人間関係ガチャ




親ガチャという言葉があることについて、一度ブログを書いたことがありますが、表現は適切ではありませんが、親はそもそも子ガチャをしているんだよな、と思います。

 

というか人間関係は基本的にガチャだよなと思いますけれどもね。




当たりはずれ



 

で、そのガチャなんですけれども、結局のところ何を持ってアタリで、何を持ってハズレなのか、というのは何となくあるようでないなと思っています。

 

ある人の、この部分はアタリ、この部分はハズレ、というのはあると思いますし、全部ハズレはあったとしても、全部アタリというのもないだろうなと思います。

 

で総じて考えて、例えば75%以上がアタリなら人ガチャはアタリと判断しましょうかくらいの判断基準なのではないだろうかと考えています。

 

ただし、その判定が難しいというのもまた事実ではないでしょうか。

 

例えば私の上長については、私は総じてハズレだと思っていますが、それは恐らく私と上長との業務上でのつながりが強い、上長が私の上司だから私は特にそう思うのだと思っています。

 

その一方で、恐らくですが、そこまで業務上のつながりが強くない人、直接の上司部下の関係にない人からすれば、上長はアタリだと思っている人はいると思っています。

 

また、今、私の所属する部署のトップの人のことは私は以前から知ってはいましたが、直接に仕事をする機会はあまりありませんで、傍目でその人を見ていました。

 

その時の私の印象は、トップの人は確実にアタリだ、というものでしたが、実際に直接に仕事をするようになると、この部分は完全なハズレだなということもはっきりと感じてきます。

 

そのハズレの部分を感じるときはむしろイライラするときもありますが、アタリの部分も間違いなくあって、総じてアタリと考えていいのではないかと感じています。

 

で、私が私の上長や組織のトップの人に感じるハズレ部分は、上長に対してはパワハラ気味、自分が正しいと思って人の意見を聞かない、というものですが、組織のトップの人に対しては、仕事をしない、お願いしてもやってくれない、というものです。

 

ただこの組織のトップの人は、承認作業などは事前に説明しておけばややこしいことを言わずにやってくれますし、こちらが提案をしてこちらが主体的に動くということであれば、まあ基本的に承認されますし、マイクロマネジメントもされません。

 

自ら動くことはほぼないですし、環境を整えなければいけないという意味では大変ではありますし、ガイドをしっかりしないと思ってもいない方向の説明をしだしてしまうなど、ネガティブな面はありますので、この部分のガチャはハズレです。

 

その一方で、周りをかき乱すことはしないですし、パワハラ気味なこともしませんし、良く言えば部下に任せる、部下を信じるという意味で部下としての裁量は大きくなりますので、この部分のガチャはアタリです。

 

ですので、ある部分を抜き出せばハズレのところもあるでしょうし、その他の部分にはアタリの部分があって、それを全て踏まえた上で、ガチャがアタリなのかハズレなのか、と問われれば、アタリではないかと私は感じています。

 

これくらいは自分で考えて動いてよ、と思うことはありますし、もしかすると業務的には負荷がかかっている部分はあるだろうと思います。

 

ハズレの部分から感じる精神的ストレスも確かにあるものの、アタリの部分から来る精神的な健康感というのは間違いなくありまして、総じて健康観の方が勝つのではないかと思っています。

 

ただこれもまた私の場合という話であって、例えば細かく指示が欲しい人や強烈なリーダーシップを持っている人の下で働きたい人からすれば、ややもするとぬるい環境とも言えるわけで、それをガチャはハズレだと思う人もいるかもしれません。

 

もしかするとさらに上司になる人は、この部下はハズレだと思っているかもしれません。

 

要するに、立場や個々人のとらえ方によって、ガチャのアタリ、ハズレは異なってくる可能性もあるわけです。

 

また、その判断軸は、自分にとってどうか、という視点で考えることが多いと思うのですが、では自分にとってアタリであれば正しいのか、というのはまた別問題だろうと思います。

 

もちろん、大多数の人が同じ意見を持つ可能性はあって、その場合はアタリか、ハズレかというのが客観的な目線でおおよそはっきりするのだろうとは思いますけれども、それでも人間である以上は完全にアタリの人なんてほぼいないだろうと思います。

 

人間関係である以上、うまく色々な人と付き合っていく必要がありますね。


 

 

 

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退職後の浪費



最高月収が150万円にも達した男性が、70代になって日雇い派遣をしているという記事を読みました。

 

内容を読んでいて、正直創作っぽいなと思ったのですが、アプリで出会った若い女性に貢いだためにお金が無くなったことが理由のようです。

 

創作っぽいなとは思ったのですが、事実は小説よりも奇なり、でして、実際にないとも言い切れない話でもあります。

 




詐欺はある 




実際に、高齢者の方を狙った詐欺というのは多く存在しているわけですし、中にはそんなにお金を詐欺でとられるということはそんなに持っていたということですね、という額の被害にあっている人もいます。

 

会社で役職についていて、他社からのある程度承認もあって、それが退職した後になくなって、そんなときに自分を(金づるとして)必要としてくれる、しかも若い女性に出会って入れ込んでしまったというのは、自分にも起こりえるかもしれないというのは思います。

 

特に、自分に資産があれば多少浪費しても大丈夫だろうという思いとか、そういう余裕を見せつけてやろうという見栄みたいなものがあっても不思議ではないなと思います。

 

後生大事にお金を持ち続けてもそれはそれで意味はないことでもありますので、何かのタイミングで使ってみよう、それは自分の人生にとっての投資みたいなものだ、と思う気持ちもあるかもしれません。

 

さらには若い女性が関わってくるのであれば、男性としては下心も絡んできて、コロっといってしまう危険性はあります。

 

