多様性とは



 

最近、LGBTについて多様性を認めようという論調が盛り上がっております。

まあ、多様性を認めることは基本的にいいことだと思いますし、難しいのは多様性を認めた上で、社会生活上どこまでは認めるのかという点なのかなと思います。

多様性を認めることと、全ての区別を取っ払うことは必ずしも一致しないだろうと思うからです。

例えば、世の中では男性用トイレと女性用トイレはそもそも区別されていますが、それに対して反対の声を述べる人はほぼいないでしょう。

それはすなわち男性と女性という多様性を認めていないのではなく、多様性を認めたうえで、適切な区別をしているだけと捉えるのが正しいと思います。

ですので今後LGBT関連の議論が色々な場所で繰り広げられると思いますが、多様性を認めることと、適切な区別をすることは決して相反する考え方なのではないという前提をもって、じゃあどこまでの区別を認めるのかという議論をしないといけないのではないかと思います。

また社会生活上、色々なルールが設定されているのは、我々が集団で生きているために、個々人の好き勝手だけで行動されると集団として不利益を被ることがあるためだと思います。

だからこそ、もちろん個々人に自由はあるものの、それはあくまでも集団に害を及ぼさない範囲で認められているものなのだろうという気がします。

 個人か、集団かという議論はもちろんあるのでしょうが、大雑把に言えば、個人は尊重されるべきではあるが、それは他の個人も同じく尊重されることを大前提として、というような感じでしょうか。

また、ある個人が主張する自由が、他の人の自由を脅かすことになってはいけません。

それが納得できないというのであれば、独りで生活をしてください、というのが極端な解決方法なのかなという気がします。


完全な公平性はない


とはいえ、我々は決して完全に公平な立場や視点で物事を見て判断できるわけではありませんので、必ずや何かしらのバイアス、ひいき、などが我々に影響を与えます。

例えば、とある芸能事務所の創設者が所属アイドルに対して虐待に似たようなことを行なっていたというニュースは、大きく取り上げられているともいえる反面、結構オブラートに包まれてメディアは報道しているようにも思います。

当事者として、別に問題ではないと思っている人もいるかもしれませんし、事実がどこにあるのかも良く分からないと言えば良く分からないですが、あの構図ももしもある芸能事務所の男性の創設者が少女に同様の行為をしていた、ということになると、メディアは一気に悪のレッテルを張りに行くのではないか、と思ってしまいます。

それこそ、多くの女性から事務所へのバッシングの声が挙がっても不思議ではありません。

しかしながら、今のところそこまでの声にはなっていないなと思いますし、それは事務所の力とかそういうこと以外にも、男性と少年なのか、男性と少女なのか、という構図が人々の判断に影響を与えているというのがあるのではないかなと勘ぐってしまいます。

もしもそういう影響があるのであれば、それはちょっとおかしいのではないか、という気もしますが、常に公平ではありえないという前提に立てば、ある種、自然なのかもしれないという気もします。 

会社の人事評価も好き嫌いが反映されることはありますし、理想論を言えばあってはならないのでしょうが、それはもう人間がやっている以上は仕方のないことでもあると思います。

 人に好かれるのも能力のひとつと言ってしまうと元も子もないですが、現実として、そういう能力があるかないかが影響を及ぼすことはあります。

完全な平等なんてものは存在しないのでしょうね。


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道を切り拓いた大谷選手



 

 

大谷翔平選手が右ひじの靭帯を損傷してしまい、今期はもう投球をする機会はないくらいのケガのようです。

 

ちょうど来年が新規契約妥結のタイミングということで、その契約金額がガクっと下がってしまうのではないかとも言われています。

 

例えそうなったとしても、ものすごい金額の契約にはなるのでしょうけれども、そのものすごい金額の中でものすごい金額が減額されてしまう可能性があるということです。

 

才能を持ったスポーツ選手が怪我をするというのは、非常に残念なニュースです。

 

異次元のパフォーマンスを出していますので、もちろん体にかかる負荷も大きいものがあると思いますし、その負荷に体が耐えられなくなるのもまた仕方ないのかもしれませんが、それでも残念です。

 

すごく低レベルな話で申し訳ないですが、ジョギングをするにしてもすごいハイペースで走るとその分足にかかる負荷が大きく、健康のためにと思って走っているのに実は不健康になってしまうので、痛めないように適度な速さが望ましいという話もあります。



道を切り拓いた人


 


大谷選手がプロ野球の世界に飛び込んだ際、投手と打者の二刀流に挑戦するという話があった際に、識者の中にも反対をする人が多かった印象があります。

 

やっぱりどっちつかずになってしまうのではないか、プロ野球の世界は漫画のようには甘くない、そんな声が多かったように思います。

 

