借金を抱えるかの選択肢を余儀なくされますので、それはすなわち、私が引き続き必死に働かなければならないということを意味します。

 

首都圏であれば、不動産価格が値崩れする可能性を低くしたり、あるいは場合によっては値上がりすることもあるかもしれませんが、私にそんな勘所があるわけではありませんので、その選択肢は私にとってはリスクが大きいかなと思います。

 



実家があることのありがたさ




であれば、もしも両親から実家を引き継げるのであれば、私の仕事をどうするかとか、子どもの教育をどうするか、という点をいったん置いておけば、私にとってはありがたいという話ではあります。

 

私自身は別に実家の場所が嫌いなわけではないですし、都心と呼ぶには程遠い場所ですが、田舎ではあっても車がなくても生活には困らないような環境です。

 

もちろん、娯楽はかなり少ないとは思いますし、コンビニとかも全くコンビニエントな場所にはありませんが、今ではネット環境さえあれば娯楽も何とかなりそうですし、AMAZONもすぐに来てくれそうな環境です。

 

家そのものはちょっと古いので、リフォームなどは必要になるとは思いますが、住みやすい環境ではありますし、今後もしも両親のどちらかが独り暮らしになった場合には、バリアフリー環境を整えながらリフォームを検討するというのもあり得る選択肢ではないかと思います。

 

私も出身地近くで働けるのであればありがたいという思いは今でも持っておりますが、一方で私の奥さんが同居を許してくれるかどうかというのは良く分かりませんし、なんとなく嫌がりそうな気はしますが、それもまた分からなくはないので無理強いもできません。

 

ただ、一つ思うのは、両親がそうやって帰ってもいいかなと思う実家を残してくれているということは、かなりありがたいことなんだなということです。

 

人によっては実家は嫌い、絶対に帰りたくない、という思いを持っているかもしれませんし、ご両親も賃貸住みなので、そもそも帰りようがないという人もいるでしょう。

 

だからこそ、いざセミリタイアということを考えた場合に、最低限そこに帰ればいいかなと思える場所があるということは恵まれているんだなと思うわけです。

 

全く知らない土地に行くわけではない安心感みたいなのもありますので、それもありがたいです。

 

まあ、土地勘がある分、厄介な人がいるというのも分かっているのがいまいちかもしれませんけれども。

 

私が望んでいる、家庭菜園というのはちょっとスペース的に難しいかもしれないなと思うのですが、本当にその気持ちがあるのだとすれば家庭菜園スペースを借りれるくらいの田舎ですので問題ないでしょう。

 

勤めている会社でも、今後早期退職を推奨する動きが継続するかもしれませんし、条件次第では今後応募も検討しながら、実家に帰るというのも選択肢として考えてもいいかなと思います。



にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

存在価値を求める気持ち




存在価値の話を昨日書きましたが、色々と考えているうちに、そうかそういうことかと思い至ったことがありました。

 

皆さんの会社で、周りに過去の栄光をいつも自慢している人や、飲みに言って会話をすると過去の苦労話やら、あの仕事は自分がやったんだという話をする年配の方いないでしょうか?


 


バカにしませんか?




多くの人はそれを聞いて、あまり良い気持ちはしないでしょうし、中にはまたあんな話をしていると半ば馬鹿にしている人もいるのではないでしょうか?

 

私も、そんな過去の話をする年配の人を少し馬鹿にした気持ちで話を聞いていることがありましたし、今でもその傾向はあると思います。

 

過去に一緒に苦労した仲間同士で、あの頃はどうだったこうだったという話をするのであれば良く分かるのですが、そうではない若手など、つまり自分の過去を知らない人に対して自分の過去の話をするのは傍から見ていもかっこいいものではないですよね。


 


わかるんですよ




その一方で、自分が何年も会社で仕事をしてくると、なんとなくその年配の人の気持ちが分かることもあります。

 

例えば、私のケースでは、自分が若手の頃に当時の上司と苦労して取り組んで作り上げた仕組みがある部署にありまして、当時その仕組みを作った際にもかなり成果を上げることができ、また10年以上たった今でもその仕組みは続いています。

 

もちろんその間にいろいろと改良はあったのでしょうが、始めたのは自分だという自負があるわけです。

 

そんな中で、ふとした瞬間に、誰かから、今、誰々さんが回しているあの仕組みはすごいんですよ、というような話を聞くと、いやいやちょっと待ってよ、と思ってしまいます。

 

何なら、その仕組みを回しているからその誰々さんがすごいという話にもなりますから、さらにちょっと待てよ、と思います。

 