第三者目線であれば、絶対騙されているでしょうという案件でも、本人からすれば自分に限ってそんなことはない、という意識を持つでしょうし、実際にそれまでお金をつぎ込んでしまっていれば、今やめたら今までの「投資」が水の泡になってしまう、という状態になってしまいやすいとも思います。

 

果たしてそれは「投資」なのだろうかというのは冷静になれば思うでしょうが、もう一押しすれば何とかなるのではないか、という下心を巧みに利用されるのでしょうね。

 

私はやったことはありませんが、パチンコなどももうちょっとでアタリが来る、という心理が働くと言いますし、ギャンブルというのは得てしてそうなのかもしれないことを考えると、これは「投資」ではなくて「ギャンブル」なのでしょうね。

 

ギャンブルと考えると、それにお金を注ぎ込むというのは、特に退職後などのキャッシュインが少なくなった状態でのめりこむのは問題ですね。

 

キャッシュインがあればのめりこんでもいいというものでもありませんが。




適切な趣味の大切さ



 

普段の生活から、お金がそんなにかからないけれども長く楽しめる趣味を持つ、というのが精神衛生上も、また金銭面でも好ましいですね。

 

言うは易しで意外と難しい話ではありますが。

 

例えば、私は趣味としてジョギングをしますが、それで半日時間をつぶせるかと言われるとつぶせません。

 

ジムに行くとしても、34時間が限度かなという気が個人的にはします。

 

登山なんかであれば移動時間も含めれば1日がかりですので、もしかしたら可能性はあるかもしれませんね。

 

しかしそれも毎日というわけにはいかないでしょう。

 

今の私ができる範囲であれば、読書やゲームであればある程度は時間がつぶせる気はしますが、どこかのタイミングで、せっかく時間を費やすならば少しでいいからお金を稼ぎたいなと思うような気はします。

 

これまでも何度かブログ記事にしていますが、私は別に働くことが嫌なのではなくて、あくまでも必要以上にストレスを感じながら働くのが嫌なのです。

 

接客業も別に嫌いではありませんし、体力が持つのであれば体力仕事も嫌いではありません。

 

となると、実はわたくしにとって、時間をつぶせる趣味というのは意外とコンビニアルバイトとかも当てはまるのではないかというような気がします。

 

なんだか、今日はアルバイトしたから少しは贅沢してもいいだろうとか言い出して、そのあたりの居酒屋で一杯飲み始めて、収支はトントンなんてことにもなりそうですが。

 

そして、そんなことをやっていると、その居酒屋で出会った女性と会話を楽しんでいるうちに、なんだかころっと騙されてお金をむしり取られる、なんてこともあるのかもしれません。

 

お店の方はあくまでもサービスとして優しく会話をしてくださっているのであるのに、それを個人的な好意と勘違いするなんてことも可能性はゼロではありません。

 

そうやって馬鹿な男は騙されていくのかもしれません。


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基本給は大切



とある引越サービスの提供会社が社員から訴えられた案件で、基本給が月に6万円というニュース記事を読みました。

 

時間外の割増賃金を抑制するために基本給が低く抑えられているということでした。

 

どのような仕組みなのか、はっきりと理解しているわけではないのですが、割増賃金は基本給に基づいてという計算をする際に、全体の額を抑えるためにベースとなる基本給を抑えているということでしょう。

 



就活中の経験




私が就職活動をしているころ、特に初期ですが、とりあえずは勉強のためにといろいろな会社の説明会に伺いました。

 

そのうちの一つで今も強く覚えている言葉があります。

 

ある会社の説明会でのことでしたが、それは以下のようなものです。

 

いろいろな会社が初任給はいくらだという話をして、さらに初任給を高く見せるということをする、ただし、その初任給にはいろいろな手当てが含まれてカサ増しされていることもある。

 

大切なのは基本給がいくらかで、実はボーナスも基本給をベースに計算されている。

 

だから我々の会社では初任給がいくらという話をせずに、しっかりと基本給がいくらからというところから情報公開をします。

 

その上で手当ても積み重なるとこの額が初任給ですが、実は初任給も高いのですよ。

 

ということでした。

 

社会の仕組みをさっぱりわかっていなかった私は、なるほど、と思いながら聞いていました。

 

その会社そのものには私はさっぱり興味をひかれませんでしたし、あとから調べたところ、人材確保には苦労はするであろう企業でして、親切な姿勢を見せながらも初任給の高さも見せて、何とか新卒社員を取り込もうとしていたのではないかと勘繰っています。

 

長年サラリーマンをやっていますと、確かに初任給の高さというのは魅力的ではありますが、その初任給からどれくらい賃金上昇があるのか、という視点の方が、稼ぐという意味では圧倒的に大切だということが分かります。

 

しかし就職活動をしているころですと、10年後20年後の話よりかは1年後の話の方が想像しやすいですし、初任給というものへの意識の度合いの強さはあるでしょう。

 

今であればそのようなこともなんとなくわかります。

 

いずれにせよ、私はその会社自体には全く魅かれませんでしたが、この説明会で聞いた基本給という考え方は新しい学びで、非常に自分のためにもなった経験でした。




会社にとってはコスト


 


長く働いていると、なるほど基本給を上げるということは会社にとっては固定費を上げるのと同じような影響があるのだな、とか、今はトーンが少し弱まっているかもしれませんが、春闘、ベースアップ、というような話がなぜ出てくるのか、ポイントは何なのか、ということも背景と共に理解できるようになります。

 

ですから、労働者としては基本給を上げさせる、ということは大切なことで、もっと真剣に経営者側に求めていく必要があることなのではないかと思いますし、ある種経営者の基本給を上げることを拒む姿勢には戦う意思を持つということも必要なのではないかと思います。

 

経営者と議論していて、経営環境が厳しいから仕方がないですね、ということを労働者側が言ってしまっては本来いけないのだと思います。

 

