根拠と事実確認




「それってあなたの感想ですよね」の話題に関して、ちょうどタイムリーな話題かもしれません。


仕事をしていても、いろいろと言ってくる人がいますが、中には、「それってあなたの感想ですよね」に近いことを言ってくる人がいます。


もちろん、まともな人なら、これは私見に過ぎないけれど自分はこう感じるが、それについてどう思うかを尋ねてきますが、一番厄介なのは、「あなたたちは知らないかもしれませんが、こうなんですよ」と主張する人で、その「こう」の部分に具体例や事実があればいいのですが、ないまま、自分の印象を世間一般の常識として主張してくる人です。


当然、その主張の正誤を自分の知識で判断できない人、特に上層部の人は、事実なのかどうかを分かりませんので、それは本当かどうかを他の人に尋ねて確認したくなります。


で、その正誤についてなにか知っているかどうか、問い合わせが来ることがあります。


もちろん、自分が知っている範囲でどうかというのは答えますが、私は必ず、その主張をしている人の根拠を確認してほしいということも伝えるようにしています。




他人を動かす




もしもその根拠が明らかにあるのであれば、そういう事例があるのかどうかを確認することができますし、場合によっては私が知らないだけで、事実であるということがあり得ます。


もちろん、根拠がなければ間違っているというわけでもありません。


しかしながら、断定して言い切るのであれば、根拠がいると思いますし、少なくともその人の主張によって、確認に追われる人がいるわけです。


であれば、根拠を示してくれた方が、確認する側としては、ポイントが絞りやすくもなるわけです。


根拠もない、ただの印象なのに周りを振り回すのはいいことではありません。




根拠はないが事実であることも




一方で難しいのは、すぐ手に入る事実や根拠のみが、本当の事実とは限らないということです。


知らないけれど事実ということは山ほどあります。


調べてみたら実は、ということもありますので、印象が必ずしも悪いかどうかの判断も難しいです。


トロイやミケーネは確かに存在したことを証明したシュリーマンは、誰しもが作り話だと思っていることは真実であるという、個人の印象で突き進んだ結果、事実にたどり着いたのです。


そんな可能性はありますので、個人の印象で他人を動かすことが必ずしもダメだとも言い切れないとも思います。


ただしその場合でも、それらしい証拠や事例のようなものを提示する必要はあるのではないかと思いますし、それがなければ本当に個人の思い込みでしかなくなる気がします。


自分で証明するのであれば思い込みでもいいのですが、他人を動かすのであれば、なにか事例を提示して欲しいなと思います。




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マウントを取れば勝ちなのか?



最近、子どもの間で、周りの大人や友人に対して「それってあなたの感想ですよね」とか「はい論破」というセリフを言うことが流行っているというニュースを読みました。

それを言われた大人は唖然としてしまう、ということのようです。 



あの人の影響か



テレビ番組やネットで活躍しているとある人のセリフをまねたものであるのでしょうが、その人は子どもの中でも人気があるみたいなので、影響力はあるのでしょう。

まあ、大人が子どもに対して叱ったりなにかを言ったりすることの全てに筋が通っているとは思いませんし、傍から聞いていると、今のは子どもが言っていることの方が正しいと感じるなあ、なんてこともありますが、結局は大人の方が力で押し切っているというような場面にも出くわしますので、議論をするという点においては「それってあなたの感想ですよね」というニュアンスのことを言うのは決して間違いではないかもしれません。



大切なこと



要するに、主張が正しい根拠を出せ、というのは決して悪いことではないと思います。

相手よりも自分の方が正しいんだぞ、ということを主張するのも決してそれ自体が悪いことではありません。 

その一方で、「それってあなたの感想ですよね」とか「はい論破」と言ってしまうことのデメリットを分からないまま使っている子どもは多いと思いますので、そのことについては大人は教えてあげないといけないのではないでしょうか。

つまりは、同じ内容を主張しているようでも言い方によって相手の受け止めが全然違うということであったり、実社会において勝ち負けを明確にする必要は必ずしも良いことではない、しない方がいい場合もある、ということです。 

そしてそれは、周りに与える自身の印象にも影響を与えますし、それも悪い方の影響を与える可能性がありますので、メリットが少ない場合もあるということです。



負けるが勝ち?



