セミリタイア志向者にとってのいいニュース?

 



 

 

近年は勤務時間外の仕事に関するメールを無視する「つながらない権利」の法制化が各国で進んでいるみたいなのですが、オーストラリアでもこの度上院で法案が可決されたというニュースを読みました。

 

最近は、在宅環境で業務につながれるシステムの整備やら会社スマホの導入やらで、ひっきりなしに業務関連のメールが来ますし、なんなら会社のチームの間でのライングループの作成などでの業務関連メッセージも来ることがあります。

 

つい先日も、そういうチャットでの業務指示はやめてほしいという話を書きましたが、残念ながらきますし、それが便利だと思っている人は年齢に関わらずにいます。

 

しかしそれは常に仕事に追われるという環境を創り出していることに他なりません。

 

週末、休日関係なくメールを送ってくる上司もいますし、さらには早い返信を求めてくる人、返信しないと怒る人すらいます。

 

別に休日に仕事がしたい人はすればいいと思うのですが、それを他人にまで求めるのは違うと思っているし、休日に仕事をしないからダメだというように評価をするのは間違っている、というのが私の考えです。




知らない過去を懐古する


 



私が社会人になりたての頃に、当時の先輩社員から聞いた話では、まだ1人に1台パソコンもなく、当然にスマホや携帯電話をほとんど誰も持っていなかった時代は、営業担当社員は社外に出ますが、誰がどこにいるのかも分からなかった時代でした。

 

一応、前日や当日朝に、どこの得意先を回るなんてことはホワイトボードに書いたり、上市に報告したりしてはいたみたいですが、実際には得意先にはいかずにちょっとサボるというようなこともあったようです。

 

まあ、サボりの話は当時に限った話ではなくて、今でもある話だとは思いますが。

 

しかし今と違うのは、直接に社員に連絡が取れないということであって、仕方なく上司や会社は得意先の固定電話に電話をかけるなんてことがあったみたいです。

 

そうすると、優しい得意先さんなんかは、本当は営業に来ていないのに、さっきまでいましたよというような話をしてくれて、その後で営業担当者の人にこういう電話があったよと教えてくれる、なんてこともあったみたいです。

 

サボることは良くないことなのかもしれませんが、人情というか、非常に温かみのある話だなと思いながら聞いていました。

 

まあ、今でも田舎の方に行けば、ちょっとゆったり時間が流れているというのは本当ですし、ちょっと人情で何とかという文化も残っているとは聞きますから、スマホからは逃げられませんが、気持ち的に余裕はあるのかもしれません。




部下であり上司でもある人


 


サラリーマンと言っても、上司の立場の人もいれば部下の立場の人もいます。

 

中間管理職になるとその違った立場に同時に立たされます。

 

で、私も色々な立場の人に話を聞いてみることがありますが、もちろん休みの日に業務メールを送ってくる、あるいは業務対応を求めてくるのはやめてほしいと主張する人もいますし、管理職になれば休日も業務対応するのが当然だと主張する人もいます。

 

私が面白いなと思ったのは、自分には休日の業務対応を強制しないでほしい、その代わり、自分の部下は自分のために休日であっても働いてほしいという主張をする人もいたことです。

 

まあはっきりと言いまして自分勝手な態度ではありますが、かなり自分に正直でもあり、その主張の仕方も含めた潔さに私はむしろ心地よさを覚えたくらいでした。

 

もちろん、上司や部下といったくくりに関わらず、みんなが健康に気を付けながら、プライベートとワークのバランスをしっかりとって働くというのが理想だとは思います。

 

その一方で、自分は嫌だけれども自分の部下は自分のためにとにかく必死に働いてくれれば、上司であれば決して悪い話ばかりでもないというのも事実ではないかと感じました。

 

上司としては、優秀な部下が馬車馬のように働いてくれれば自分の結果として評価を受けるでしょうし、優秀な部下に自分のポジションを奪われるリスクは出てはきますが、少なくとも彼らを部下にしている間は安心して自分の仕事を進められるでしょう。

 

漫画にあるような、能力が低い、問題児ばかりを集めてチームを組んだら化学反応が起きて絶大な業務成果を出したなんてことも、もしかしたらあるのはあるのかもしれませんが、恐らくそんなのは稀で、優秀なメンバーが馬車馬のように働いてくれた方が安定的に高い評価を出せるのは間違いないと思います。