とはいえ労働者にとっても、短期長期の視点で、どういう判断をすれば一番利益が増えそうかという計算も大事でしょうし、一概にだめだとは言い切れませんが、もしも労働者側が頑張って利益を上げているのであれば、その対価をもらうための主張は大切です。

 

それに対して会社側は一時金として対応するなんてのもある話でしょうけれども。

 

一時金でもそうやって対応してくれるだけでもマシという考え方ももしかしたらあるかもしれません。

 

いずれにせよ、基本給が月6万円というのはかなり衝撃でした。

 

むしろどれくらい残業が発生しているのか、働いている人がどれくらい無理をしてくれているのか、というのも驚愕です。

 

確かに私が以前に依頼した際もすごくてきぱきと作業をしていただきましたが、あれはもう夕方遅かったのにもう1件どこかの引っ越しを抱えているなどあったのでしょうか。

 

基本給を抑えていることについて、そもそもがそんなに儲からないからというのも背景にはあるのでしょうし、そこにコストをかけすぎるとサービス価格が上がってしまって競争に負けてしまう、というのは会社側の論理としてはあるのかもしれません。

 

サービスの受領者としては安い価格でサービスをしてくれると嬉しいというのは偽らざる本音ですが、それによって社会全体が疲弊してしまっている、無理をしている人がいるというのも問題だと思います。

 

かといって、サービス提供側がせーので値上げすると、カルテルやっているんじゃないかと言われるというのも事実でしょう。

 

実際にはレベル感の強度はいろいろだとは思いますが、なんだかんだで緩くはやっていると思いますし、むしろ労働者に変な負担がかかるくらいならばやっててくれとすら思いますが、やりすぎると新規参入者が入ってきてまた価格破壊が起きてということの繰り返しなのでしょう。

 


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イギリス人からの学び




引き続き、なかなか暑い日が続いております。

 

イギリスに住んでいるイギリス人の友人が日本に旅行にくることになり、夕食を共にする機会がありました。

 

そんなに高くはないけれども、カウンターでも食べられるお寿司屋さんに一緒に行ったのですが、嫌いなもの・食べられないもの以外は基本的に注文は任せるということで、注文を任されました。

 

そんなにバカ高いものは頼みませんでしたが、お酒類に始まり、一品もの、刺身系、そして握りとまあ一通りは楽しみまして、ではお会計をというところでレシートをもらいました。

 

決して安くはない金額ではありました。

 

しかし、そのイギリス人曰く、あれだけ飲み食いをして非常に安い、ロンドンなら2倍以上は取られる、ということを言っていました。

 

日本は暑くて、湿気が多くて、非常に過ごしにくい、また電車の路線はよくわからない、とは言っていましたが、物価はかなり安いと驚いていました。

 

航空券代は決して安くはないということでしたが、いざ日本に来てみるとホテル代も含めて物価は非常に安い、そのうえでサービス品質は高いと驚いていました。

 

あと、道行く車が非常にきれいだとも驚いていまして、特に、工事用トラックやバスなんかは、そんなにきれいである必要があるのか、という疑問を抱くくらいきれいだと思ったようです。

 

恐らく毎日、洗車しているんだよということを伝えたところ、外見は汚くなるのが普通できれいにする必要はないのになあと結構不思議そうにしていました。

 

さらに不思議そうにしていたのは、マンションの横幅の狭さでしょうか。

 

あのマンションはすごく狭く見えるが、あれはどういうことなのかと質問されて、あれは単身用のマンションで、ホテルのシングルルームくらいの広さしかない、私も独身時代はああいうマンションに住んでいたよ、というように答えました。

 

日本人からしたら東京都内は家賃も高いんだ、と伝えましたが、ロンドンの不動産価格を知っているその人からすれば非常に安い価格のようでした。




いい国なんだな


 


改めてですが、気候は不快に感じているようで、決してすべてが満足ということではないみたいなのですが、それさえ除けばかなりいい国だなという印象を抱いたようでした。

 

10数年前に我々が東南アジアの国に旅行に行った際に抱いていたような印象をその旅行者の人は抱いたのでしょうか。

 

治安の良さや町のきれいさという身では、それ以上のプラスの印象を抱いたのかもしれません。

 

政治の状況や経済の状況など日本には課題もあるという話についても、そんな話はレベルの差はあれどどんな国にもあるし、すべてが完ぺきな国なんてのはどこにもない、ということも言っていました。

 

とかく日本人の我々は、自国のことを少し卑下したような形で表現することが多いですし、まあそれが一つの礼儀のようにもなっているような気がしますが、その人の言葉からは、課題がある状況を良いとは言えないけれども、課題が明らかならその解決に向けて何とかすればいいのだし、どの国にだって課題はあるのだからという非常に客観的な指摘なのかなという気はしました。

 

日本人の場合は、政治に課題があるからと実際の課題解決のための行動には結び付きにくいというのはあるのかもしれませんけれども、あれがダメ、これがダメ、と日本人自身が思うほどには日本は悪い国ではないし、自分たち次第でまだまだ良くなる可能性はあるのではないかと思われたのかなと感じました。




気温は心配


 


しかし、今の暑さは本当にすごいですね。

 

気温が30度台後半が当たり前の暑さになってきていますし、さらに蒸し暑いので、ずっとサウナの中にいるような状態です。

 

知らぬ間に体力が削られていくということもあると思いますし、水分補給や栄養補給をしっかりとして、無理せずに過ごしていきたいところですね。

 

あと、子どものときの気温を鑑みるに、今後さらに10数年後にどんな気温になってしまっているのかが非常に気になります。

 

私も体力が落ちれば、さらに高い気温がしんどいということがあるでしょうが、何よりも自分の子どもがどんな環境の中で生活をしなければならなくなるのか、非常に心配です。




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休み明け



お盆休みが終わりまして、「社会復帰」をしている社会人も多いのではないでしょうか?