これはまさに私の感想ですが、名を捨てて実を取る、方が実は社会的にはうまく生きていく方策なのではないか、相手を立てながら自分の主張を通すのが一番美しいのではないか、と思っています。 



本質論



また、大人が唖然としてしまう理由の一つに、確かに主張が根拠に基づかない、ただの大人の感想にすぎない場合もあると思います。

相手が子どもだからと言って、適当に言いくるめようとしてしまうのは良くなくて、きちんとなぜその主張をしているのかを説明してあげるということが大切なのでしょう。

その上で、その子どものためを思って主張をしているのであれば、その説明をしてあげればいいのではないかと思います。

子どものためを思ってする主張は、それこそただの感想でしかないかもしれませんが、相手のために主張しているという根拠はちゃんとあります。


子どもらしさ


とはいうものの、社会性が未発達な子どもというのは本来、生意気に感じるものなのだろうと思います。

それが生意気なのか、正直なのかは議論の余地はあるでしょうが。 

「何年何月何時何分何秒、地球が何回周った時に言ったんですか」、という言い回しは誰しも子どもの頃に1回くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。

その質問に正確に答えられる人はいませんので、ある種、相手を論破できる質問なのだと思いますが、それを大人になってから言わないのは、その主張が如何に意味がないか、そんな質問をすることで自分への印象が如何に悪くなるか、ということを大人はなんとなく理解しているからです。

ですので、言い回しは時代と共に変わるのかもしれませんが、子どもというのは本来、そういう大人が唖然とするようなことを平気で言うものだというのもまた真実なのかもしれません。

社会性を身に着けていくにつれて、そういう言い回しをすることも減っていく、ということもまたあるのではないかと期待しています。


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国の代表?


ラグビーワールドカップが開催されています。

さすがに前回日本が開催国であった際よりかは盛り上がりには欠けるかもしれませんが、はたして今回は日本代表チームがどこまで戦えるのかに注目して、朝早くからでもテレビで試合観戦をしている方もいるのではないでしょうか。

さて、例えばサッカーのワールドカップでは代表チームとして戦うためにはその国の国籍を持っている必要がありますが、ラグビーにおいてはより緩やかな規制になっており、国籍そのものは問われません。

ですので今回のラグビー日本代表にも多国籍の選手が所属しています。



傭兵部隊?



であるが故に、日本人の中でもかつてほぼ日本人のチームで戦っていたころの方が日本代表という気がするという方もいますし、海外の方から見て日本代表は傭兵部隊だ、というような評価の声を聴くこともあります。

まあ、私も、サッカーにおける中東の国が、南米国籍の人を帰化させて代表チームで戦っているのを見ると、国籍変更済であるのに、なんだかおもしろくない気持ちになってしまうというのは正直なところです。

本来、ルールにのっとってやっていることですから何も問題ないはずなのですが、気持ちの問題なのでしょうか。

しかしそんなラグビー代表でも、注意深く見ると、他の国にも多国籍の選手が所属しています。

もともと移民国家であったり、多民族国家であるくにもあったりするが故に、外見からぱっとは分かりませんが、確実に所属しています。

日本代表チームの場合は、アジア人の見た目の人間の中に、そうではない人が入るのでより目立ちやすいというのもあると思います。



私はポジティブ



さてそんなこんなではありますが、私がどうかというと、ラグビー日本代表に関しては、日本国旗を胸に日本代表として戦う人は国籍に関係なく日本代表として応援してあげたいと思います。