私もどちらかというとそう、いくら能力が高くてもそんなにうまくいかないのではないか、と思っていました。

 

そういう意味ではそもそもその可能性を信じて、二刀流をすることを許した当時の人たちは素晴らしい判断をしたわけですが、まあもしもうまくいっていなければ叩かれていたかもしれません。

 

そしてもちろん、大谷選手ご本人の努力が素晴らしいということは絶対に無視できません。


日本で結果を残して、米国でも結果を残しています。

 

ほぼ野球中心のストイックな生活を送っているという話もありますし、常人からすればちょっと耐えられないような生活をしているようですし、そこまではできないなあというのも多くの人が思うところでしょう。

 

大谷選手以降も、二刀流を目指そうとする選手が何人かいますが、現実的にはなかなかうまくいっていないのもあって、大谷選手のすごさが際立ちます。

 

しかし大谷選手は、今まで夢物語だと思われていたことをやれる可能性があるということを身をもって証明しているとも言えます。

 

もちろん、簡単なことではないでしょうし、誰でもできることでもないとは思いますので、実現させる可能性そのものは非常に小さいということは間違いないのですが。

 

そんな挑戦を始めて、さらにまだまだこの先があるとはいえ、成功させていると言ってもいいくらいの結果を残しているわけですから、単純にすごい人ですよね。

 

観ている人に夢を与えていると言えると思います。

  


早期回復を願います




ご本人が一番悔しいでしょうが、早く怪我を治して、また活躍をしてくれることを願います。

 

早くセミリタイアしたいなあ、なんて考えて日々を過ごしている自分がすごく小さく思えますね、いやはや。

 


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ヒグマと人間の暮らし

 


 

北海道で66頭もの牛を襲ったとされるヒグマ、通称OSO18が既にハンターによって駆除されていたらしいというニュースを見ました。

 

記事によると、皮膚病を患っていたり、痩せていたりと、駆除前には既に元気な状態ではなかったのではないか、ということのようです。

 

付近に住んでいる住民の方にとってはほっと一安心というところでしょうので、それは良いことだなと思います。

 

動物愛護の観点から色々という人もいるでしょうが、その主張も確かに理解できるところはあるものの、安心安全な暮らしを送りたいというのは当然のことだと思いますし、少し程度は人間が身勝手になったとしても、私自身が人間である以上は許してほしいレベルでの身勝手さかなと思います。

 

まあ当然、ヒグマ側の立場に立ったらそれはそれで言いたいことはたくさんあるのだろうとも思いますけれども。



なぜかかわいそうにもなる


 

ということを大前提にした上でですが、駆除される前に既に弱っていたのではないかという話を聞くと、駆除されたということに対してではなく、弱っていたということに対して、ヒグマがかわいそうだな、と思うのも正直なところです。

 

もちろんだからと言って、牛を襲ったことが正当化されるとか、駆除しなければよかったのにということではありません。

 

まあ、正当化も何も、ヒグマには牛を襲うことがダメだという認識はないでしょうから、畜産をやっておられる方の感情はさておいて第三者的に考えれば、野生なんだから仕方ない部分はあるよね、と思うのみです。

 

ただ、弱っていた、病気にかかっていた、ということは、ヒグマはヒグマなりに辛い思いもしていたのだろうなと思いますし、それはもしかしたらもう牛を襲うこともなかなかできなくなっていたくらいかもしれませんし、たとえ凶悪なヒグマだったとしても、そんな状態なら辛いだろうねと思うということです。

 

ヒグマだって動物ですから、人間と同じく、痛いのは痛いでしょうし、かゆいのはかゆいでしょうし、辛いのは辛いでしょう。

 

動物がペットとして飼われていれば、多くの場合は動物病院に連れて行ってもらってケアを受けさせてもらえることも多いのでしょう。

 

まあ、虐待されているというケースももちろん聞きますけれども。

 

野生動物の場合はそういうケアを受けられる機会はほぼないでしょうから、病気にかかるとそれが悪化するとか、生死にかかわるという可能性も大きくなるのかなと思います。



バランスの話

 


しかしながら、その野生のヒグマを治療してあげてほしいとも言えません。


野生動物に関して言えば、理想は人間と野生の動物とが互いにいいバランスで住み分けることができればいいのでしょうが、実際問題としてはむしろ人間側が彼らの生活環境に害を与えてしまうことの方が多いのでしょうね。


しかしながら、改めてになりますが、人間である以上、野生動物には申し訳ないですが、ある程度は人間の生活環境を優先することは致し方ない、と思っています。


優先順位は人間が高くなるのは基本は仕方なし、と考えます。

 

