存在価値を求める気持ち




存在価値の話を昨日書きましたが、色々と考えているうちに、そうかそういうことかと思い至ったことがありました。

 

皆さんの会社で、周りに過去の栄光をいつも自慢している人や、飲みに言って会話をすると過去の苦労話やら、あの仕事は自分がやったんだという話をする年配の方いないでしょうか?


 


バカにしませんか?




多くの人はそれを聞いて、あまり良い気持ちはしないでしょうし、中にはまたあんな話をしていると半ば馬鹿にしている人もいるのではないでしょうか?

 

私も、そんな過去の話をする年配の人を少し馬鹿にした気持ちで話を聞いていることがありましたし、今でもその傾向はあると思います。

 

過去に一緒に苦労した仲間同士で、あの頃はどうだったこうだったという話をするのであれば良く分かるのですが、そうではない若手など、つまり自分の過去を知らない人に対して自分の過去の話をするのは傍から見ていもかっこいいものではないですよね。


 


わかるんですよ




その一方で、自分が何年も会社で仕事をしてくると、なんとなくその年配の人の気持ちが分かることもあります。

 

例えば、私のケースでは、自分が若手の頃に当時の上司と苦労して取り組んで作り上げた仕組みがある部署にありまして、当時その仕組みを作った際にもかなり成果を上げることができ、また10年以上たった今でもその仕組みは続いています。

 

もちろんその間にいろいろと改良はあったのでしょうが、始めたのは自分だという自負があるわけです。

 

そんな中で、ふとした瞬間に、誰かから、今、誰々さんが回しているあの仕組みはすごいんですよ、というような話を聞くと、いやいやちょっと待ってよ、と思ってしまいます。

 

何なら、その仕組みを回しているからその誰々さんがすごいという話にもなりますから、さらにちょっと待てよ、と思います。

 

いや、あの仕組みを作ったのは自分なんだよ、と言いたくなるのです。

 

さらに言えば、そんな仕組みを作った自分はすごいよね、と認めてほしいのだと思います。

 

そしてそんな瞬間にふと思うのです。

 

ああ、あの年配の人たちもこんな思いを持っていたのかな、と。

 

そういう年配の人とちょっと違うかもなと思うのは、私は何もないところに自分から、あの仕事は実は自分がやったんだよとは主張しないということと、そういう話を聞いたときに、いやあれは実は自分がやったんだ、と強く主張することはない、ということです。

 

ただ、主張したくなりますから、主張したいという気持ちは良く分かります。

 

そうなると、例に挙げたような年配の方も、実は自分のことを認めてほしい、自分のやってきたことを認めてほしい、という思いがあるからこそ、そういう過去の話をしてしまうのではないかと思ってしまいます。

 



過去にすがっている?




若手の人からしたら、過去の栄光にすがってかっこ悪いと思うでしょうし、それは無理もありません。

 

ただそれは必ずしも、過去はすごかったけど今はそうではないから、過去にすがっているということではなくて、過去は過去として認めてほしいという思いもあるのではないかとも思うのです。

 

私の周りでは、今現在でもすごいなという活躍をしている方でも、飲み会のたびに同じ過去の話、苦労話から自慢話まで、何度もされるという人もいます。

 

経験を積み重ねている分、じぶんが頑張ってきた証の話も積み重なっており、その分それを誰かに認めてほしいという思いも強くなるのかもしれないなと思います。

 

若いころはそもそもそんな話がないので、現在の自分がどうであるか、の方がより大切になるのではないかと思いますが、経験を積んできた分、その経験全てが大事になっている、というような感じでしょうか。

 

今まで馬鹿にしてきたことも、意外に馬鹿にできないかもしれないというか、自分もそうかもしれないという可能性にふと気づいた瞬間です。

 

 

 

 


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