 

実際問題としては、部下が馬車馬のように働いてくれる上司にならないといけませんから、恐怖による支配なのか、優れたリーダーシップなのかは分かりませんが、上司の方も部下をそうさせる何かしらのパワーが必要にはなりますので、決してそんなに簡単なことでもないとは思いますが、もしもそういう状況をつくれるのであれば上司としては楽でしょうし楽しいかもしれません。

 

というようなことも踏まえて考えると、「つながらない権利」が法制化されると、一部の上司の人にとっては困ったことになるのは確かですし、もしかするとそれが回りまわって、企業にとっても困ったことになるかもしれないというのはあります。

 

現代の事を考えると、それで企業が困ったことになるということが問題なのであるということになるとは思いますけれども。

 

法制化ということは、それに違反した際には不法行為として何かしらの罰則規定を設けるのかどうか、というのも企業にとってはなかなか大変な死活問題になってくるかもしれませんね。

 

 

 

 

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習い事とはなにか



 

少年野球は習い事ではないという主旨のネット記事を読みました。

 

何を言っているんだ、少年野球は習い事だろう、という気もぱっと聞くと思いますが、主張としては、習い事ではなくてコミュニティ活動なのではないか、ということでした。




記事の筆者の考え


 



この筆者の定義づけとしては、習い事というのはスキルを磨くことやお客様に対価を与えることに主眼が置かれるのに対して、コミュニティというのは営利目的ではない互助的な関係性の元で活動が行なわれているという違いがあり、すごく極端に言うと、習い事は野球塾のような感じで、強いチームであることや、そのチームから強豪校に進んで野球をやっていることが大切にされる一方で、コミュニティではみんなで集まってちょっと遊ぼうか、というような感じという違いでしょうか。

 

お金を払って、時間が決まっていて、ユニフォームをしっかりときて、監督やコーチがいて、グランドが予約されていて、ビシバシと指導されるのが習い事である一方で、道具やらを持ち寄って、時間のある人が集まって、好きな服で、野球好きのおじさんが勝手に教えていて、そこら辺の空き地でわいわいやっているのがコミュニティとも言えるかもしれません。

 

私も子どもの頃に習い事をしていましたし、野球に限らずスポーツ、楽器、公文や英語などの勉強、周りの友人も色々な習い事をしていました。

 

習い事である以上、(親が)お金を払っていましたが、少なくとも私の場合、必ずしもスキルアップのみに主眼を置いて習い事をしていたわけではありません。

 

もちろん、スキルアップにはつながってはいましたが、別にそれを武器に生きていこうとか、ずっと続けようということではなくて、時間もあったし、友達も習っていたからそうした、というような意味合いが強い場合もあったような気がします。


子どもはあまり気にしないのかもしれませんが、周りの親の方が加熱している場合は、こういう習い事の場合はある気がします。

 




筆者の意図





というところで、なぜ筆者の人がこのような主張をしているのかを考えるに、恐らくですが、昨今の少年野球で、多くのチームが野球塾のような感じになっていることに警鐘を鳴らしているというか、さらに言うとそうなっていることで野球人気が下がってしまっていることに警鐘を鳴らしているのではないかと思われます。

 

もっと言うならば、野球って本来楽しいものなのだから、楽しくやろうよ、ということでしょうか。

 

私も話でしか聞きませんし、そういう話だから私でも聞くのかもしれませんが、小学生の頃から野球チームで勝利第一の指導がされる、ミスをすれば監督やコーチからどやされる、チーム内の親の力関係でスタメンやベンチが決められる、親がボランティア的にチームのサポートをしなければならない、など、空き地で子どもだけで時に喧嘩もしながら野球をしていた私の周りにあった環境とはがらりと変わった環境が、今の少年野球にはあるということは耳にします。

 

私の子どもの頃は、近所のおじさんが、ちょっとおじさんが教えてあげよう、なんて声をかけてくることもありましたが、今ではそういうことをやると変質者扱いされるかもしれませんね。

 