前述した、サッカーに関して中東の国がやっていることにはあまりいい印象を抱かないにも関わらずです。 

他人に厳しく、自分に甘くなのでしょうか。

多分そうでしょう。

自分が応援するチームとは違うチームが強くなるのは嫌だということなのでしょう。

その上で、純血主義でなくても構わない、日本という国のために頑張ってくれるのであればその人は応援してあげようという感じなのでしょう。

まあそもそも、国籍というのは確かに大きな違いとしてはありますが、移民国家なのか、そうではない国家なのかでそもそもの根幹が変わってくるでしょうし、国籍を一つの基準として何かしらの判断をするというのも当然理解ができることではありますが、国籍が違えば自分とは違うベツモノであるという考え方は過度なナショナリズムのような気がするというのも正直なところです。

国籍は違えど、国のために実際に戦っている人と、ただ国籍を持っている人で、どちらがどうか、ということも難しいですね。


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移住支援とセミリタイア




温泉で有名な別府市が、公共交通事業の運転手不足の解消を図るために、就職氷河期世代で、大分圏外に在住する人が別府市に移り住んで公共交通事業の運転手として就職した場合に支援金を出すという応募をしたところ、思うように人が集まっていないというニュースを読みました。
 
移住元の条件もありまして、特に東京圏については詳細に条件付けをされており、まあなにかそのあたりの裏もあるのだろうなとは思いますが、理由は私には分かりませんが、要は東京圏であっても田舎エリアからは移り住んでこないでねという理解をしました。
 
子どもがいると支援金にも加算があるようなのですが、基本的には1世帯につき、最大100万円で、単身世帯の場合は最大60万円ということのようです。
 
応募自体はあるようなのですが、氷河期世代よりも高齢の方が応募してきているような現実があるようです。
 
私は別府市には訪れたことがありませんが、温泉で有名であるということは知っていますし、となると観光客も多く訪れるのでしょうから、公共交通事業というのは一層大切なインフラになるのだと思います。
 
移動に不便な場所には観光客はなかなか集まりませんから。
 
合わせて、就職氷河期世代を対象としているということは、ややそこから人口増につながるといいなという思いがあるのも透けて見えます。
 
実際に、この話に限らず、別府市自体が普段から移住者支援を行なっているようでして、住環境や就業環境の斡旋サポートも行なっているようです。


うまくいくのかな?



 
普段の移住者支援がどれほどの効果を上げているのかははっきりとはわかりませんが、仮にそれがいい効果を上げていたとしたら、それでも公共交通事業に就業する人が少ないということになりますし、そもそもいい効果を上げていないのだとしたら、そこから課題があるということでしょう。
 
だとすれば、どういう課題があるのかは分かりませんが、それが数百万円の支援金で解決できるのかどうかと言われれば、そうは思えない気がするというのが正直なところです。
 
私みたいに、セミリタイアしたいな、もう少しゆっくりと働きたいな、地方に行きたいな、と考えている人というのは、基本的に今よりも楽がしたい、という思いがあると思います。
 
働き方を変えた結果として、楽ではなくなるのであればそれはもう意味がないことなのです。
 
例えば、別府市で公共交通事業に携わったとしたら、いったいどれくらいの勤務時間でどれくらいが稼げるのか。
 
恐らくですが、人材を募集するくらいなのですから、そんなに稼げる仕事ではないのでしょうし、そもそも人様の命を預かる仕事ですから、楽な仕事ではありません。
 
であれば、この支給金の額そのものが実はあまり魅力がないというか、下手したら引っ越し関連の諸費用で結構な額を消費してしまう可能性もある金額に思えてきます。
 
別府市への移住者そのものが増えていないのだとしたら、何か課題があるとは思いますが、そもそもなぜ人口が減っているのか、という話でもあります。
 
私のふるさとも人口減が起きておりますが、一つはまず働き口の話があって、若い世代にとっては魅力的ではないのだろうと思います。
 
こじんまりと落ち着いていていいのですけれども、娯楽も少ないというのもあるかもしれません。
 
子どもが減っている中で学習塾なんかは結構あるので、そういう需要は減ったとはいえ、根強くあるのかなという気はしますが。

 