いや、あの仕組みを作ったのは自分なんだよ、と言いたくなるのです。

 

さらに言えば、そんな仕組みを作った自分はすごいよね、と認めてほしいのだと思います。

 

そしてそんな瞬間にふと思うのです。

 

ああ、あの年配の人たちもこんな思いを持っていたのかな、と。

 

そういう年配の人とちょっと違うかもなと思うのは、私は何もないところに自分から、あの仕事は実は自分がやったんだよとは主張しないということと、そういう話を聞いたときに、いやあれは実は自分がやったんだ、と強く主張することはない、ということです。

 

ただ、主張したくなりますから、主張したいという気持ちは良く分かります。

 

そうなると、例に挙げたような年配の方も、実は自分のことを認めてほしい、自分のやってきたことを認めてほしい、という思いがあるからこそ、そういう過去の話をしてしまうのではないかと思ってしまいます。

 



過去にすがっている?




若手の人からしたら、過去の栄光にすがってかっこ悪いと思うでしょうし、それは無理もありません。

 

ただそれは必ずしも、過去はすごかったけど今はそうではないから、過去にすがっているということではなくて、過去は過去として認めてほしいという思いもあるのではないかとも思うのです。

 

私の周りでは、今現在でもすごいなという活躍をしている方でも、飲み会のたびに同じ過去の話、苦労話から自慢話まで、何度もされるという人もいます。

 

経験を積み重ねている分、じぶんが頑張ってきた証の話も積み重なっており、その分それを誰かに認めてほしいという思いも強くなるのかもしれないなと思います。

 

若いころはそもそもそんな話がないので、現在の自分がどうであるか、の方がより大切になるのではないかと思いますが、経験を積んできた分、その経験全てが大事になっている、というような感じでしょうか。

 

今まで馬鹿にしてきたことも、意外に馬鹿にできないかもしれないというか、自分もそうかもしれないという可能性にふと気づいた瞬間です。

 

 

 

 


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

ただ生きるだけは苦痛

 


昨日の話題とも関係しますが、意外と、リタイア後の人が人生に楽しさを感じていない人もいるようだ、ということを身をもって感じている中で、ふとタイトルにある言葉を目にしました。

私の場合、セミリタイアをしたいのは、今のストレスフルな仕事から解放されたいから、という理由が大きいです。

とは言え、あくまでもセミリタイアであって、完全なリタイアを望んでいるわけではありません。



なぜ完全リタイアではないか



私はやはり社会との接点は持っておきたいですし、なにか課題解決をするとか誰かのためになることをしたいですし、それは誰かに必要と思われたい、存在を認めて欲しい、という思いがあるからだと思っています。

それはもしかすると、これまでの人生において、受験や資格試験、仕事において苦労して乗り越えてきて、それが他人に評価されて、自分も嬉しくなったという経験が関係しているのかもしれません。

極端に言えば、そうやって自己肯定感を高めてきた、プライドを培ってきた、他人の目を気にしてきたということで、本当の意味で他人の評価は気にしないとはなっていないのではないかと思います。



替えの効かない人はいない



特に大きめの組織において、誰かはなくてはならない、ということは稀だということはわかっていますが、それでも自分はなくてはならない存在であって欲しいと思う気持ちはあります。

社会人を長くやっていると、そんな人は本当にいないことはよく分かりますが。

YouTubeやテレビ番組で、会社のキーパーソンが不遇な目に遭って抜けた結果、会社そのものが傾いたなんて話がありますが、よほど小さな組織であればあり得る話で、大きな組織では絶対にそんなことは起こりません。

私の同僚でも、ある支店の何割の売上を担当していると豪語していた人がいました。

それはすごいことなのですが、それは決して替えがきかないということでもないですし、そもそもその支店が全体に与える影響がいかほどかを考えると、多少何かがあっても大勢に影響なし、ということもありえます。

よくできた組織ほど、リスク分散も進んでいますから、特定の個人に依存することは少ないはずです。

ただ、なんだかんだで自分は替えが効かない人材なんだと思いたくなる、主張したくなる気持ちは分かります。

なぜなら、そうでなければ存在価値がないと思ってしまうからです。

ただ実際には、替えが効く人ばかりですし、だからと言って存在価値がないわけでもありません。

しかし、実感できる存在価値を感じられなければ、ただ生きるだけは苦痛だ、となってしまうのでしょう。

不思議な言葉かもしれませんが私は共感できました。

ストレスという苦痛に苦しめられていた際には、生きていれば儲けもの、と思うこともあったでしょうし、実際に今私はそう思っていますが。

本当に、人間というのは勝手なものです。

いや、こんなふうに思うのは私だけですかね?