今では、やっている子どもよりも親の方が子どもの習い事に熱中しているなんて話も聞きますし、親の立場からすればかわいい子どもを応援したくなるのは仕方のないことなのかもしれませんけれども、不思議だなと思うこともあります。

 

親の側が、なぜうちの子どもは試合に出れないんだ、と文句を言う気持ちは分からなくはありません。

 

最近話題にされるモンスターペアレントの方もいるでしょうし、勝利至上主義のためにうまい子しか試合に使ってもらえないというのもあるかもしれませんが、やはりやっている本人としても試合には出たいものだと思います。




共感するところがある


 



私は野球が好きなので、子どもとキャッチボールしたいなと思いますし、子どもが野球を好きになってくれたらいいなと思いますが、そんな子どもを少年野球チームに入れるとなった場合に、ミスしたら怒声が飛んでくるようなチームには入れたくないなと正直に思います。

 

そもそもが、もちろんルールは守らないといけませんが、野球の理論だって年を経るごとに何が正しいのかというのは変わってきているわけですし、その指導者が教える型でやらないと間違いだ、というのもおかしいと思いますし、ミスなんて誰でもするものであって、子どもが野球のプレーでミスをするぐらい別にいいじゃないかと思います。

 

むしろ、子どもが野球を好きになってくれることすら少しの可能性しかないことでうれしいのに、変な指導者に出会うことで、好きだったはずの野球が面白くないものに変わってしまうということの方が私は不安です。

 

子どもであろうが大人であろうが、怒られることを避けよう、とすれば萎縮してしまって楽しくないですし、いいプレーをすることよりも変なプレーをしないことに意識が向かいます。

 

もちろん堅実なプレーをするということ自体は非常にいいことだと思うのですが、子どもの時からそればっかりになってしまうのには違和感があります。

 

お子さんがいる方なら分かると思うのですが、最初に子どもが立ち上がってあるこうとしているときに、歩き方の型なんて教えないですし、もっと踏ん張ってとか言わないでしょうし、多少間違っていようが歩いていることをほめるはずです。

 

前を見て歩きなさい、周りをよく見て歩きなさい、と怒ることはありますが、それは子どもの安全のためにそう言っているだけであって、こけたからといって怒るということもないでしょう。

 

筆者も、野球塾のようなスタイルが必ずしも悪いわけではないという立場に立っており、私も同じ立場ではありますが、それでも筆者が言わんとしていることには共感できます。

 

まあそもそもの環境として、公園でのボール遊び禁止とか、大人が環境を制限してしまっているからこそ、いわゆるコミュニティでの遊びができるスペースが限られてしまう結果、習い事の場しか社会が提供できなくなってきているのではないか、特に都心ではその傾向が顕著なのではないか、と思いますけれども。

 

 

 

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本質が議論されない現状


 


 

 

 

 

少子化対策のための財源確保のために、医療保険料の値上げを検討しているということを政府が発表しました。

 

まあただでさえ、裏金問題として社会的な注目が政治家の行動に向けられている中での発表ですから、国民の負担をいたずらに増やすような施策を発表するタイミングとして、ちょっとセンスがないなとは思います。

 

聞いている方からしたら、そうじゃないだろと思うのは至極当然です。

 

だって、与党の多くの政治家が税金逃れをして、負担を逃れていたというのは間違いないのですから。




センスがない




また、それによって国民の負担が増えるのではないかという質問に対しての答えでは、国民1人当たり月あたり500円の負担となる試算で、賃上げを目指しているので国民の負担は増えない、という回答で、これまたちょっとセンスのない回答だなという気がします。

 

その負担増がなくて賃上げが達成されれば国民の収入はもっと増えるだろう、というのが一つと、達成される賃上げの規模が分からないので、万が一500円の賃上げ達成と500円の負担増でトントンということであれば国民の生活は楽にならないじゃないかというのが一つと、そもそも本当に賃上げは達成されるのだろうかという懐疑的な見方があるというのが一つでしょう。

 

説明としてそうなるのは仕方がないかもしれませんが、国民1人当たりという言葉も結構あいまいで、実際には負担する人としない人もいるでしょうし、年収が1000万円の人も300万円の人もいる中で、そういわれるとあまり負担は増えないような気もするけれども、その負担の強度の感じ方は人それぞれでしょう。


