親ガチャとセミリタイア



親ガチャという言葉が最近ありますが、それを自分自身が親になった際に子ども目線で親ガチャ失敗になるから、という理由で子どもを持たない選択をする人がいるようです。 

まあ、子どもを持つ持たないというのは、親ガチャ云々に関係なく、選択肢の一つとして尊重されるべきものであるでしょうし、例えば自分があまりにも貧困なために子どもを持つ余裕がないといった場合に、子どもがかわいそうだからと子どもを持たない選択をするということ自体も別に責められるものではありません。

自分が虐待されて育ったから、自分も子どもにそうしてしまうのではないかという不安や、自分自身が親になる自信がない不安、といったものも背景にあるようです。



私の場合



私の場合も、自分の子どもにはきちんと教育を受ける機会を与えたり、食べ物に困っておなかをすかせるような経験を避けたりするために、最低限の経済的な余裕は持ちたいと思いますし、子どもが望むのであれば色々なことを経験させてあげたいと思いますので、貯金をしたり資産形成をしたりしています。 

セミリタイアをしたいという思いはあるものの、だからと言って子どもにはお金をかけない、という選択肢はありません。

それこそ、資産形成しないと、子どもに親ガチャ外れたと言われるかもしれません。

しかしながら、虐待とまではいかなくても、力の強い大人という立場を使って、子どもの思いに反してこちらの思いを押し付けるということはしてしまいます。 

公園でまだ遊びたい子どもを家に連れて帰るとか、電車に乗りたい子どもを乗らせないとか、そういうのはありますし、買ってほしいとねだるおもちゃを買わないなんてこともたくさんあります。



親になる準備ってなんだ?



親になる準備ができていると自分で思ったから子どもを持ったということもありませんし、その準備ができたから親になった人なんていないのではないかとすら思います。

要するに、もちろん選択肢として子どもを持たないというのもかまいませんけれども、あまり考えすぎるのもよくないよということです。

小学校や中学校に入学するのであれば、自分の意思とはほぼ関係なく、ある年齢になれば入学しましょうというルールが日本にはあります。

いや、自分はまだ中学校に入学する準備はできていない、と思ったとしても、そんなのは関係ないとばかりに入学させられ、そしてなんだかんだで楽しい中学生活を送れることだってあるわけです。

また、当然に社会が変わればそのルールが変わることだってあるわけで、同じような年齢で、弟や妹のために働いて日銭を稼いでいる人だっているわけです。

それもまた人生、と受け入れようと言いたいわけではありませんし、学校に入学するのと子どもを持つのでは責任は大きく変わるというのも間違いありませんので、単純な比較はできません。



子供が欲しいか、欲しくないか



であったとしても、子どもを持ちたいか、持ちたくないかという点で意思決定をまずしてみよう、と考えることもあってはいいのではないか、と思います。

自分が親になると子どもは親ガチャに外れてしまうと考える人は恐らく、真面目であったり、人のことを考えられたりする人なのではないでしょうか。

もちろんだからと言って、自分が理想とする親になれるかどうかは分かりませんが、自分が理想とする親だけが良い親である、とも限りませんし、私はそのように悩み考えられる人は良い親になるように努力をするのではないかと思います。

完ぺきな人間なんていませんから、そりゃ子育てをしていて自己嫌悪をしてしまうこともあるでしょうが、だからと言って悪い親であるとは限りませんし、むしろ良い親になれる素質があるのではないかとすら思います。

子どものことを考えない人であれば、自己嫌悪をすることすらないと思います。

子どもを持ちたいけれども、こうこうこういう理由で難しい、というのはもちろんあるでしょうし、結果として子どもを持たないという選択肢も当然に尊重されるべきですが、でもその理由を満たしている人はどれくらいいるのとか、満たしてはいないけれども良い親であると言える人はどれくらいいるの、というのを考えてみてもいいのではないでしょうか。

価値観の話になってしまうと、人がどうこうという話ではないのかもしれませんけれども、子どもは欲しいのに親ガチャの視点であきらめざるを得ない、というのはすこしさみしい話だなと思います。


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