エゴだと言われればそうでしょうね。

 

 

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慶應高校おめでとう!ただ、

 


 

高校野球が慶應高校の優勝で終わりました。

 

試合はほぼ見ていませんが、決勝戦の名にたがわぬ熱戦だったようです。

 

そして、とある慶應高校の選手がイケメンだということで取り上げられているようです。

 

高校生の女性スポーツ選手に男性がかわいいですねとか、美人ですねとか言うと批判されることもあるのに、男性スポーツ選手に女性がイケメンですね、というと特にそういう批判がないのはなぜでしょうかね。

 

と言ってしまうとちょっと思想も入ってしまうので厄介な話題になりますが、まあ社会としてはそういう空気感はあります。

 

恐らく今後も、そのスポーツ選手の話題はなんだかんだで取り上げられると思いますし、慶應高校そのものが高校球児は髪型が坊主であるというステレオタイプを崩して優勝したというのもあるので、より一層でしょう。

 

まあ、気合を入れるために坊主にしました、というのは覚悟のしるしとして未だにウケもよかったりしますし、特に我々中年男性にはそういう思考回路が備わっているのかもしれません。

 

まあそんなこんなはおいておいて。



危惧していること


 

改めてですが、このスポーツ選手は今後メディアでも取り上げられるでしょうし、色々とプライバシーに関わることも根掘り葉掘り報道されるのではないかと思います。

 

そんなことよりももっとやることがあるのではないかと思いますが、そうなるでしょう。

 

そうなると、私が危惧しているのは、かつて同じく甲子園のヒーローであった人に対してメディアや世間がやったことがまた起きるのではないかということです。

 

その人自身は確実にヒーローでしたし、確かにややビッグマウスのところもあったとは思います。

 

しかしながら、私の印象としてはメディアがもてはやして勝手に上げて上げて、それがどんどん加熱したという印象です。

 

ただ結果として、その人がこれ以上大きな成果を上げられないと分かった瞬間に、今度はバッシングのような姿勢での報道に変わった印象があります。

 

勝手に期待値を上げておいて、いざとなったら叩き落すというような印象を持ちました。

 

確かに、そこに本人が乗っかってしまったということはあるかもしれませんが、言ってもまだ人生経験の少ない子どもなんですから、周りがもてはやしたら天狗にもなってしまうでしょうし、なんなら周りの期待に応えようと演じてしまっているうちにそうなってしまったのではないかとも思います。

 

もちろん本人の資質というのもあるかもしれませんが、それでもいざ叩かれ始めた際には、世間はあまりにも勝手だなあとかわいそうに思いました。

 

ある種、人ひとりの人生をメディアや世間が狂わせてしまったとすら思います。

 

そんなことがまた起きないといいなと思いますし、メディアや世間なんてそんなもんだぞと注意を促してくれる人が周りにいてほしいなと思います。



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偉い人対応



 

 


 

とある中古自動車販売会社の不祥事に関連して、本部の偉い人が視察にくる際の準備のために、店舗側が色々とよろしくないことをやっていたということが明らかになっています。

 

そこまでするのかという思いと共に、そこまでしないと思うくらいプレッシャーもあったんだろうなと思います。

 

そんな気持ちになったことがないので良く分かりませんが、そこら辺にある木を1本や2本枯らしたところでたいしたことないだろうという思いもあったのでしょう。

 

なにかあると一気に降格を命ぜられるという話も出てきていますし、もしかしたら罰金みたいなのもあったのかもしれません。

 

この会社の話は行き過ぎかもしれませんが、こういう偉い人の視察というのはそういうプレッシャーを伴うものもあるでしょうから、それに対して滞りなく準備をしたくなる気持ちは良く分かります。

 


対応案件




私も、そういう視察対応というのを最近しました。

 

オフィスの汚さとかでどうこう言われることはないだろうということでそこには常識程度の気しか使いませんでしたが、訪問される場所にいろいろと事前交渉したり、手はずを整えたりというのはやりました。

 

また、こんな質問が来るのではないか、あんな質問が来るのではないかと事前準備を部署の人に言われて、その模範解答をつくる仕事もやりました。

 

そもそも、私自身はなにかを取り繕うという気はなくて、自分が思うことを言えばいいのではないかと思うのですが、私の上長などはかなり気を遣ってシミュレーション問答をした方がいいとか、ああだこうだと色々と厳しく注文を付けてきました。

 

まあ確かに、役職が上の人にとっては、偉い人になにかネガティブな印象を与えると自身の将来にも響いてくる可能性がありますので、なるべく万全の準備を整えて出迎えたいという思いはあるのだろうと共感はしました。