 



本質ではない議論で見失われるもの




とそんなこんなで、もちろん少子化対策をすること自体は大切だと思っていますし、何ならもっと真剣に取り組むべき課題で、取り組む時期もスピードも本気度も不十分だというのが私の感想ですが、そんな重要な案件について国民が考える機会を与えるのではなく、政治家自身の行動によって国民の反発を生んでしまうというのは本当にもったいないと思います。

 

以前にも書きましたが、私はその政治家が本当に国のためを思って政策を考え実行しているのであれば、多少の懐を肥やしていても別にそこまで腹は立たないと思います。

 

国のためにと働いている政治家が私腹を肥やすだろうか、というポイントは横に置いておいて、何がなんでも清廉潔白でいろ、とは思わないし、欲のある人間である以上は、まあいろいろとあるかもね、と理解はできるということです。

 

ただし、国民のためになる政治活動をしてほしいわけですが。

 

他の方がどう思っているのかは分かりませんが、繰り返しになりますが、少子化対策をすること自体は私は日本という国のために必要だと思っていますので、今すぐにでも政府には強化してほしい政策です。

 

少子化対策を考えようとすると、単純に子どもを生むことに対して何らかのアメを与えるということだけではなくて、子どもを生みたくなる社会づくりであったり、そもそも未来が希望にあふれたものであるということを多くの日本人がイメージとして持ったりなど、日本という国をどうやって良くしようか、ということを考えて政策として実行していく必要があると思います。

 

当然それには財源も必要でしょうから場合によっては増税も選択肢の一つでしょうし、中にはより負担を感じる人も増えるかもしれませんが、それは避けられない痛みでもあると思います。

 

今は痛みがあったとしても、人口が減る、少子高齢化するというのは緩やかに国が衰退に向かっていくということですので、それは避けたいという思いがあり、だからこそ、本来、政府としてやるべきこととしてしっかりと取り組んでほしいのに、そこに至るまでのプロセスがあまりにもゴタゴタしすぎていて、なんだか少子化対策をすること自体が間違いなのではないかという印象を国民に与えてはいないか、それは日本という国として大変な損失なのではないか、と思うわけです。

 

もっと真剣に政府が、国が取り組んでほしい、と思います。

 

確かに、一方で多くの国民の人に、少子化対策は重要であると思ってほしいと考えていますし、例えば本来であれば裏金問題と少子化対策の話は分けて考えて、それぞれに対してどうか、ということを議論しなければならないと思います。

 

しかしながら今の状況において、それらを結びつけての議論になってしまうのもまた当たり前というか、それを結び付けて考えないなんて間違っている、とは言えません。

 

あまりにも国民から信頼されない行動を政府、与党がとってしまっているのですから、そんな政府や与党が出してくるアイデアは全部おかしなものである、という印象を与えてしまうのはどうしても避けられません。

 

そういう意味で、あまりにも政府や与党はセンスがなさすぎではないか、と思いますし、国のかじ取りを任されている自負があるのかと問いかけたくなります。

 

正しいことをやろうとしているのに信頼されていないってなかなかのものだと思いますが、そんな状況をつくったのは誰だと問いかけられると、悲しいかな政府、与党なのですよね。

 

残念ですね。


少子高齢化とか知らないよ、と思っている方ならば尚更反発するでしょうね。

 

 

 


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ペットの扱い方




飼い主から逃げた犬が人を噛んで怪我をさせたなんてニュースを見ましたが、年始の羽田空港での航空機事故の後に、旅行の移動の際にペットを人間同様に扱うことについての賛否の声が出ました。

 

特に欧米では、ペットを家族の一員として扱う傾向が強く、日本でもよりそのような方向に向かうべきではないかという声が賛成の声だと理解しています。

 

今回のような事故を想定した場合に、ペットを貨物室で運搬するというのはかわいそうではないかということも影響していると思います。

 

貨物室がどのような環境か知りませんが、貨物室に乗るペットはかわいそうな気がするなというのも感じますが。





欧米もいろいろ

 




とはいえ、欧米であっても、航空機内にペットを持ち込んでいる人というのをあまり見た記憶はありませんので、実際問題は客室にペットを持ち込むということは欧米でもされていないのではないかと思っております。