お金って大事だけど、、




お金で人を釣るというのは印象は良くないのかもしれませんし、当然財源に限りはあるのでしょうが、それでももう少し支援金額を増やさないと、なかなか移住者獲得にはつながらないような気もしますね。
 
でもそうすると、市民の貴重な税金をなぜよそ者に使うんだ、という声が出てくるというのも容易に想像できますけれども。

そうなると、移住者は増えないのではと思いますが、まあ市民の方が皆、増えて欲しいと思っているわけでもないでしょうからね。


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仕事でこうもりになれるか

 


 

仕事柄、誰かと誰か、どこかの部署とどこかの部署の間に挟まれることが多いのですが、そうなることでストレスも多くなってしまいがちです。

そりゃ、利害関係が一致しない関係者の間を取り持たなければならないというのは普通に考えて大変です。 

どちらかが明らかに間違っているというのであれば、その点を指摘すれば、一応正しいと思われる選択肢の判断はしやすいですが、往々にして、どちらにも一定程度の正しい点があると思います。

私の場合は、その上で、互いの論点がどうなっていて、何を獲得しようとしていて、さらにどういう解決方法があるのか、というのを探ったうえで判断をしようとする傾向があります。



批判されることも



これは、人に言わせれば論理的な思考であり、また不確実な場面での意思決定力がない、というようになるようで、特に後者の場合は、自分の意思をもって判断をする経験をしてほしいというアドバイスをもらうこともあります。

そのアドバイスは確かにその通りで、所与の条件から、最適解を探そうとするアプローチは、お互いの顔を立てて波風を立てないようにするバランス重視の意思決定につながることはあるだろうなと思います。

その一方で、とは言われてもねえ、と思うのは、自分がどうしたいという強い意思がないということで、自分が悪者になる覚悟もないですし、何より権力もないという点です 

本来、その強い意思を持っている人たちの間で議論をして、あーだこーだやりながら解決策を模索してくれればいいと思いますし、その上でどちらかが悪者になってしまうこともあるでしょう。 

それでも自分の意思を元にそうなってしまうことにはある程度あきらめもつくと思います。

で、私にその強い意思とやらがなく、そもそも悪者にはできればなりたくないのが前提にあって、その上で間に挟まれる以上はどちらかか、あるいはどちらからも悪者にされる可能性があるわけです。



みんな、悪者にはなりたくない



やりあっている人や部署同士も、自分たちが悪者にはなりたくないから、間に入ってなんとかしてくれ、と言ってきているわけだろうと思います。

直接やりとりしてくれたら私が間に入る必要はないわけですから。

やり取りを色々とした結果として、私が悪者になるのは仕方がないですし、それで前向きに事が進むのであればそれでいいと思っていますが、それでもせめて納得した上で悪者になりたいと思うわけです。

だからこそ、あなたはこう言いますが、相手の立場に立ったらこう思っても不思議ではないですが、その点についてどうやったら説明できますか?というアプローチで、バランスを取ろうとするというのは傾向としてあると思います。

それつまり、どちらかが肩を持ってほしいと思っていた場合に、そうなっていないということですので、それについていい思いをされないというのは自然でしょう。 

お前はどちらの味方なんだと言われることもありますが、自分に強い意思がない場合には、別にどちらの味方でもないですし、あくまでもなるべく中立の立場でいたいなと思っているのが正直なところです。 