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

退職とセミリタイアと日常生活




 


私の勤める会社で、何かしらの人事制度の動きがあるのではないかと推測している中、私が働いているのとは別の企業で勤務されて、定年退職をした人とお話をする機会がありました。

 

数年前にひょんなことで知り合いになりまして意気投合し、それ以来定期的にグループで飲み会をしているような仲です。


年齢層は私が若手になるくらいのグループで、社外の方とのコネクションという意味でも貴重なつながりです。

 

その方と知り合いになったのは、その方がまだ50代であった時期でしたが、その頃から、何歳になっても学びなどの自己投資をしている方だという印象を私は受けていました。

 

数年前には既にお子さんも大学を卒業されており、配偶者の方も働かれているということでしたが、無事に定年退職をした後の生活についても話を聞く機会となりました。




張り合いがないみたい

 



基本的に、暇なようです。

 

趣味は色々と持たれているようで、それを楽しむということはできているようなのですが、基本的に暇であるということで、会社員の頃に比べて生活に張り合いがなかなかないということをおっしゃっていました。

 

会社員として長年勤めあげられて、特に疑問に思うこともなく毎日のように会社に行き、時には土日も接待などに繰り出し、なんだかんだでやることがあった日々から、いきなり時間はあるけれども、やらなくてはならないことはない生活に変わったことで、逆に何をしようかが分からなくなり、結果として暇になったと思われているようでした。


この数年は大きな仕事は任されることなく、忙しくはない会社員生活にはなれていたと思っていたのが、さらにやることが少なくなった感じとのことです。

 

とはいえ、今からまたどこかの会社で働き始めるというわけにもなかなかいかないよな、という感じらしい一方で、急に自分が社会から必要とされなくなったような印象を受ける、とおっしゃっていました。

 



他人からの承認欲求は大切




究極的に言えば、社会から本当に必要とされている人なんて本当の一握りで、ほとんどの人は大きな意味での社会からは必要とはされていないはずだと思います。

 

もちろん、人類の種の存続のためには、どんな人であれ必要な存在ではあるのですが、もしも神の視点から個体の入れ替えが可能であったとした場合に、必要とされる人なんてのはほとんどいないでしょう。

 

ただし、もちろんもう少し小さな意味での社会、例えば家族、というような点からいえば、ほとんどの人が必要とされているのだと思いますが、それでも会社員で頑張ってきた人にとっては、会社の中で認められる、という経験を長年してきたがために、会社を離れてしまうと急に誰からも必要とされていない、認められていないというように感じてしまうというのはあるのかもしれません。


中には、そういう境地を脱している方もいるでしょうが、私は、誰かに必要とされていれば、うれしいですし、それが日々のモチベーションになるのはよくわかります。




セミリタイアでも同じ経験?




これはたまたま定年退職をした人の話から伺った話ではありますが、セミリタイアをした後にも似たように感じることはあるのかもしれません。

 

セミリタイアの場合はまだ緩く働くことは前提ですので、そういう意味ではいきなりさみしい思いをすることはないのだろうとは思いますが、会社員として働いてきた人がセミリタイアをした場合でも、もっと頑張りたい、周りに貢献しなければという思いが働いて、セミリタイアをしたのに頑張って働いてしまう、ということが起こりえるのではないか、もっと言えば、私がセミリタイアをした後にそう感じる可能性が高いのではないか、と思ってしまいました。

 

まあ、生きることに張り合いが出るのはいいことだと思うのですが、もしそういう思考回路になってしまうのであれば、それってセミリタイアする意味があるのかな、とも思います。

 

不必要なストレスから逃れることでセミリタイアをしたいと思っているのに、張り合いがないとそれがストレスになることもあるのだろうか、果たしてどちらのストレスがより健全なのだろうか、考えてしまいました。

 

 

 

 

 


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

高年齢層の婚活


婚活と言えば30代や40代の専売特許と思いきや、60代などの高年齢層の人向けの婚活もまた需要があるようです。

1人では寂しい、孤独死したくない、普段の趣味を一緒に楽しめる相手が欲しい、理由はそれぞれみたいですが、根本的には人の温もりが欲しい人が多いということでしょう。

全員が全員ではないかもしれませんが、やはりずっと1人だと寂しい気持ちにもなるのではないでしょうか。



気楽と孤独



もちろん、1人だと気楽というのはあるでしょうが、それも複数人でいる煩わしさがあってこそ、魅力を感じることなのではないかと思います。

私も1人旅とか好きでよくしていましたが、食事する際には1人だと食べられる量も限られているので、現地やホテルで誰かと仲良くなって一緒に食べにいくとかしていましたし、誰かといるとやれることが増えることもあります。