 

バスや電車であればそうしている人を見たことがありますが、まず大前提としてしっかりと躾がされているということがあると思いますし、あまりにも大型の犬を公共交通機関に乗せることについて、支持をする声ばかりかというとそんなこともないという印象です。

 

やはりいくら訓練されていたとしても、いい言葉づかいではありませんが犬は犬ですし、いつ何時、暴れだすかもわからない中で、公共交通機関には体の弱い人や子どもなんかも乗っていて、場合によってはかなり危険というのがあると思います。

 

実際に乗ってきた飼い主と犬を排除しようとまではならないものの、あいつは常識がないな、というようなことを周りの知らない人から私が小声で言われるという経験をしたことがありますし、何事もバランスと言えばバランスなのだと思います。

 

カフェなんかで、ペットフレンドリーなカフェやレストランが日本と比べて多いか少ないか、で言えば、圧倒的に欧米は多いと言えると思っておりますが、であるから全ての面でペットが人間同様レベルの扱いを受けているかと言われれば、そうではないと思っています。

 

旅行に行く際などに利用できる、ペット用のホテルなどの環境が欧米の方が整っているのかなと思うことはありますが、それはあくまでも想定でして実態は良く分かりません。




ペットは家族か

 



そんな私は、大人になってからペットを飼った経験がありませんが、ペットを家族の一員として扱ってほしいという思い自体は理解できます。

 

特に、長い間一緒に時間を共にして可愛がったペットというのは、それだけ愛着もあるでしょうし、他人から見ればただの動物ではありますが、自分から見れば相棒、友人、家族、そういう言葉で表すことのできる対象となっていても何ら不思議ではありません。

 

最近でも能登の震災で、買っていたペットがいなくなり、いつか戻ってくるかもと元々住んでいた場所に居続けた方が、事故でお亡くなりになった、その後ペットは別のところで見つかった、といったニュースを目にしましたが、結果としては不幸以外何物でもないのですが、ペットは帰ってくると信じて待ち続けた飼い主の方を思うと、より悲しく感じられました。

 

もしもの場合に、けがをして、あるいはおなかをすかせて帰ってくるかもしれないペットのことを考えると、その場所に居続けなければならないという風に思ったでしょうし、またペットが帰ってきてくれることを強く願っていたからこそそのような行動に出たのだと想像します。

 

そう考えると、ただただ悲しいニュースです。

 

実際問題として、動物の場合はアレルギーを持っている人の問題もありますから、例え家族の一員として扱いましょう、例えば公共交通機関に乗ることも不通と捉えましょう、ということになったとしても、実際には結構社会的に問題になることはあるだろうと思います。

 

ケースとしてはそんなに多くはないのかもしれませんが、アレルギーの話は下手をしたら命にかかわる問題になりかねませんし、何をどこまで配慮するのかというのはなかなか解決しない問題ではないかと感じます。

 

欧米のバスや電車であるような、ペットを持ち込むことの安全性の問題も議論は必要かもしれませんし、躾がちゃんとされているかどうか、というのもそもそもの問題になりえるでしょう。

 

色々な主張があることはいいことですし、議論がされること自体は何ら悪いことではないと思いますので、もしも今後この話題が熱を帯びるようになったとしても、関わる皆が寛容な態度で意見を交換するということは社会として必要だと思います。

 

なんだかんだで、まずは人間優先という形になるのはある程度仕方がないとは思いますが、どのようなメリットを誰が享受するのか、どのようなリスクを誰が負うのか、という視点でオープンに議論をすればいいのかなと感じます。



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コスパで考える風潮





 

 

 

以前から使われることはあったと思うのですが、最近コスパという言葉が若い世代を中心により使用されるようになっているようです。

 

そもそもの私の考えとして、もちろんコスパを意識して生きていくことは大切なことだとは思うのですが、コスパがいいからする、コスパが悪いからしないという考えで判断をする前提には、コストとパフォーマンスが正確に判断できるということがあると思います。

 




定義づけの問題




まずはそこで言う、コストとパフォーマンスとは何だという問題です。

 

例えばですが、あるファーストフードの朝食はコスパがいい、というコメントがあったとしてですが、そこでいうコストとパフォーマンスというのはいったい何を指しているのか、ということを本来であればちゃんと考えなければいけないのではないかと思っています。