 

正直、こちらとしては非常に面倒くさいですけれどもね。

 

まあその一方で、そういう気の遣い方というのは、私自身が気づかないような視点を改めて与えてくれますので、そういう意味では勉強になっているというのはあるのかもしれないと思います。

 

しかし、自分の得意分野であればいいのですが、そうではない分野にまでアンテナを張り巡らせて準備をするというのは、気配りができないとなかなかできません。

 

なんでそこまでしなければならないんだという思いも一方には持ちつつ、自分ではなく組織の幸せを考えればそこまでしないといけないのだろうな、とも思います。



まさか


 

どこの会社もある程度は似たようなことがあるのでしょうし、もしかして私自身も誰かにそんな風に気を遣わせているのかもしれません。

 

そうだとしたら申し訳ないというか、ありがたいというか。



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権利か義務か

 



子育てをしていると、力という点において、いかに大人が強い存在で、いかに子どもが弱い存在かということが良く分かります。

 

いわゆる物理的な体力ということだけではなく、経済力やらなんやらを含めた力が勝っていますので、どこかの中古車販売会社ではないですが、大人が子どもの生殺与奪権を握っている、と言っても本当に過言ではないと思います。

 

大人がその気になれば、子どもを虐待するなんてことは、何の苦労もいらないのです。

 

全くもって、恐ろしい話です。



力があるから守る


 

生殺与奪権を握っているということで、大人の思いのままだと思ってしまうと恐ろしい話なのですが、生殺与奪権を握っているからこそ、大人が守ってやらないといけないんだ、という思いを持つこともできますし、恐らく後者の思いを持っている人が大多数なのではないかという気はします。

 

ただあくまでも大多数ですので、例えば少年兵の問題なんかは大人の思いのままに子どもを使ってしまっているということですし、残念ながら大人全員がそうではないということでしょう。

 

私も子どもはかわいいと思いますが、別に何でも受け入れられるわけでもないですし、常に心穏やかにいられるかというとそういうわけではありません。

 

それでもふとした瞬間に、子どもらしいかわいらしさというか、言葉を選ばなければアホかわいい一面を感じて、ふと心が緩む瞬間があります。



世界の中心にいる

 


自分の子ども以外にも、甥っ子や姪っ子などの何人かの子どもを見てきて思うのですが、2歳くらいの彼ら・彼女らは、彼ら・彼女らが中心の世界で生きているので、感覚そのものが、彼ら・彼女らがどうかなのです。

 

例えばですが、かくれんぼをしているとして、彼ら・彼女らが隠れていて外の様子が見えなければ、当然に外からも彼らは完全に隠れられているのではないかと考えているように思えます。

 

例え、隠れているところから顔を出して、一度見られたとしたら、大人であればそこにいることがばれたというように考えますが、彼ら・彼女らはもう一度隠れさえすれば、引き続き完全にばれずに隠れられていると考えるのだろうなという印象を受けます。

 

だからこそ、大人が、あれ、また姿が消えちゃった、みたいなことを言いながら遊ぶことができるわけです。

 

そういう姿って全くもって合理的ではないのですが、それがまた子どもをかわいく感じる点でもあります。

 

ある種、究極的に純粋であるということも言えるのではないか、と思いますし、子どもに対してその認識は違うよ、というのも無粋かなと思います。

 

これがもう少し大きくなってくると生意気にもなりますし、手加減なしでたたかれるなんてこともあるでしょうから、イラっと来ることもたくさんあると思いますが、生殺与奪権を握っているのだとしたら、それはその権利があるということではなくて、だからこその義務があるのだというように考えるようにしたいなと思います。


 


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有名人との疑似恋愛





芸能人や有名人に彼氏や彼女がいてショックを受けるという人がいて、ネットでも話題になることがあります。

 

ファンだったのに裏切られたというようなコメントが出ることもあれば、もうファンをやめますと宣言してこれまで集めたグッズを売りに出すなんてこともあるようです。

 

特に、彼氏や彼女がいない路線で人気を博していた人ほど、いざそういうニュースが流れるとファンの反発というか、バッシングも生まれやすいのでしょうね。



そもそも


 

そもそも、芸能人や有名人と本気で恋人関係になれると思っているならばそれはそれで結構危ない思考回路だなとは思いますが、芸能人や有名人が、彼氏や彼女がいない路線で露骨に人気を取ろうとしていたら、それってけっこうどっちもどっちだよなあという気もします。

 

アイドルなんかは、ファンに夢を売る仕事なのであれば、なるべくそういう色恋沙汰が表に出ないようにするというのも良く分かりますし、それこそ誰のものでもない、ということがアイドルの売りでもあると思います。