 

始まる前は意外と長いなと思えるお休みでも、なんだかんだで終わってしまえばあっという間、気づいた時にはそんなに休みがあたっけと思ってしまいます。

 

しかし、そんなはずはない、そんなに休んではいないと何をして過ごしたのか振り返ってみると、ああ確かにそれくらい日がたっているなと現実に戻されます。

 

別に無駄に過ごしたわけではなく、充実した休みであったとしても、終わってしまうことを感じると時間のたつ早さをどうしても感じてしまいます。




休みの取り方


 


フランス人などはバカンスを何週間もとるということを言いますが、あれはあれで理由があるようで、バカンスの最初の1週間はまず通常の日々からバカンスに入るための準備運動、最後の1週間はバカンスから通常の日々に戻るための準備運動ということで、その2週間を除いた日が本当のお休みらしいです。

 

そんなことはさすがになくて、しっかりとその2週間も休んでいるだろうと思うのですが、物は言いようといいますか、まあそれでも言わんとしていることはわからんでもないとも思います。

 

お休みが1週間しかないと、そういう準備運動の時間がありませんので、あっという間のドタバタで時間が過ぎてしまうというのは確かにあり得るなと思うからです。

 

その分、特にお休みの最初の日々は通常の日々の延長線上でお休み期間を過ごしてしまうことになりますし、そうでなくとも移動のために時間がとられてしまうこともあると思いますで、思ったように休んだ気がしない、実際に落ち着いているのは数日間、というのかあり得るかもしれないなと感じます。

 

日本の場合は、皆が同じタイミングでお休みをとる結果として、交通機関の混雑であったり、旅行に行った先での混雑であったり、最初と最後がバタバタする、あるいは意外と休んだようで休めていないということはあり得る気がしまして、そう考えると、前述したフランス人の思考というのは、休みをきちんととるという点では一理あるな、という気がします。


実質、日本の10日間の休みは8日の休みに該当みたいな。





もっと自由でいいはず


 



お休みに限らずですが、別にみんながみんな毎日定時で働いている必要はないというか、会社の決まりとして定時を守る必要はもちろんありますが、時間だけで縛る必要はないと思いますし、例えば金曜日は少し早めに会社を出て飲みに行く、家族と時間を過ごすなんてのはあってもいいのではないかと思います。

 

フレックス勤務という言葉はあるものの、成果ではなくて就業時間で縛られてしまうと結局のところ朝早くから働く必要があるとか出てきます。

 

さらに言えば、週末だろうが何だろうがメールを送ってくる人、さらにはそのメールへの返信を求める人はいますが、その時間は就業時間としてカウントされることはあまりないというか、役職によっては当然にカウントしない、ということなりますので、さらに平日までも就業時間で縛ってしまうのはちょっといまいちな気がしますけれどもね。

 

そもそも就業時間が超える分は全く考慮していないのに、それを含めずに最低就業時間を縛ろうとされても困るんですがと。

 

私の場合は、休み明けはなるべく重たい会議を入れることなく、慣らし運転ができる時間を設けたいと思っているのですが、タイミング的に来年度予算を検討する会議を入れないといけないが別の日程だと他の人の予定がなかなか合わないとか、あるいは誰かから重たい会議を入れられてしまうのは避けきれません。

 

そういう会議を入れてしまう、入れられてしまうと、休みの間もちょっと準備しなければならないとか思いながら過ごさないといけませんので、あまり気持ちよくお休みを過ごすことができません。

 

もちろん、それはそれ、これはこれなのかもしれませんが、このあたりをうまく調整、調節することで、よりよい休みの時間を過ごすことができるかもしれませんね。

 

それを考えると、学生時代の夏休みは本当に長かったし、やろうと思えばいろいろなことができたのに、ちょっと無駄に時間を過ごしたこともあったなという気がします。

 

そんな無駄もまた、必要な無駄だったのかもしれませんけれどもね。

 

 

 

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労働者の権利



とある経営者の人が、政府が労働者の勤務時間に制約を設けることは労働者の稼ぐ権利を奪っているというような意見を発信しました。

 

たたかれることは承知の上での発信とのことなのですが、なかなか面白い意見だなと思います。

 

なぜならば、確かに、お金をもっと稼ぎたいから働きたいというのは労働者からも出る可能性はある意見でしょうし、それを政府が縛るなというのは分からなくはない意見ではあります。

 

人によっては毎日20時間働いてお金を稼ぎたいという人もいるでしょう。



大事な視点


 

ただし、ではなぜそのような縛りのルールを政府が作ったのか、ということに立ち戻ると、それはそういうルールがないと、労働者を酷使、搾取する経営者がいたから、ということになるのではないでしょうか。

 

労働者がたくさん働いてお金を稼ぐことはけしからんからルールで縛ってしまえ、ということではなくて、むしろ労働者を守るためにルールをつくったのであって、その背景にあるのは労働者のことを考えない経営者がいたから、あるいは今もいるからということではないでしょうか。

 

確かに経営者の人からすれば、労働者がもっと働いて利益を出してくれれば、その分潤うわけです。

 

8時間で40のコストで80の利益を生んでくれる労働者が、同じ調子で12時間働いてくれれば60のコストで120の利益を生んでくれるわけで、そうすれば労働者も経営者も追加の利益を得られるわけでWin-Winです。

 

でも実際には、経営者は60のコストを負担しようとせずに、経営者の取り分を多くしてしまう、あるいは、経営者が労働者に長時間労働を強要してしまう、そういうことが繰り返された歴史があった結果として、ルールが出来上がってきたということはあると思います。

 