 

300円でおなかいっぱい食べられる、という意味であれば、例えば価格がどうかとか、白米の量がどうかとか、食材の種類はどうか、といったことがコストとパフォーマンスになるのだと思いますし、多くの場合は支払う金額と満腹度でコスパが語られることが多いと思いますし、その視点でのみで語るのであればそれはそれで構いません。

 

ではそこに、栄養バランスや長期的な味覚への影響、といった視点がコストやパフォーマンスとして考慮されているかというと意外とされていないこともあるのではないかと思います。

 

私も学生時代には、なるべく安く、カロリーが多いものを選ぶ傾向がありましたので、そういう意味でコスパがいい食品というのは、健康という視点で考えると、必ずしもコスパがいいとは言えないと思います。




コスパの変動



 

次に、あるモノやサービス、活動などのコスパが、同じものであれば常に同じかと言われるとそうではなくて、特にパフォーマンスは変わりうるということです。

 

友達と遊びに行く、という活動を例にしてみると、同じ相手と同じ場所に行ったとしても、ある時はすごく楽しいこともあれば、ある時は全く楽しくない時もあるでしょう。

 

もちろん、経験則として、この相手と遊んでも絶対楽しくない、この場所に行っても絶対楽しくない、ということが把握できることはありますし、意外とそういう勘のようなものは当たります。

 

しかしながら、多くの場合は、実際に遊びに行ってみないことにはその経験のパフォーマンスがどうなるかというのは分かりません。

 

その遊びに行くこと自体は全然面白くなかったとして、その状況下で別の異性とたまたま出くわし、その出会いが自分の恋愛につながるとか、毎回そうなる可能性は低いですが、ないとは限りません。

 

複数の友人と一緒に遊びに行っていれば、別で複数できている異性のグループと仲良くなれる可能性もより高まると思っています。

 

なんなら、そこで冷たくあしらわれる経験をしたとしても、それはそれで友達同士の間でのいい思い出になる可能性を秘めています。

 

言ってみれば、何が出るか分からない宝くじみたいなものでしょうかね。

 

さらに言えばその宝くじは、一回引いたその時にすべてのパフォーマンスを享受できるわけでもなくて、長い時間をかけてパフォーマンスを享受するかもしれない可能性があります。

 

これらを考えるに、自分が既によく知っていること、良く経験していることについては比較的コスパを試算、想像しやすいというのは確かな一方で、場合によっては自分がコストとパフォーマンスについてきちんと把握していない場合があったり、場合によっては自分が想像もしていないようなコストとパフォーマンスを経験する場合もあるということです。





コスパの視点は必要だが十分ではない


 


セミリタイアを目指している身としての発言としてはおかしいかもしれませんが、若い世代が結婚も子育てもせずにひたすら40歳くらいまで働いて資産形成をしてFIREをするのがコスパがいいと考えているという記事を読んだ際に、果たしてそこでいうコスパというのは何なのだろうかと考えてしまいました。

 

結婚や子育てをコスパが悪いと思ってしまう理由は何となく想像はつきますが、それってコストやパフォーマンスの内容をちゃんと理解していますかと問いかけたくもなります。

 

もっと言うならば、そのコストやパフォーマンスを全部把握できている人間が若い世代に限らずにこの世の中にいないだろうとすら思っています。

 

確かに世の中には悪いニュースも多いですし、ネガティブな思考になってしまうとどうしてもでコストの事ばかりに目がいってしまいがちなのも良く分かりますし、実際問題、コスパが悪いのかもしれませんけれども、今日の朝に何を食べようかというレベルの選択の重さとは比になりませんから、ちゃんと考えた方がいいですよとアドバイスもしたくなります。

 

仕事をしていても感じることですが、よほど定型化された機械的な業務を除いて、世の中上手くいくことの方が少ないのであって、ほとんどは失敗するとも言えます。

 

そういう意味ではコスパが悪い仕事というのはたくさんありますし、もしかすると、そんな仕事ばかりかもしれません。

 

それでもその仕事を進めていく過程で、関係者の誰かと雑談したことが楽しかったとか、上市の愚痴を言い合って意気投合したとか、そういうことだってあるのが人生です。

 

