最近、LGBTについて多様性を認めようという論調が盛り上がっております。
まあ、多様性を認めることは基本的にいいことだと思いますし、難しいのは多様性を認めた上で、社会生活上どこまでは認めるのかという点なのかなと思います。
多様性を認めることと、全ての区別を取っ払うことは必ずしも一致しないだろうと思うからです。
例えば、世の中では男性用トイレと女性用トイレはそもそも区別されていますが、それに対して反対の声を述べる人はほぼいないでしょう。
それはすなわち男性と女性という多様性を認めていないのではなく、多様性を認めたうえで、適切な区別をしているだけと捉えるのが正しいと思います。
ですので今後LGBT関連の議論が色々な場所で繰り広げられると思いますが、多様性を認めることと、適切な区別をすることは決して相反する考え方なのではないという前提をもって、じゃあどこまでの区別を認めるのかという議論をしないといけないのではないかと思います。
また社会生活上、色々なルールが設定されているのは、我々が集団で生きているために、個々人の好き勝手だけで行動されると集団として不利益を被ることがあるためだと思います。
だからこそ、もちろん個々人に自由はあるものの、それはあくまでも集団に害を及ぼさない範囲で認められているものなのだろうという気がします。
個人か、集団かという議論はもちろんあるのでしょうが、大雑把に言えば、個人は尊重されるべきではあるが、それは他の個人も同じく尊重されることを大前提として、というような感じでしょうか。
また、ある個人が主張する自由が、他の人の自由を脅かすことになってはいけません。
それが納得できないというのであれば、独りで生活をしてください、というのが極端な解決方法なのかなという気がします。
完全な公平性はない
とはいえ、我々は決して完全に公平な立場や視点で物事を見て判断できるわけではありませんので、必ずや何かしらのバイアス、ひいき、などが我々に影響を与えます。
例えば、とある芸能事務所の創設者が所属アイドルに対して虐待に似たようなことを行なっていたというニュースは、大きく取り上げられているともいえる反面、結構オブラートに包まれてメディアは報道しているようにも思います。
当事者として、別に問題ではないと思っている人もいるかもしれませんし、事実がどこにあるのかも良く分からないと言えば良く分からないですが、あの構図ももしもある芸能事務所の男性の創設者が少女に同様の行為をしていた、ということになると、メディアは一気に悪のレッテルを張りに行くのではないか、と思ってしまいます。
それこそ、多くの女性から事務所へのバッシングの声が挙がっても不思議ではありません。
しかしながら、今のところそこまでの声にはなっていないなと思いますし、それは事務所の力とかそういうこと以外にも、男性と少年なのか、男性と少女なのか、という構図が人々の判断に影響を与えているというのがあるのではないかなと勘ぐってしまいます。
もしもそういう影響があるのであれば、それはちょっとおかしいのではないか、という気もしますが、常に公平ではありえないという前提に立てば、ある種、自然なのかもしれないという気もします。
会社の人事評価も好き嫌いが反映されることはありますし、理想論を言えばあってはならないのでしょうが、それはもう人間がやっている以上は仕方のないことでもあると思います。
人に好かれるのも能力のひとつと言ってしまうと元も子もないですが、現実として、そういう能力があるかないかが影響を及ぼすことはあります。
完全な平等なんてものは存在しないのでしょうね。