経営者の方が立場的には労働者よりも強いはずですから、弱い労働者を守るためにルールを定めたということがあるのではないかと思います。

 

ですので、今回の場合は、労働者の権利を奪っているという論調ではありつつも、内実は経営者の権利に制限をかけているから気に食わないと主張していると受け取られかねないだろうなと思います。




ルールに異議を唱えるのはいい


 


もちろん、ルールはあくまでもある環境下である状況に対処するために作られたものですから、時代や状況によってはルールを変えていくということは必要なことだと思います。

 

ですので、政府が定めているルールはおかしいから変えてほしいという主張をすること自体は問題なく、議論が必要であれば議論をすればいいと思います。

 

前例がないから認められないとか、慣習上こうだからそれを守るんだという姿勢だけでは閉塞感しか生まれませんから。

 

そうしている方が楽かもしれないですけれどもね。

 

ただその種の議論をする際には、ではそもそもなぜそのようなルールが定められたのか、目的は何だったのか、そして今そのルールを変える必要があるのはどういう理由からなのか、ということを踏まえた上で議論をしないと、ただ勝手な意見を言っているだけの変なケンカ腰の不毛な言い合いで終わってしまう恐れがあります。

 

誰しもが常に正しい意見を主張できるわけではありませんし、自分が間違っていれば考えの修正をすればいいわけですし、変なことを主張したからその人の人格が全てダメ、みたいな論調になるのはおかしいと思いますので、なぜその経営者はそういう発言をしたのか、その真意はなんなのかまで含めて議論すればいいのにと思います。

 

その経営者の人はがむしゃらに働いてきたと思いますし、自分の周りにいる人にもそれを求めてきているでしょうし、それらの努力が報われての今があると思いますので、自分の体験からそれが普通だと思っているのかもしれません。

 

もしかしたら、全員が全員そうではないのですよ、ということを議論しないといけないかもしれません。

 

労働者とひとくくりにはしても、いろいろな意見はあるでしょうし、多数意見を正しいとすればいいというのも危険な考えだと思いますが、少数意見を常に尊重するというのも難しいことです。

 

最大多数の最大幸福ではないですが、社会全体を考えたときに、どうすれば一番おさまりが良いのかが、言い合いではなくて議論できればよいなと思います。

 

ちなみに私個人としては、労働時間に制限はかけてほしいと思います。

 

労働するために生きているわけではありませんので。

 

もちろん、楽しい仕事であれば労働時間を気にせずに働くことは個人的にもあります。

 

ただそんな仕事ばかりでもありませんからね。

 

 

 


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応援の難しさ



とあるプロ野球チームの監督が、応援団に対して、「気合いを入れろ、〇〇」という応援は選手のモチベーションを下げるからいい気はしない、というようなコメントを出しました。

気合いの入っていない選手なんてのはいないと。

その詳細な場面は知りませんが、チームとしては連敗中で、応援団としてはなんとか勝って欲しいという思いでそんな応援をしたのではないかと思います。

どちらかと言うと、鼓舞する気持ち、なんとかしてくれという気持ちであって、本当に気合いが入っていないように見えていたからという訳では必ずしもないだろうと思います。

この発言を巡っては色々な意見を目にしましたが、賛否両論あります。

個人的には、分かるような分からないような、まあ色々な捉え方をする人がいるから難しい話で、小学校で習うことにそえば、人の嫌がることはやめましょう、でしかないのかなと思います。



がんばれ




例えば、がんばれ、という応援がありますが、既にがんばっているときにそんなこと言われたくない、という意見があります。

その意見そのものは私も理解できますし、初めて聞いたときは、そう言われたらそうだなあなんて思った記憶があります。

しかしながら、自分がフルマラソンを走っていてしんどい思いをしている時に、がんばれ、と言われて悪い思いはしません。

恐らく、気合いだ、と言われても悪い思いはしません。

となると、気合いを入れろ、という言葉が持つ、暗に今は気合いが入っていない、というネガティブな意味合いが、聞いていて気持ち良くないということでしょうか。

それは、結果が出ているときは実際の気合いがどうあれ言われないでしょうから、結果が出ていない特に言われると、ちょっとカチンとくるのかもしれません。

実際に、ワードセンスを考えてという言葉がありましたので、苦しい時こそ、ネガティブな要素のない、気持ちの乗る応援をということだと思います。



気合いとは



しかし、私もそうですが、気合い、というのは分かるような分からないようなものですね。

坊主頭にしたら気合いが入ってるなあ、なんて言われますが、果たしてそうだろうか、と思います。

営業成績がよくない社員に、上司が気合いが足りないと言っているシーンがたまにありますが、確かに気合いが足りない可能性はありますが、ややもすると精神論でしかないよなと思います。

気合いでなんとかできることはありますから、確かに気合いが足りないから何かができていない場合はあります。

一昔前の新入社員が、電話が鳴れば2コールまで取る、など求められたことを守るためには気合いや姿勢が大切でした。

それくらいであれば気合いの足りている、足りていないでなんとでもなる話です。

また、単なる気合いではなくて集中力のあり、なしという話はありえると思います。

気合いが空回りという表現がありますが、それはむしろ、冷静さを欠いているということのような気がしますし、むしろ冷静に集中した姿勢で物事に臨むことの方が大切かもしれません。

ただし、今回の場合、実際にプレーする選手は集中力が大切でも、応援している人、特に応援団の人は、ある種の熱狂状態で、声を出して応援しているわけで、それこそ気合いを入れた状態なわけです。

そして、応援している対象が負けている場合、不甲斐ないと感じた場合、あるいはなんとかして欲しいと願う場合、気合いを入れろと言いたくなるのでしょう。

勝っていればなかなか言われないと思います。

今回、どのような場面、どのようなトーンだったのか分かりませんが、応援する側も頑張るから、される側も最後まで諦めない姿、頑張っている姿を見せて欲しいというものであれば、個人的には分からなくはないなと思います。