最終的な形としてどちらかに肩入れしていることはあると思いますけれども。 



一つの提案



そんな私に、別のアドバイスをしてくれる人もいます。 

こうもりになれと。

つまりはどちらにもいい顔をしておけ、ということで、そうしないと間に挟まれて潰れるだけだから、ということでした。

それはそれで一つの対応方法だと思いますし、そこから学べることも色々とあると思うのですが、一方で私は味方だと思われて、では相手方にうまいこと伝えておいてね、と言われるのはそれはそれで厄介だよなあと思いますので、こうもりにもなりたくないよな、とは思います。

うまくこうもりとして振る舞うには、もう一段、レベルアップした交渉術みたいなのを会得しないといけないのかもしれません。 

物語の中のこうもりは、最終的に仲間外れにされましたからね。


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親ガチャとセミリタイア



親ガチャという言葉が最近ありますが、それを自分自身が親になった際に子ども目線で親ガチャ失敗になるから、という理由で子どもを持たない選択をする人がいるようです。 

まあ、子どもを持つ持たないというのは、親ガチャ云々に関係なく、選択肢の一つとして尊重されるべきものであるでしょうし、例えば自分があまりにも貧困なために子どもを持つ余裕がないといった場合に、子どもがかわいそうだからと子どもを持たない選択をするということ自体も別に責められるものではありません。

自分が虐待されて育ったから、自分も子どもにそうしてしまうのではないかという不安や、自分自身が親になる自信がない不安、といったものも背景にあるようです。



私の場合



私の場合も、自分の子どもにはきちんと教育を受ける機会を与えたり、食べ物に困っておなかをすかせるような経験を避けたりするために、最低限の経済的な余裕は持ちたいと思いますし、子どもが望むのであれば色々なことを経験させてあげたいと思いますので、貯金をしたり資産形成をしたりしています。 

セミリタイアをしたいという思いはあるものの、だからと言って子どもにはお金をかけない、という選択肢はありません。

それこそ、資産形成しないと、子どもに親ガチャ外れたと言われるかもしれません。

しかしながら、虐待とまではいかなくても、力の強い大人という立場を使って、子どもの思いに反してこちらの思いを押し付けるということはしてしまいます。 

公園でまだ遊びたい子どもを家に連れて帰るとか、電車に乗りたい子どもを乗らせないとか、そういうのはありますし、買ってほしいとねだるおもちゃを買わないなんてこともたくさんあります。



親になる準備ってなんだ?



親になる準備ができていると自分で思ったから子どもを持ったということもありませんし、その準備ができたから親になった人なんていないのではないかとすら思います。

要するに、もちろん選択肢として子どもを持たないというのもかまいませんけれども、あまり考えすぎるのもよくないよということです。

小学校や中学校に入学するのであれば、自分の意思とはほぼ関係なく、ある年齢になれば入学しましょうというルールが日本にはあります。

いや、自分はまだ中学校に入学する準備はできていない、と思ったとしても、そんなのは関係ないとばかりに入学させられ、そしてなんだかんだで楽しい中学生活を送れることだってあるわけです。

また、当然に社会が変わればそのルールが変わることだってあるわけで、同じような年齢で、弟や妹のために働いて日銭を稼いでいる人だっているわけです。

それもまた人生、と受け入れようと言いたいわけではありませんし、学校に入学するのと子どもを持つのでは責任は大きく変わるというのも間違いありませんので、単純な比較はできません。



子供が欲しいか、欲しくないか



であったとしても、子どもを持ちたいか、持ちたくないかという点で意思決定をまずしてみよう、と考えることもあってはいいのではないか、と思います。

自分が親になると子どもは親ガチャに外れてしまうと考える人は恐らく、真面目であったり、人のことを考えられたりする人なのではないでしょうか。

もちろんだからと言って、自分が理想とする親になれるかどうかは分かりませんが、自分が理想とする親だけが良い親である、とも限りませんし、私はそのように悩み考えられる人は良い親になるように努力をするのではないかと思います。

完ぺきな人間なんていませんから、そりゃ子育てをしていて自己嫌悪をしてしまうこともあるでしょうが、だからと言って悪い親であるとは限りませんし、むしろ良い親になれる素質があるのではないかとすら思います。

