セミリタイア後の生活のはりあい

 



早期退職後にボランティア活動を始めたが数カ月としないうちに絶望を感じてしまったという人の記事を読みました。

 

長年会社員として立派に働かれた後、自由な時間を使ってボランティアをされていたのですが、無報酬であるということによって自分に価値がないと感じてしまったということでした。

 

身もふたもないい方をすれば、自分の価値を経済的価値としてしか受け取れないという思考回路だと思いますし、そういう思考回路をかわいそうだ、社畜だというように思う人もいるかもしれません。

 

しかしながら、経済的価値というのは確かにわかりやすい価値判断軸でもあると思いますし、だからこそ昇給すれば自分の頑張りが認められた、自分の価値が上がったという風に思うのでしょう。

 

その逆もまた然りです。




社会人ならでは


 


長年会社員として働いてきたのであれば、自然とそのように経済的価値に重きを置く思考が形成されてしまうのも仕方のないことであると思いますし、そういう思考があるからこそ競争が生まれてより努力をするようになるという企業としてのメリットもあるのかもしれません。

 

年収1000万円の人と年収500万円の人を比べて、どちらの人に価値があるのか、という質問の答えは決して簡単に出せないと思います。

 

しかしながら、ごく自然に、年収1000万円の人の方が価値があるのではないか、なぜなら年収が1000万円と高いから、という論理でそう感じる人は多いのではないかと思います。

 

ところが、ここに、年収1000万円の働かないおじさんと、年収500万円のばりばりの若手ではどちらの人に価値があるのか、と問われると、後者と答える人が多いのではないかとも思います。

 

この場合は単なる年収の多少ではなくて、さらに貢献度というか、頑張り度というか、定性的な評価も混じった上でそうなるのだと思います。

 

では、年収1000万円の働かないおじさんと、勤労からの年収は0のボランティアのおじさんのどちらが価値があるのか、と問われると、世の中の人はどう答えるのか興味はあります。

 

ただし、この記事に出てくる人は、前者の方が価値があるというように思うわけです。

 

それは間違っていますよというつもりは私には全くありませんが、正直比べるのは何とも難しいなという感想です。

 

働かないおじさんであっても、年収1000万円ももらっているのであれば、それはそれなりの理由が、つまりは認められる経済的価値があるのかもしれないとも思いますし、年収が0であってもボランティアによって誰かのタメになっているのであればそれには社会的価値があるよなとも思います。

 

しかしこと自分のことに関しては、先にも書きましたように、年収を多くもらうほうが嬉しい、自分の価値が高まったというように思うのは間違いないと思います。

 

それはなんだかんだで、自分の評価の対価が報酬であるという思いがあるからだと思います。




なにも評価されない辛さ


 


また、この記事の中でもありましたが、誰からも評価されない、ということも確かにつらいだろうなと思います。

 

ボランティアをして褒められたいわけではないのだろうと思いますが、やはり本音を言えば褒められたい、感謝されたい、認めてほしい、という思いは私も持つだろうと思います。

 

もちろん中には、そんなことはない、働くことは何よりも嫌いで早く辞めたい、という人もいるでしょうし、そういう人はもしかしたら私とは違った感覚を持っているのかもしれません。

 

ただ、話を聞いているだけでも、定年退職後になぜか現役時代の肩書が書かれた名刺を持っていてそれを渡してくる人もいる、ということがあるようですし、それはやはり自分のことをすごい人だと思ってほしい、認めてほしいという思いがあってのことだと感じますし、さすがにそれはやりすぎだろう、何なら恥ずかしいだろう、というようには思いますが、まあそういう人もいるだろうなと分かるというのもあります。

 

そのような行動はまさに、自分を認めてほしいという行動だと思いますし、既に何かを成し遂げることが難しくなった立場としては過去に成し遂げたことを誇りたいという思いになるのかもしれないと感じます。

 

現役世代はまだ何かを成し遂げられるかもしれませんので笑っていられますが、そうでないと何かすがるものが欲しくなるのかもしれないなとは思います。

 

人生ってなかなか難しいですね。

 

 


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1 件のコメント:

  1. ボランティアをやっても感謝されるとは限らんのかもな

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