応援している側も、気合いさえあればいい結果が生まれるとは思っていないのではないでしょうし、気分を害させようとも思っていないと推察します。

ただなんかこう、意地を見せて欲しいという思いはあるのではないかと思います。

もちろん、勝手に応援しているだけではありますが、それを言ってしまうと興行であることを否定してしまいかねません。

しかしまあ、それもまた勝手な意見でしょうし、難しい点ではあるなと思いますね。

誹謗中傷はいけませんが、そうではない心の叫び、自分が好きな対象に頑張って欲しいと思う気持ちが根底にはあるはずで、いかし受け取る側が応援されているように感じないのであれば、独りよがりになってしまうのも確かにそうだなとは思います。

いつもどんな時もポジティブに応援し続けるのも難しいというか、現地に応援にいくような熱狂的ファンは自分ごととして興行を捉えがちですからね。


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節約と消費



 

お盆休み、皆様いかがお過ごしでしょうか?

 

私は妻の実家や私の実家に帰省をしつつ、そのついでに少し温泉や大浴場のあるホテルに泊まるなどして過ごしています。

 

そんな中で外食をすることも何回もあるわけですが、特に高級店に行っているわけではないということも原因の一つではあるとは思いますが、その際の支払いについて全く何も考えずにできてしまうということが幸せに感じます。

 

普段からも、家族が食べたいものを食べればいい、ちょっと買いたいものがあるなら買えばいい、という心構えで臨むことができます。




一定の余裕

 



セミリタイア実現にはまだまだとはいえ、ある程度の資産形成はできていて、円貨換算では着実に増やせているということ、その上で高級なブランド物を購入する機会が非常に少ないので、月次や年次のキャッシュフローは黒字ですし、多少自由気ままにお金を使おうが、その大勢に影響はないということが分かっているので、たまの機会くらいはお金を使っても問題ないということが分かっているからこそなのだろうと思います。

 

これが、ローンを抱えているとか、実はクレジットカードでの精算が多いとか、実は収支バランスが崩れているということであればもう少し慎重に考えるべきであるとも思いますが、そうではないということが分かっているからこそ、たまのことであれば多少お金を使っても大丈夫という安心感はあると思っています。



投資になる消費

 



経済にいい影響があるとはいえ、お金を浪費することがいいことだとは全く思いませんが、その一方でお金を使うことで楽しい時間を得られるのであれば、そうすることを躊躇したいとも思いません。

 

もちろん、無駄遣いや節操のない使い方はだめだと思います。

 

お金を使うということは、確かにセミリタイアに向けた資産形成の逆を行くことになりますので、それ自体はセミリタイアの達成に向けてはより時間がかかってしまうということになります。

 

しかし、そもそもなぜセミリタイアをしたいのかと言えば、精神的にゆったりとした暮らしをしたいとか、それによって幸せを感じる暮らしをしたい、人生の中で楽しいと思える時間を増やしたい、ということです。

 

であれば、お金を多少使うことで、そういった幸福感を感じられる時間を得られるのであれば、それ自体は私が増やしたいと思っている時間を実現することに他なりません。

 

極端な話、もしも幸福感をずっと感じられる時間を過ごせるのであれば、それが大多数の時間なのであれば、私はセミリタイアをしなくてもいいとすら思っていますし、もしかしたらそういう人生が理想なのではないかとすら思います。

 

ただし残念ながら、そんなにうまい話はないもので、どうしても必要以上にストレスを感じたり、それによって肉体的・精神的に不調になったりということはどうしてもあって、それで健康を害してしまうくらいであればセミリタイアをした方が幸せな人生を送れるのではないかと思っているのです。

 

お金を浪費することは、刹那的に楽しむことはできるものの、長期的には人生にマイナスの影響を与えるかもしれません。

 

しかしながら、お金をうまく使うことで、今を楽しみながら、長期的にも人生にプラスな影響を与えることができるのではないかと思っています。

 

たとえそれによってセミリタイアまでの時間が多少伸びたとしても、人生トータルで見ればプラスだったと思えるのであれば、それにお金を使うこと自体に抵抗はありません。

 

家族でおいしいものを食べて、子どもと一緒に時間を過ごすということは、私にとって楽しいものであることに間違いありません。

 

子どもがもっと大きくなれば、私と一緒にご飯を食べてくれなくなることも考えられますし、そうであれば半ば強制的に一緒にご飯を食べることのできる今のうちになるべく一緒にご飯を食べるというのは大切なことだとすら思います。

 

そして、そう思うだけではなくて、実際にそれを実現できる状況にあるということは、これまで自身が地道に働いてきている、あるいは頑張って資産形成をしてきている、そして浪費は控えてきているからこそできるのであって、それ自体はそうしてきてよかったなと思うところです。

 

お金が大事というのはその通りですが、それは資産として持っておくことでの安心感や必要な出費を賄えることからくる大事というのはもちろんのこと、お金をうまく使うことで人生に楽しい時間をもたらすことができるということもあると思います。

 

何でもかんでもお金で解決するというのはちょっと違うとは思いますが、お金を貯めこむことだけではなくて、お金を使うことで幸せな時間を得られるのであれば、それもまた投資なのではないかと思っています。

 



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お金持ちになる方法



帰省中に甥っ子から、どうすればお金持ちになれるのかを質問されました。

 

一緒にお風呂に入っているときだったのですが、お金に興味があるようで、お金持ちになりたいということでした。

 

甥っ子のお父さんは、話を聞く限りかなり仕事のできる人で、会社での信頼も厚いのだろうと思う方なのですが、働いている業界が成長業界ではなく、年収はどちらかと言えば低めだと思います。

 