子どものことを考えない人であれば、自己嫌悪をすることすらないと思います。

子どもを持ちたいけれども、こうこうこういう理由で難しい、というのはもちろんあるでしょうし、結果として子どもを持たないという選択肢も当然に尊重されるべきですが、でもその理由を満たしている人はどれくらいいるのとか、満たしてはいないけれども良い親であると言える人はどれくらいいるの、というのを考えてみてもいいのではないでしょうか。

価値観の話になってしまうと、人がどうこうという話ではないのかもしれませんけれども、子どもは欲しいのに親ガチャの視点であきらめざるを得ない、というのはすこしさみしい話だなと思います。


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スポーツと感情


 


 

阪神タイガースがセリーグ優勝を果たしました。

おめでとうございます。 

阪神と言えば、熱狂的なファンで知られています。



感情の暴走



中には、モノをグラウンドに投げ込んで試合を中断させるファンもいるようでして、それはマナーとしては確かに良くないと思いますが、その一方で、そういうファンがいてもいいじゃないかとは個人的に思います。

テニスやゴルフなどの紳士淑女のスポーツでは、時に沈黙が正しい観戦マナーになっておりますが、そうではないスポーツもたくさんあります。 

観客はそのスポーツを見て声を出して、体を動かして、それが楽しみであったり、ストレス解消の手段であったりする場合もありますから、たまには暴走する人がいてもまあある程度の常識の範囲内では仕方がないかなと思います。

暴走することがそもそも常識の範囲外であるという意見があることは承知の上ですが。



道頓堀の喧騒



阪神が優勝すると、大阪ミナミにある道頓堀川に飛び込む人がでるというのがこれまでの例で、今年は大勢の警官が出てきて封鎖しているようです。 

その一方で大勢の野次馬は集まっているというニュースは流れます。

で、はっきり言って、この野次馬というのは阪神ファンではないのではないかと個人的に感じます。

野次馬なのでそれはそうなのかもしれませんが。

イメージとしては、優勝を喜ぶ阪神ファンが集まってきて、喜びを共感しあうはずなのではないかと思いますが、そうではなくて、SNSYouTubeにアップロードしたい、阪神ファンではない人が多く集まってきていて、彼らは阪神の優勝を喜ぶわけでもなく、ただそこに集まってカメラを構えているだけなのではないかということです。

そうなると何が起きるのかというと、非常に冷めた空気が流れるのではないかと思うのです。

道頓堀に飛び込んでしまうのは一種のトランス状態に陥った、群集心理のようなものではないかと私は思います。

そしてなぜそのような状態になるかというと、それはそこに集まっている人がその場の空気に共感することができるからです。

楽しい、うれしい、そういうポジティブな感情がうねりになるという言い方もできるでしょうか。



熱狂しにくいのか



ですから、そういう感情もない集団が多くいるだけで、そういううねりは生まれにくくなりますし、野次馬は誰か飛び込めと煽ることはあっても、自分は絶対に飛び込まないぞという思いでいると思いますし、何より飛び込む理由が何もないわけです。

道頓堀川に飛び込むことがいいことだとは全く思いませんが、すごく冷めた、つまらない環境を生み出してしまっているよなと少し残念には思います。

それが川に飛び込むことでは確かにないのかもしれませんが、感情が爆発する瞬間はあってもよいと思いますし、その場を野次馬が奪ってしまっているというか、それが非常に残念だなと思います。

違う形で爆発させろと言われれば、まあその通りですねとしか言えませんけれども。


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仕事から見える性格

 


最近関わっているプロジェクトで、そもそも現状がどうなっているのかよく分からないからまずはそこから明らかにしていくという作業をやりました。

何か国かの人と会議を持って、ヒアリングをしながら現状をまとめていったのですが、そうしていくと意外と各チームが意図せずして利害関係を持っているというようなことも分かりました。