それは直接的にその仕事をすることのコスパではないかもしれませんが、人生の中で幸せな時間を持ったというメリットがあるのも間違いないと思います。

 

コスパを気にするのは仕方ないですし、大事なことでもありますが、コストとパフォーマンス、そしてそこから生まれる副次的産物も含めて、正確に理解していた上での判断なのか、自分に問いかけてもいいのではないかとも思います。

 

 

 

 


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世代ギャップ



 

 

SNSで送られてくる文章の最後に句点がついていると、それを見た若者が恐怖心を感じるという話が最近少し盛り上がりました。

 

句点をつけることで、会話を終えようとしているとか、怒っているのではないかというように感じる若者もいるようです。

 

チャット文化に慣れ親しんでいる若者の間では句点を使うことが一般的ではなく、句点を使わないか、あるいは文末に顔文字や絵文字を使うとかするそうなのですが、逆に世代が上になると句点をつける傾向にあるためにそのように感じる若者がいるということのようです。




時代遅れでも言いたい

 



時代遅れになりかけている私からすると、そもそも将来にあの件についてどうだったかと確認しようとしても時間がかかる可能性があるのだから、業務関連の話をチャット機能でしてくれるな、という思いがまずあります。

 

昨今は別に若いからとかそういうことでもなく、チャットでの業務指示が来ることもありますが、それが便利だと思う人もいれば、そう思わない人もいるということは理解してほしいなと思います。

 

自覚していますが、これは若者世代からすると、何を古臭いことを言っているんだこのおじさん、という受け取られ方をしても仕方のないことです。

 

その上でなのですが、たまに確かに文末に絵文字を使うこともありますが、句点を使うことが圧倒的に多いですし、なんならそれが正しい日本語だろうという、これまた古臭い考えを持っているというのがあります。

 

中には絵文字だらけのメッセージを送ってくる人がいますが、そもそも読みにくいからやめてくれと思いますが、もしかすると私からしたらその絵文字が雑音に感じる一方で、若い世代からしたらその絵文字はただの飾りというか、するっと読み流せるものなのかもしれません。

 

生まれ育った環境で、同じ音に関して、雑音と感じる人もいれば何も気にならない人もいるというような感じが文字でも起きているのかもなと。




不安もある


  


しかしながら一番は、日本人同士で会話をしているときに絵文字を使うことによる恥ずかしさというか、年齢を考えろよと思われはしないだろうか、という不安、そういう気持ちがあるために絵文字をあえて使っていないということはあるかもなと思います。

 

へえ、若者は文末に句点よりも絵文字の方が心地よいのか、よし、おじさんは理解があるから使っちゃうぞ、とばかりに使用した結果、気持ち悪いおじさんになる可能性も絶対にあるでしょう。

 

だってそもそも、その若者の感度が分からないのですから、そこを理解しないままに方法だけ真似しようとしてもうまく使いこなせるわけがありません。

 

で厄介なのは、そういうことをした結果として、今度は絵文字連発、チャットリテラシーのない困ったおじさんに若者が辟易している、なんてネット記事を目にすることになるのです。

 

そんなことになったら、それは話が違うでしょう、と思いますが、可能性は実は結構あると思っています。

 

同世代の人が私と同じような思考を持っているのか、実は違うのかは分かりません。

 

ただ私の心の叫びとしては、もしも本当に句点が苦手だという若者が増えているのであれば、もちろん当然に、私も気を付けるというのはありますが、その一方で、若者にも、私が句点を使うことに対してそんなに苦手意識を持ってくれるな、と言いたいです。

 

若者が句点に対して苦手意識があるのは、それで会話を終わりにしたり、怒っているように思うから、ということであれば、決してそういう目的や意図を持って句点を使っているわけではない、というように認識してくれてもいいじゃないか、ということです。

 

句点を使うことがある種の習慣であり、癖であり、それが古臭いと言われてもそういう価値観の中で生きてきた人間ですから、いきなりそれを変えろと言われても難しいわけです。





融和と歩み寄り

 



つまるところ、一方的にどちらかが譲歩するのではなく、お互いに歩み寄らないか、という提案ですね。

 