会社の中での役職で言えば、私の方が低い職位なのですが、年収で言えば私の方が上なのは間違いないと思います。

 

そもそも今の会社で出世街道に乗っていると思いますが、業界を変えても活躍できる方だと思いますし、もしも年収を上げたいと思うのであれば、業界を変えて転職をすればいいと思いますが、今の会社や仕事がとても好きでやりがいがあるということで、転職というのはあまり考えていないと思われます。

 

つくづくですが、年収というのは個人の能力だけでは決まらない、ということを思います。

 

しかしながら、そんなことを甥っ子に全部正直に伝えるわけにもいきませんので、大きな趣旨は伝わるように、しかしながらなるべく直接的には言及しない形で、いろいろと話をしました。




何を話したか


 


そもそもお金持ちになりたいというのはどういうことなのか、お金をたくさん稼ぎたいということなのか、資産をたくさん持ちたいということなのか、というところから、ちょうどお風呂に入っていたということで、蛇口から出るお湯ととお風呂の栓からの排水を例にして、どうやればお湯がたまっていくのか、などなどいろいろと話をしました。

 

しかし結局結論としては、いずれにせよまずはたくさんのキャッシュインを得ることが大切なのではないかという話になり、そうなるとそれができる可能性をどうやって高められるかを考えるのがいいということになりました。

 

大谷翔平選手みたいな能力があればプロ野球選手としてそのようなキャッシュインを得ることが可能でしょうし、YouTuberとしての能力があって有名な人たちもたくさん稼いでいるのだと思いますので、もしも自分にそういう能力があると思うのであればそういう道に進むのも選択肢の一つとしてはあり得るという話もしました。

 

ただし、そのような道で成功できるのは本当にひと握りで、能力があるだけでも長続きしないかもしれない、能力に加えて努力をし続けられないといけない、さらに言えばもしもその道で成功できなかった場合にはたくさんのキャッシュインを得ることが難しくなるかもしれない、というような話をしました。

 

どういう道に進んだ場合に、どれくらいの年収の期待値があるのかということを計算したことはないですし、そんな計算ができるのかどうかも分かりませんが、非常につまらない話ですが、会社員で働くということを前提にした場合には、一番堅実なのは勉強を頑張っていい大学に入って卒業するということなのではないかという話になりました。




学歴は可能性を広げてくれる

 

 



日本は学歴に価値の重きを置きすぎているという話もありますが、決してそれは日本に限った話ではないと私は思っています。

 

なんだかんだで、私の知る限りでは先進国と呼ばれる国では学歴は圧倒的に大切で、それがなぜかというと学歴によって可能性が広がる、選択肢が広がると思っているからです。

 

このブログでも何度も述べていると思いますが、学歴が全てにおいて優先されるわけではありませんし、十分条件なわけでもありません。

 

ただし、人生の選択肢を広げる手段という意味でかなりの力を持っていると思っています。

 

もちろん、親が有力企業のお偉いさんであるとか、何かしらのコネがあるとか、そういう前提条件があれば、学歴の差を乗り越えていい企業に入れるとかそういうことはあります。

 

ただしそういうコネがあったとしても、そのコネが使えるのは特定の業界や企業においてのみで、また別の業界や企業で働きたいと思った場合には使えないコネになってしまいます。

 

そして、そういった場合には、学歴の方が判断される材料になりやすいということがあると思っています。

 

企業の採用担当者に良い第一印象を与えるという意味でも、学歴というのは大切になってきます。

 

だからといって勉強ばかりをしていればいいという話ではありませんし、学生時代には勉強以外にも経験しておいた方が良いこと、時間を費やした方が良いことはいろいろとあると思います。

 

というような話をしていましたら、ではどうやっていい学校に入ればよいのか、どうやればその良いと思われる学歴を手にすることができるのかという話になりまして、それはもうコツコツと勉強をするしかないよね、という非常につまらない話になってしまいました。

 

我ながら、ちょっと現実的過ぎて夢がないよな、と反省しましたが、別の機会に同じことを聞かれても、同じような答えをするのではないかと思います。

 

自分自身、学歴で得をしているなと思うことはやはりこれまでの人生でありますから、実感としての思いを持っています。

 

 

 

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株価の混乱



株価の下落が続いており、個人投資家の多くが影響を受けています。

 

何を隠そう、私の保有する株式についても影響を受けています。




個人の限界


 


そして、株価の下落、あるいは上昇も同じだと思いますが、これらはなんだかんだで大きな金額を動かしている人達の行動の影響を受けます。

 

それが誰なのかは完全にはわからなくても、いわゆる機関投資家と呼ばれている人たちの影響はどうしても大きいです。

 

それは当然の話で、例えばの話、株式市場の全体100のうち、70を持っている人の行動と残り30を持っている人の行動の、どちらの行動が全体に影響を与えやすいかと言えば間違いなく前者で、株式市場で言えばそれは機関投資家なのです。

 

株で儲けているのは機関投資家で、個人のほとんどは負ける、という一見極端に思える主張もありますが、それもまた個人投資家が機関投資家の行動に左右されるということでしょう。

 

大きな海を泳ぐくじらがたてる水流には、小さなイワシは抗えない、そんな感じでしょうか。

 

そしてそんな機関投資家は、システム、AIを使用していることも多く、そこにはある条件を満たせばある行動を自動的に行なうようなプログラムが組まれていると言います。

 

人間は非合理な生き物ですから、損失が拡大する局面でも反転することを願ってなかなか損切りできないものを、機会の力を使って強制的に損失の拡大を防ぐ、というような仕組みです。

 

当然、そんな機関投資家が損切りの行動を起こせば株価は一気に下落するでしょうし、それに個人投資家が巻き込まれるということも起こりやすくなります。

 