 

その一方で、アイドルでもない人にそういう理想像を求めても仕方がないのにと思いますが、一度ファンになってしまった人からしたらそうもいかないのでしょう。

 

積極的な露出がある人ほど、人からの注目を集めたい人である可能性が高いですし、そうであればその周りには多くの人が集まるというのもごく自然なことで、かつ、ほっとかれるはずがないよなあと思うのですが。



気持ちはわかるけど

 


まあ、ニュースが出てショックを受けてしまうこと自体は理解できるのですけれどもね。

 

私も学生時代に、当時好きだった女性が男性と二人で仲良く、夕方にスーパーで夕食の買い物ぽいことをしていたのを見て大変ショックを受けたのを覚えています。

 

実際問題、果たしてあれが何だったのかは良く分かっていないのですが、当時の私からしたらショックでしかない、という思い出です。

 

まあ、当時の私は冷静に考えるとあまりにも幼く、ちょっと変な言動をしていたところもありますので、その女性に振り向いてもらえなくてもある種当然だったと今になれば思いますが。

 

でも、ショックのあまり、その日のうちに仲の良い先輩に連絡して飲みにいった覚えがあります。



ゆっくり休んで立ち上がれ

 


対象相手が有名人であれ、一般人であれ、そんなショックを受けれるほどに人を好きになれるということ自体はとても良いことで、今の私からしたらうらやましいことですらあります。

 

まあその反動が負の方向に出てしまうと、一部では過激なことを言ってしまう人も出てくるのだろうと思いますし、それ自体は全てがすべてをこらえる必要もないとは思いますが、外に出すのは適度なレベルでとどめておいた方がいいよとも思います。

 

第三者が何を言おうと、傷ついた気持ちをいやすのは簡単なことではありませんし、その傷をいやす特効薬を私が知っているわけでもありません。

 

やけ食い、やけ酒、浪費、運動、カラオケもろもろ、人様に迷惑をかけない範囲で何とかその傷をいやして、うっぷんを消化できないかを模索するのがいいのでしょうが、実際に心が傷ついていたらそんな冷静に考えること自体が難しいでしょうからね。

 

無理に我慢をする必要もないのでしょうけれども、だからと言って人様に対して攻撃的になっていいという話でもありません。

 

美味しいものを食べて、誰かと話をして笑って、泣いて、お風呂に入ってさっぱりして、やれそうなことは何でもやったらいいんです。

 

それでも心にぽっかり穴が開いた気持ちが続いてしまうことももちろんあるのだと思いますけれども、冷たい言い方ですが、それはもうどうしようもないことでしょうね。

 

言えるとしたら、それは時間が解決してくれるよ、ですが、それって結構あきらめた言い方でもありますよね。

 

いつ解決してくれるんだ、という話ですよ。

 


 

 

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サラリーマンの目標?



 

 

 

子どもの頃は、早く大人になりたいなと思っていました。

 

理由は、毎日学校に行かなくてもいいからです。

 

そんなことを親に話したら、大人になったら会社に毎日行かないといけないんだよとか、お休みもそんなにないんだよ、ということを言われた記憶があります。

 

実際に大人になって、会社員人生が始まると、親の言っていたことは確かに正しいな、と思います。

 

私に限った話で言ば、プレッシャーという意味では会社員の方が大きいのではないかと思いますし、なによりもゴールが良く分からないというのがあります。



働くゴールはなんだろう?


 

私の家系的に、大学までは行くべしというのがあり、自分も当然のように大学まで行くんだと思っていましたので、それが普通であるという感覚を基にすれば、人生の流れは大きくは以下のようなものです。

 

学生の頃は一応、小学校に行って、卒業したら中学校に行って、そしたら高校に行って、大学に行く。

 

受験というものがあって、そのハードルを乗り越えていくという目に見える目標がありましたし、その目標まであと何日、みたいなのも非常にわかりやすかったです。

 

中学以降は中間試験とか期末試験とかありました。

 

よく考えると、34か月の間にそんな大きめの試験を2回もやっていたんだなと結構ゾッとしますけれども。

 

もちろん会社員人生でも、決算期ごとに目標設定したり、振り返りをしたりとそういうのはあります。

 

成果を出すことで出世を狙っているとか、部署異動を狙っているとか、給料を増やしたいとかであればもちろん、その一つ一つが目標になるのでしょうが、ただのいち会社員としては作業でしかありません。

 

そもそも、会社員人生における、目標必達!うぉーなんてのは私の性格にはあまり合わないんです。

 

その目標を達成したらいったい何になるの、というのが良く分からないからです。

 