理想と現実



というか理想論を言えば、現状が分かっていないことで普段の業務に支障が出る部署がありますし、その部署はそのことを分かっているはずですので、その部署がもっと前からやっておくべきことなのですが、色々な前提条件がある中で、その部署も含めて、誰も明らかにしてこなかったという状況です。 

とは言う一方で、その部署にとっては支障は出たとしても致命的ではなく、つぎはぎで何とか対応できる可能性もあるというのと、いわゆる定量的な尺度や評価項目という意味では、その部署には影響を与えない課題でもありますので、強いモチベーションにはつながらないというのも確かなのだろうと感じました。 

自分たちの事だけを考えるのであれば、ある種、ほったらかしにしておいても短期的には都度都度の対応でなんとかできそうな課題でもあったということでしょうか。 

じわじわ首が締まる課題ではありますが、緊急性という意味では課題でもないとすら言えるのかもしれません。 



メリットはないがやりがいはある



まあ、私自身も別に状況を明らかにして対応策を実行したとしても、直接に私にメリットがある話でもなく、誰かに高く評価されるような話でもないのだろうと思いますが、実務レベルで関わっている人たちにとっては、少しでもやりやすい環境整備につながるかもしれないという意味で、助けにはなるのかなと思いながら進めています。 

こういう、もしかしたら誰かのためになるかもしれない業務というのは個人的にやりがいを感じます。 

その一方で、単純に売上がどうだとか、コストがどうだ、利益がどうだとかいう話は、あまり興味がわきません。

ビジネス的には後者の話の方が大切ですし、その視点がないとダメなのですが、長い会社員人生においても、それらをどうこうすることは私のやりがいにはなってきません。 

まあ、一番美しいのは、困っている誰かを助けることで、なんと定量的なビジネス指標の改善にもつながっていく、ということなのでしょうけれども、そういう話ばかりでもありません。 

むしろ、売上のため、利益のためにいろいろとやった結果、短期的には効果があっても、長い目で見れば事業、製品やサービスを殺していたという事例も見てきましたので、私自身が眉唾ものになっているということもあるのかもしれません。 

結果として定量面で効果が出るのは良いことなのは疑う余地はありませんが、ある種ちょっと冷めている面が私自身にあるのだろうなと思います。 

ふとした瞬間に自分の傾向や好みが分かるのはおもしろいですね。


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不祥事と説明責任




とあるアイドル事務所を発端とする問題がかなりの話題になっております。

その事務所所属のタレントのCM起用を見送る企業も出てくるなどしているみたいですが、その対応には賛否の声もあるようです。

まあ、そのタレント自身に全く責任がなかったとしても、事務所がお金をもらう形になるわけですから、もしもその事務所に問題があるのだとしたらタレント起用そのものを見送るという判断もまたあり得ると思います。

企業側にしてみたら、自社の製品やサービスのイメージアップのためにタレントを起用しているのに、それがイメージダウンにつながるなんてことは避けたいでしょう。

また、よく考えると変な話なのですが、海外の方が人権意識が高いので、グローバルに事業展開している企業ほど、そのような点でのイメージダウンは避けたいということもあるのでしょう。



不信感と証明の難しさ



今の主要な関係者が、噂で聞いたことはあるが、実際に起きていたとは知らない、という説明をしており、それが真実かどうかは分かりませんが、その説明が不信感を持たれているというのも企業側の対応には影響していると思われます。

実際に知らない可能性はあると思いますので、それはそれでかわいそうではありますが、周りの受け止めがどうなるかというのはある種どうしようもないですし、知らなかった可能性を証明することは残念ながらできませんからね。

噂でも知っていたなら何とかするべきだったという声もありますが、それならすべての人間が、二酸化炭素やごみの排出をできるだけ減らそうと日々行動しているのか、と問われるとしていないのではないかと思います。

実際に自分や自分の子孫に影響を与えそうなことでも、自分事のように取り組む人は少ないのですから、噂レベルであればそれに対して何かをするということはなくても不思議ではありません。 

なんなら、私は、セクハラで有名な上司の事を人事部に告げ口したこともありませんし、周りでそうした人も聞いたことがありません。

セクハラされた当事者は不満だったのでしょうけれどもね。



誰が説明責任を?