もっと言うなら、それらの機関投資家の動きに個人投資家が巻き込まれないというのは、ほぼあり得ないことで、確かに機関投資家が株式市場でのかなり影響力のある役割を担っていて、個人投資家はそれに比べれば小さい小さい存在です。

 

機関投資家がつくりだす大きな水流に翻弄されながら、なんとかしてその水流から受けるダメージを最小限にして生き残っていくしかありません。

 

ここ最近、急に株式投資を始めた人たちで、そういう大きな水流、個人投資家ではほぼ抗えない水流があることを理解している人がどれくらいいるのだろうかと思うことがあります。

 

そういう水流があるから個人投資家は機関投資家の餌になってしまうとか、投資では個人投資家は勝てないということを言いたいのではありません。

 

なぜならば、個人投資家も勝てる可能性があることは歴史であったり過去からの株価チャートを見れば明らかだからです。

 

ただし、機関投資家の創り出す大水流に無理に抗おうとしたり、逆にそこでブーストをかけたりしようとすると、勝てる可能性は確かに低くなってしまうかもしれません。

 

大水流があることは理解したうえで、その流れに翻弄されるというよりかは身を任せて、なるべく長い間その流れに乗り続ける、ということが大切になるのであって、それが長期投資目線が大切だと言われているゆえんであるとも思います。

 

ちっぽけな個人投資家が自ら流れを作り出すことは非常に難しいです。




退場した個人


 


かつては書籍を出していたような、一世を風靡したデイトレーダーと呼ばれる人たちも、多くがいつの間にか表舞台から姿を消してしまいました。

 

それは恐らく、どうしても短期目線で、なるべく早く泳ぐことを意識してしまった結果、結局大水流にあらがう体力が続かずに溺れてしまうのにも似ているともいます。

 

早く泳ごうとするのではなく、とにかく長い時間水面に浮いておく、水流によっては変なところに流される可能性がありますが、それでもとにかく浮いておく、そうすれば長期的には水面に浮いているいろいろなものを入手しながら生き続けることができる、ということかもしれません。

 

ルールを決めて、牛耳っているのが機関投資家なのだとしたら、そこと変に戦おうとはせずに、流れに身を任せる、それが今混乱している株式市場だけではなく、今後も生き残っていくための秘訣なのかもしれないですね。

 

 


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災害への備え

 



南海トラフ地震の注意報が出されましたが、それが解除されようとしています。

 

いつかは分からないが確実に来ると言われている南海トラフ地震ですが、被害にあわれた方もいる中では非常に不謹慎な言い方にはなりますが、人々への注意喚起をするという意味では注意報を出すということは非常に意味があると思いますし、たとえ解除されたとしても危険性がなくなったというわけではないということを一人一人が認識する必要があると思います。

 

この期間に日本を訪れようとしていた海外からの旅行客の人で計画を変更したという人もいるということです。

 

夏休み期間ということで、少しはリラックスをして過ごしたい、楽しい気持ちで過ごしたいと思うのが自然な気持ちですし、そんな中で注意報が解除されるのはいいニュースではありますが、完全に危険が去って安全になったわけではありません。

 

地震の場合は、地震そのものの被害の他にも、付随して火災、津波、浸水、インフラ被害などいろいろと被害が発生して、被災という意味では長期化する可能性もあります。

 

被災地域が大きくなれば、その分救援対応が遅れる地域も出てくると思います。




備えることしかできないが


 


残念ながら、例えどんなに準備をしたとしても、危険性がなくなるわけではありませんが、そうであっても備えをしておくことで危険性を減らせる可能性があるのも間違いないと思いますし、一人一人が備えをしておけば、いざとなった場合でも助け合いながら困難を乗り越えやすくはなるのではないでしょうか。

 

とは言っても、常に気をはってピリピリしているのも精神衛生上はよくないとは思いますが。

 

私の子どもなんかは、まだ地震とはいったい何なのかがよくわかっておらず、地震を体験してもなぜ揺れているのか、素朴に質問をしてきます。

 

そんなのを目にしていると、ああ本当にまだ何もわかっていないのだなと思いますし、絶対に一人では逃げるなんてことはできないだろうなと思い、少し怖くなります。

 

子どもだけではなく、体の不自由な方、誰かの手助けが必要な方なんかも、いざとなった場合には非常に困難な状況に陥ると思います。

 

誰かを助けて自分が犠牲になるのは美しいことではありますが、まずは自分自身を守りながら、余裕があるのであれば他人にも優しくするという心構えでいいのではないかと思います。

 

しかし、自分の子どもについてはまず優先してあげたいなと思うのが正直なところで、それは理屈ではない部分ですね。

 

とはいっても、前述したように子ども一人ではどうしようもないのは事実だと思いますし、何か非情時の決め事をしたとしても分からないでしょうし守れないだろうと思いますから、なんとか親も無事でなければならないのですが。

 

災害は忘れたころにやってくるとは言いますが、今の日本では毎年のように何らかの災害が起きており、被害にあっていないのは運が良いからくらいの頻度で大きな災害を経験しています。

 

夏場ということで、また台風もやってきていますし、大雨や洪水の危険性もありますので、決して油断はできません。

 

早く資産をつくって、悠々自適に暮らしたいと思ってはいますが、たとえそうやって暮らしていても災害から逃れることは簡単ではありません。

 

今後、日本での災害発生の危険性が高まることはあっても、著しくゼロに近づくことはないと思われますので、資産を作ったからといって安泰に暮らせるということの保証にはならないかもしれませんね。

 

まあ、資産があるから安泰なんてことはどこの国に暮らしていてもないのだろうとは思いますし、資産を作ればいいという話ではないことは百も承知ではありますが、自分自身の意識として、生きていくにあたっていろいろなことを考えていかないといけないということを改めて認識する機会にまたなったかなという気がします。



 


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