そういう意味では、学生の頃の、特に受験というのは、それを乗り越えれば将来、いい学校に行けるかもしれない、自分の学びたいことが学べるかもしれない、という期待があって、であれば乗り越えてみようかと思えていました。

 

今の私の会社員人生では、設定した・された目標を乗り越えることで、自分のやりたいことを具体的に実現できるわけではないです。

 

お給料が増えるとうれしいですし、それによって家族の生活が困窮しないとか、その分おいしいものを食べることにも使えるわけですから、そういう意味では目標を乗り越えることの意味はありますが、かといって、そのために設定目標を乗り越えようという感じでもないんですよね。

 

まあ、働いていることで、暇すぎる時間を過ごすことはない、という点ではメリットがあるとは思います。

 

大人になった今では子どもに戻りたいですね。

 

 


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小さな幸せを探したい



夏の甲子園高校野球大会も佳境になってまいりました。

 

ほぼ試合は観ていないですし、どこかを応援しているわけでもありませんが、風物詩としてはとても気になります。

 

観ていない理由は、ここ数年、高校野球を見てもそれほど面白いと思わなくなってしまったからというものがあります。



ストーリーだけでは


 


甲子園特番のような番組では、チームごとのストーリーや友情物語などを見せてくれていると思いますし、そういうのはある種のドラマとしては非常に面白いものであるとは思いますが、そもそものスポーツとしてのレベルを考えた際に、当然ながらプロ野球とはレベルが違う試合になります。

 

今では、プロ野球の試合も毎試合のようにテレビやWEBで見ることができるようになっていますので、そのレベルに慣れすぎてしまった結果、高校野球を見ると甲子園大会であったとしてもレベルの違いが気になって、純粋に楽しんで観ることができなくなってしまっているような気がします。

 

私の子どものころはあまり夕方以降のテレビを観させてもらえませんでしたので、プロ野球中継も観る機会は少なかったですし、むしろラジオ中継を聞いていましたので、視覚的にプロの競技レベルの高さをあまり知らないまま、高校野球はテレビで楽しんで観戦していました。

 

実際に初めてスタジアムでプロの試合を観たのはもう20歳を超えていたと思いますが、そのときにはプロのレベルの高さに恐れおののいたのを今でも記憶しています。

 

あの選手は守備が下手だ、肩が弱いという評価が世間でされている選手でも、実際のプレーを目の前にすると、そのレベルの高さが異次元であると感じられたのです。

 

そして、時が過ぎ、今では試合があればプロのプレーが簡単に観られるようになりまして、そういうのに目が慣れてしまった結果、高校野球ではどうしてもスポーツとしてはそこまで面白くないのではないか、という風に思ってしまうようになりました。




楽しみが減る

 



これは私にとって非常によろしくないことだと思います。

 

人生における楽しみが一つ少なくなってしまったのと同じだからです。

 

実際に、高校野球とはいえ、私がプレーするよりもはるかに高いレベルでの全力プレーが繰り広げられており、技術云々ではない根性で可能になっているプレーなんかもあって面白いはずなのに、それが楽しめなくなってしまっているのです。

 

高いレベルを観ることに慣れてしまったと言えばそれまでですが、これはつまりよく言われる、生活レベルを下げるのはなかなか簡単ではない、というのにもつながっているのかもしれません。

 

カウンターでお寿司を出してくれるところばかりに行ってしまうと、回転寿司やスーパーでのパック寿司の質では満足できないとか、そういうのと同じようなことが起きてしまっているのかもしれないなと思います。

 

まあ、別にいいお寿司屋さんに行っているわけではないですが、そもそもスーパーで買えるパック寿司がおいしいかどうかというのは判断が難しいところかもしれないなとは思いますけれども。

 

それでもおいしいと思えればその分幸せを感じる可能性が広がるわけですからね。

 

小さいことに幸せを感じられればられるほど、人生は豊かになるのではないかと思います。

 

 

 


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刺激を受けた出会い


なんだかんだありまして、久しぶりの更新です。

偶然に出会った初対面の社外の人と、ちょっと飲みますかと飲み屋さんに行きました。


私が生きてきた世界とはまた少し違った世界を生きてきている人で、私が保守的だとすれば、その人はやや挑戦的な人だと言えると思います。

その人がやっていること自体は私はやりたいとは思いませんでしたし、もっと言うなら興味はないのですが、自分のやりたいことを実現するためにいろいろな苦労を乗り越えるようとしながら生きてきているそうで、素直にすごいですねということを言いました。
 


隣の芝生は青い



そういう生き方をしている人がうらやましいなと思う気持ちはかなりありますし、そう言いました。
 
そうしたら、いや実は自分にはそういう生き方をするしか選択肢がないので、突き進むしかないんですというようなことを言われて、真面目にサラリーマンをしている私のようになろうとしてもなれないのです、と言われました。
 