また、若い頃に結婚を見据えるとなると、若さや年収なども大切な判断指標になりますが、高年齢層になるとそれらの判断指標の重要性は低くなって、気が合うかどうかなどのソフト面がより重要度が高くなるような気がします。

出産を気にする必要もなければ、多少の姉さん女房であることもあまり気にならなくなることも増えるのではないでしょうか。

そういう意味で、需要そのものは確かにあるのでしょうし、年齢を重ねれば、性格が丸くなったり、経験が豊富になって色々と受け入れられるようになったりと、より良い人間関係を構築できる素地ができるようになる人が多くなると思いますから、高年齢層の婚活は成功しやすいのかなと思います。

自分が上手くやっていける人とそうでない人もわかってくるでしょうし、外見だけではどうにもならないことも増えてくるでしょう。

熟年離婚なんて言葉もありますが、その反対もまたあって然るべきなのでしょう。



セミリタイアにも関わる



セミリタイアやFIREがブームになった際には、人間関係の断捨離や独身生活の謳歌なども同時に言われました。

それ自体が悪いことでもないと思いますが、その一方で完全に孤立して生きていける人は一握りの選ばれし人なのかもしれません。

今の若い世代の中には、結婚や家族を持つことそのものが負担だと考える人も増えているというニュースを聞くこともありますが、果たして同じ考えを10年、20年と持ち続けられるのかどうかは誰にもわかりません。

また、孤独で寂しい思いをしているよりかは、誰かといい関係を気づいて幸せでいる方が、日々楽しいだけではなく、仕事や私生活そのものへの幸福度が高まるのではないかと思います。

例え、今の家族関係に不満を抱いている人でも、完全に孤立したいとまでは思っていないのではないかと思います。

高年齢層になって正式な婚姻関係になるのがいいのか、緩やかな恋人関係のままがいいのかはわかりませんが、こういうニュースを見聞きすると、人間は社会的な生物だなと実感します。


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

勤務会社にも人員削減の動きが?


 

人事部が色々な支店を行脚して、これからの人事制度についての説明を行なう計画のようです。

 

これまであまりそういうことはなかったのではないかと記憶しておりますので、何かしら会社として大きな人事制度の変更を考えているのかなという気がします。

 

これまでも、早期退職制度の活用を勧めたり、社外への転身を勧めたりということは会社もしてきておりますので、対象となる人に対しての説明会などはもちろん行なってきていると思うのですが、今回の説明会については全社員が対象になっているということですので、全社員に関わる何かなのでしょう。

 

まあなんとなくですが、おおよその内容は想像できています。




人員削減に向けた動き

 



基本的には、会社としては余剰人員を減らしたいということだと思いますし、特に年齢層が高めの世代の余剰人員を減らしたいということで、そのためにいろいろなサポート制度も用意します、当然に人事制度もこう変更します、ということが基本にあるのだろうと思います。

 

その上で、全社員が対象となっていることを鑑みるに、若手にも何か影響を与える人事制度の変更があるのではないかと思います。

 

若手の積極登用を進めますという話なのか、あるいは今は影響を受けなかったとしても、その若手が年齢層が高めになった際にはこういう人事制度が待っていますという話の説明でしょうか。

 

さすがに若手も人員削減の対象にしますということはないとは思いますが、組織の縮小というのはあり得るでしょうし、あるいは能力給の様相を強めるとか、早いうちからキャリアについて考えさせるとか、なにかしらあるのでしょう。

 

こういう説明会をすると、社内の対象となる人たちからは不安の声などもでるでしょうし、社内が不安定になることもあるかもしれませんが、こういう案件は人事部がどうこうではなくて基本的に会社のトップ層が推進していることでしょうから、多少のことがあっても動きとしては止まらないでしょうね。

 

まあ、当然なにかしらの飴も用意はされているとは思いますが、会社としてはその飴を与えてでも会社として利益を得たいことのためにいろいろと進めているのですから、一見すると確かに飴のように見えるが、実際のところは飴ではないのでしょうし。

 

まあ、恐らくは、さらなる社外転身を推し進めようということではないかと思います。




いきなり感はあるが

 



そもそもが多くの日本企業は、終身雇用を前提として人を働かせてきたわけですから、その前提であればキャリア形成とはいってもただの社内でのキャリアにすぎず、社外で活躍することを前提としたキャリア形成ではありません。

 