中には、タレントの起用をやめることに対して、企業には説明責任があるという論調も見かけましたが、それについては何を言っているんだという感想を持ちました。

 企業から見れば、タレントを起用したいから起用するわけですから、起用したくなければ起用しないでいいと思います。

その背景に事務所の話があろうがなかろうが、起用したくないから起用しない、だけでいいと思います。 

場合によってはタレント側から断ってくる場合もあるわけですから、それは単純にビジネスの話でしょう。 

その上で、事務所側に改善を促すような働きかけをするべきだ、というのはその通りかもなという気はしますけれどもね。



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婚活イベントへの批判



とある公益社団法人が企画した婚活イベントが炎上しているようです。

 チラシに書かれてある文言に、子どもを産むことが大切であるというようなものが入っているとか、参加者男性の年収に制限をかけているとか、シングルマザーを対象にしているので、子ども目的の男性が参加するのではないかとか、そういう批判の声があるようです。

まあ少し配慮は足りないのかなという気もしますが、正直、そこまで目くじらを立てて批判をするようなことなのかなとも思います。

とあるお見合いバラエティーでは、あまりに参加希望者が多かったから、顔写真やプロフィールを基に、会ってみたい人を絞るみたいなことをやっていましたが、それに対して別に批判の声はなかったと思います。

いやいや、出会いの場を設けるんだったら、お見合い期間を長くしてでも全員呼んであげればいいのにという批判があってもおかしくはないと思いますけれどもね。


批判が機会を奪う?


例えば、そういう批判をすることによって、シングルマザーの方の出会いの機会を奪ってやいやしないのか、とも思います。

他の条件はほぼ同じとして、子どもがいる女性と子どもがいない女性で、どちらと結婚したいですかと問われれば、後者と答える人が多数ではないかと思います。

だから、何の条件付けもされていない土俵に両者がのると、前者が不利なのですし、それを多くの人は暗黙の了解として理解しているはずです。

であれば、シングルマザーという条件で縛ってあげた方が、彼女たちがパートナーを見つけられる可能性は高くなるはずですので、それは彼女たちにとってはプラスのはずです。

子ども目的の男性が参加するという可能性は確かにあるでしょうが、そんな条件でスクリーニングして怪しい人を排除するなんてできないですよ。

普通の合コンや街コンに既婚者が参加することすら、それを知らなければ我々は防げないではないですか。


スクリーニングは悪か?


また、年収に制限をかけることで一部の人を排除しようとしているという主張は分かりますが、それってただの参加資格に過ぎないのであって、じゃあ参加資格を設けているイベントは全て問題があるイベントなのか、とか思います。

もちろん、参加は強制ではありませんし、嫌だったら参加しなければいいだけで、そもそもその意思決定の権利は個々人が皆持っています。

自分はシングルマザーと結婚したいけど、年収が条件に届かないから参加できない、という人もいるかもしれませんが、それなら主催者に許可を取った上で、会場外で待ち受けて、自己アピールすればいいのです。

いや、そこまで強い思いを持っているのであれば、主催者に言えば参加させてもらえるかもしれません。

最終的に選ばれるかどうかは、選んでくれる相手がいるかどうかですから、やる気があるならまずはやる気を見せればいいのです。

パンフレットに記載されている文言に問題があるという批判もあるようですが、まあ確かに良く分からない文章ではあるものの、そのためにイベントそのものに批判を浴びせる類のものではないのではないかと思います。

むしろ、そんな批判をしていて、結構みんな余裕がないのかなと心配になりますね。

 

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