別にやりたいこともそんなにないんですよねという話をしても、むしろ、人生の選択肢としては私の方がたくさん持っているのではないか、色々なことがやれる可能性があるからこそ、いろいろと悩むのではないかということを言われました。
 
その人は私よりも一回りくらい年齢が下の人でしたが、目上の人に対して忖度するということもなくずけずけと意見をくれました。
 
上長から同じことを言われていたらむかついたかもしれませんが、完全に社外の人で違う世界で生きている人に言われると、なんとなくアドバイスとして聞ける気がしました。
 
本当に私にやりたいことはないのか、もしあるのであればいきなり100 or 0ではなくて、そのやりたいことにもう少し労力を割いてみて、それでも自分がそれをやりたいのかどうか見極めてみてもいいのではないか、とか。
 
あるいは、最後にやるか、やらないかを決めるのは自分なんだから、他の人や上の人があれこれ言ってきても気にしなければいい、とか。
 
自分にできること、できないことはどうしてもあるのだから、できないことは無理やりにやる必要はないのでは、とか。
 
自分がバリューを出せているかどうかなんてことは気にしなくていいし、なんなら出しているバリュー以上にお給料もらえているならハッピーじゃないですか、とか。



正しいことを言われた気がする



 
年齢は若いとはいえ、言っていることには説得力があって、もしかしたら若いからこそ挑戦的になれる部分もあるのか、そのエネルギーにも感心しながら、おもしろいことを言うなあと思いながら聞いていました。
 
組織の中で生きることは苦手なようで、個人でビジネスを立ち上げることも考えているということでしたが、何よりもそこまでしたいと思えることがあるというのがうらやましいなあと思いました。
 
自分の存在意義を考えて悩むなんて、日本人特有の思考回路で、健康で幸せに思えるならもうそれでいいじゃないですか、というような感じで、それが日本人特有の考えなのかどうかは私には分かりませんが、とにかく悩みすぎるな、というメッセージかなと思いました。
 
その人自身は過去にメンタルをやられた経験もあったみたいで、別に能天気な人でもなく、自分勝手な人でもないと思いますが、なんとかなる、という気持ちが強いのかなと思いましたし、そういう思考回路はポジティブでいいなと素直に思いました。
 
たまに自分のコミュニティの外にいる人、さらに言えば自分とは少し異なる世界で生きている人と話をしてみるのは面白いなと思いました。
 
なんだかんだで自分の世界って狭くて、自分の思考も狭いのかなと思った夜になりました。


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子育てに関して

 

 

 




子育てをしていると、力という点において、いかに大人が強い存在で、いかに子どもが弱い存在かということが良く分かります。

 

いわゆる物理的な体力ということだけではなく、経済力やらなんやらを含めた力が勝っていますので、どこかの中古車販売会社ではないですが、大人が子どもの生殺与奪権を握っている、と言っても本当に過言ではないと思います。

 

大人がその気になれば、子どもを虐待するなんてことは、何の苦労もいらないのです。

 

全くもって、恐ろしい話です。


 

生殺与奪権



生殺与奪権を握っているということで、大人の思いのままだと思ってしまうと恐ろしい話なのですが、生殺与奪権を握っているからこそ、大人が守ってやらないといけないんだ、という思いを持つこともできますし、恐らく後者の思いを持っている人が大多数なのではないかという気はします。

 

ただあくまでも大多数ですので、例えば少年兵の問題なんかは大人の思いのままに子どもを使ってしまっているということですし、残念ながら大人全員がそうではないということでしょう。

 

私も子どもはかわいいと思いますが、別に何でも受け入れられるわけでもないですし、常に心穏やかにいられるかというとそういうわけではありません。

 

それでもふとした瞬間に、子どもらしいかわいらしさというか、言葉を選ばなければアホかわいい一面を感じて、ふと心が緩む瞬間があります。


子供のかわいさ


 

自分の子ども以外にも、甥っ子や姪っ子などの何人かの子どもを見てきて思うのですが、2歳くらいの彼ら・彼女らは、彼ら・彼女らが中心の世界で生きているので、感覚そのものが、彼ら・彼女らがどうかなのです。

 

例えばですが、かくれんぼをしているとして、彼ら・彼女らが隠れていて外の様子が見えなければ、当然に外からも彼らは完全に隠れられているのではないかと考えているように思えます。

 

例え、隠れているところから顔を出して、一度見られたとしたら、大人であればそこにいることがばれたというように考えますが、彼ら・彼女らはもう一度隠れさえすれば、引き続き完全にばれずに隠れられていると考えるのだろうなという印象を受けます。