最近入社をする特に若手の人の間では、初めから社外を含めたキャリア形成を考えているという話も聞きますが、そもそもその前提で働いてきてはいない人たちの態度を変えて、社内とどまらずに社外にも目を向けて、というようなことを意識づけしなければならないのですから、それを思うと大変な作業ですね。

 

社外に出て本当に通用するかどうかも分からないですし、通用しないから戻りたいということも許されないでしょうし、心理的負担も大きいと思います。

 

その心の準備のために、早め早めで会社は動こうとしているのかな、なんて思いますね。


今の若手が中堅になる頃には、考えとして浸透しているような、中長期の計画である気がします。

 

 


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ

とある退職勧告のあり方




 

 

 

日本企業では比較的雇用は守られていて、欧米企業ではその反対で簡単に首を切られるということが一般的な日本人の認識だと思います。

 

私が知る限りでも、確かにその傾向はあると思いますし、恐らく欧米企業で働いている人も欧米企業の特徴についてはある程度理解をしているでしょう。

 

ただし、たとえ理解をしていても、いざ自分が首を切られるとなると心穏やかではないというのも当然なのだと思います。




首の切り方

 



また、確かにパフォーマンスが低いと判断されて首を切られる人はいるのですが、その首の切り方もストレートにあなたのパフォーマンスは低いのでいりません、というものだけではなく、あなたがこれまでやっていた仕事はなくなりました、というやや間接的な、あなたを必要としていませんという通告もあります。

 

そもそも仕事がなくなるわけですから、それをやっているあなたは必要ではないですよね、ということですね。

 

また、その仕事がなくなる対象は個人であることもあれば組織であることもありますが、たとえ組織が対象となった場合でも、本当に優秀だと思われていて必要とされる人には別のポジションでのオファーがあるというのが普通なようです。

 

逆に言えば、ただあなたのポジションはなくなりました、と言われる人は本当に必要とされていないということで、残酷と言えば残酷です。

 

ただしですが、そんな残酷な宣告であっても、それに至った経緯についてはある種の言い訳が展開されます。




嫌われたくないのは万国共通

 



つまり、この組織や仕事は無駄だと判断したのでなくします、というのがシンプルな本音であると思うのですが、当然にそういう言い方はされません。

 

これまでいかにその組織や仕事が会社に貢献をしてきたか、いかに優秀な人が働いているのか、ということを枕詞として伝えたうえで、ただしよりよい組織運営を目指して、より高い成果を出していくためには、その組織や仕事をなくした方がいいのではないかと思っている、ということが伝えられるわけです。

 

こういう論法というのは日本企業が使っているのも聞きますので、ある種世界共通なのかもしれませんね。

 

身近なところで言えば、恋愛感情の告白の断り文句、就職活動のお祈りメール、などなど、相手のことは素晴らしいと思っているのだけど、残念ながら今回はご期待に沿えませんなんてことが伝えられるのと似ているなと思います。

 

恋愛感情の告白の断り文句の場合は、あれ、今はフラれたけれどもまだ自分にチャンスはあるのかな、なんて勘違いしてしまう人もいるのではないかと思いますし、それが時にはよくない方向に事を動かしてしまうこともあるのだと思いますが、この雇用に関する断り文句の場合は、額面通り受け取る人はいないのではないでしょうか。

 

ただストレートにそう言われていないだけで、シンプルに必要とされていない、というように皆が受け取るのではないかということです。

 

しかし、答える側は悪者にはなりたくないですし、決してそうは答えてくれません。

 

なぜこの組織や仕事はなくなるのか理由を教えてください、と尋ねても、本音の答えは返ってきませんので、ある種質問すること自体があまり意味のないことなのかもしれません。

 

私も仕事をしていて、今自分がやっている仕事は本当にいるのかな、と率直に思うこともありますので、これが欧米企業ならスパッときられてしまっているかもしれません。

 

実際、日本人は雇用が守られているからいいよね、という類のことを海外籍の人に言われたこともあります。

 

若かった私は、その分、給料は抑えられているぞ、と心の中で思いながら聞いておりました。

 

日本企業では、ある組織では必要とされなくなった人も、異動という形で他に活躍できる可能性の場を与えてくれる場合もありますので、そういう意味では大変幸せなのかもしれませんね。

 

自分がやってみたいと思わなかったことでも、意外とやってみると得意であることに気付いたり、才能に気付いたり、活躍出来たり、そんな可能性が決して0ではありませんし、その異動の経験そのものが将来の役に立つなんてこともありますから。


そう考えると、ヒトを活かすという意味では、日本企業もいいとこありますよね。


 


にほんブログ村 サラリーマン日記ブログへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