 

だからこそ、大人が、あれ、また姿が消えちゃった、みたいなことを言いながら遊ぶことができるわけです。

 

そういう姿って全くもって合理的ではないのですが、それがまた子どもをかわいく感じる点でもあります。

 

ある種、究極的に純粋であるということも言えるのではないか、と思いますし、子どもに対してその認識は違うよ、というのも無粋かなと思います。

 

これがもう少し大きくなってくると生意気にもなりますし、手加減なしでたたかれるなんてこともあるでしょうから、イラっと来ることもたくさんあると思いますが、生殺与奪権を握っているのだとしたら、それはその権利があるということではなくて、だからこその義務があるのだというように考えるようにしたいなと思います。


 

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サラリーマン増税?

 


 

サラリーマン増税をするのかしないのか、メディアで取り上げられたり、怒りの声がSNSで流れたり、岸田首相がサラリーマン増税を否定したりと、いろいろと起きています。

 

サラリーマン増税というと、サラリーマン狙い撃ちという印象を強く持ちますので、現役サラリーマンとしてはなんで自分たちだけが、という思いも持ちやすいのだと思います。

 

そういう意味ではその言葉を創り出して注目を集めさせたメディアの影響というものも大きかったのでしょう。

 

実際に、通勤費補助や退職金など、サラリーマンが優遇されているのかどうか、また誰と比べて優遇されているのかどうかというのははっきりとはわかりません。

 

それこそよく言う、議員はどうなんだとか、自営業者はどうなんだ、ということを検証したとして、じゃあ公平な税負担になるようにしましょうね、というのもほぼ無理でしょうから。

 


増税は悪ではない



そもそもが、以前にもそんなブログを書いたような気がしますが、増税すること自体が悪なわけではないと思います。

 

もちろん、なるべく税負担を公平にしてほしいとは思いますが、それが難しいことも良く分かります。

 

実行するかどうかは別として、案として色々な考えを持っておくということ自体も決して悪くないと思います。

 

しかしながら一番の要因は、増税をすることで得た税収を活用して、なにかしら社会の課題が解決されて良くなるとか、そこで暮らしている人が希望を持てるようになるとか、そういうポジティブな事象が起きる、あるいはそれを起こすことを目指している、ということが分からないまま、ただ負担が増えることが嫌な人が多いのだと思います。

 

誰だって負担は軽い方がいいと思っているでしょうけれども、それによってこんなにいいことが待っているんです、ということが説明できるのであれば、負担と結果を天秤にかけて、それなら納得できるかもしれない、それでも納得ができないという議論も生まれますが、そうなっていないのは政府が説明不足だからというのに尽きると思います。

 

分かりやすくここでこんな効果が上がっているとか、こんな良いことが起きそうな気配があるとか、そういう目に見えやすい形で説明ができるといいのでしょうけれども、そういうのがどうやれば分かりやすく説明できるのか、私は実情を知らないので何とも言えません。

 


説明はして欲しい



まあどんな説明をしたとしても不満を言う人は必ず出ますし、我々自身が今享受している生活は当然のものとして受け止めがちで、身の回りのものに税金が活用されているのだということも忘れがちですから、政府だけを責めるのもお門違いなのかもしれませんけれども、例えそうだったとしてもそれで政府の説明責任がなくなるということにはなりません。

 

後は所得水神がなかなか上がってこない中で、支出だけが増えそうという印象を持ってしまうのも不満が出る要因でしょうね。

 

仮に所得水準なり手取りが100上がっていれば、増税で支出が10増えたとしてもまあ許容できるかなと考える人はそれなりにいると思います。

 

日本経済が長引くデフレの影響もあってなかなか所得水準が上がってこない中、政府は上げるという話をしているけれど実感としてはなかなか感じられず、それなのに増税するという話になると、結局支出しか増えないじゃないかということで不満を持つ人が出やすくなるのも自然なことです。

 

先ほど、増税分を活用してなにか社会にいい影響を与えますという説明はした方がいいということを述べましたが、たとえそうしたとしても、そもそもがそのいい影響というのは自分にとってのいいことなのかどうか、自分はただ負担が増えるだけで利益を享受するのは別の人なのではないか、そんな増税は嫌だ、という思考回路にもなりやすいので、そもそも負担感をあまり感じさせないというのが理想なのでしょう。

 

まあ、あくまでも理想であって、実際にはそんな簡単なことではないというのが私も良く分かります。

 

そんなことが簡単に実現可能なのであれば、すでに理論として確立されているでしょうし、あらゆる国がそれを導入していてもおかしくないですからね。

 

 

 

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