まあ、その歩み寄りというのも決してオフィシャルな会談を経て、契約書を作っての歩み寄りということではなくて、普段の何気ない会話やちょっとした雑談の中で、いや実は、というような感じでラフに話し合うような環境の中で、お互いにああそうだったのね、という理解をするというプロセスが理想です。

 

そういう視点から言えば、普段からコミュニケーションを取れる間柄であることが大切なのだろうなと思いますし、もっと言うと普段からコミュニケーションが円滑な相手であれば、私が句点を使ったとしても、そこまでの苦手意識を持たれない可能性はあるのかなと感じます。

 

という意味では、究極的には、普段からの関係性の問題なのかなという気もします。

 

でも昨今ではパワハラやらセクハラやら、もちろん当然に、実際にそういうことをする人がいるから問題なのですが、あまり年下の同僚との距離を近くすると、それらのリスクが高まるということがあり、気を遣ってしまうというか腰が引けるというのも間違いなくあります。

 

そういうのもあって、私はチャットは苦手というのもあります。

 

ただまあ、コミュニケーションの手段は変わり続けるというのが現実でしょうし、ある程度は歩み寄りながら相手に合わせていく姿勢というのは大切なのではないかと思います。

 

 

 


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問題発言

 


 

 

とある男性政治家の女性政治家に対しての発言が批判を受けており、男性政治家はその発言を撤回しました。

 

一方で、女性政治家本人からはその発言に対して批判などのコメントは出されておらず、そのことに対しても議論が巻き起こっています。

 

とにもかくにも、公人である政治家はその発言内容に一層気を付けないといけないことが第一です。

 

公人でなくても気を付けなければいけませんが、会社の中ではおじさん、おばさんといった表現を悪気なく使う人は一定数いますし、その発言に対してもちろん批判的に受け止める人もいますが、受け流している人も多くいます。

 

直接的に本人に言うことはあまりないのではないかと思いますので、今回の政治家の発言のように、本人がいないところで発言しても本人に届く可能性は比較的低い、というのもあるでしょう。

 

容姿を揶揄するというのは、昨今私の周りではあまり聞かなくなりましたが、それでもそういう発言がある職場もあるでしょうし、陰であれば色々と言っている人は絶対いると思います。

 

変な話ではありますが、公にならないのであれば、ある程度どんな表現をしても、それがとがめられる可能性は限りなく低いと思います。

 

本来であれば、とがめられる、とがめられない、という話ではなくて、不適切な発言はどんな場合でもしないようにしましょうというのが正しいのだとは思いますが、現実問題としてはやはりその発言が外に漏れて、問題になるか、ならないか、の方がより重要になってくるのでしょう。

 

別に、1人きりの部屋にこもって、独り言としてどんな差別発言をしていようが、そのことが外に漏れない限りにおいては、誰からも何の批判も受けないでしょう。

 

ということを考えるに、やはり外に対して発言をする際には気を付けないといけないですし、それが世の中の注目を集める人であれば、なお一層の事、気を付けないといけない、ということだと思います。





問題発言への対応

 



その反面で、実際にその言葉を投げかけられた形となった女性政治家が批判のコメントを出さないことに対して、賛否の議論が起こっていますが、ここの問題は結構複雑かもしれないと思っています。

 

一つには、その女性政治家が本当に全く気にしておらず、問題なく受け流せると思っている場合もあると思いますし、本当は批判したいのだけれども今後の関係性のことも考えてあえて受け流しているだけかもしれませんし、実は裏では直接文句は言いつつ、大人の対応で表面上は受け流しているように見せている、などなど、色々な可能性があると思います。

 

本人が気にしていないのだから外野がそれに対してとやかく言うなという論調もあれば、問題視しないような態度が更なる問題を引き起こすので、なぜ批判のコメントを出さないのか理解ができないという論調までいろいろとありますが、ご本人の立場や思いが分からない中では、この意見が唯一正しいというものは私には判断ができません。

 

我々だって普段の生活の中で、色々と思いを巡らしながら、ここでは文句を言おう、ここでは文句を言わないでおこう、ということを決めていると思います。

 

特に政治の世界で、パワーの強い影響もあるであろう世界においては、どういう対応をするのか難しいのではないかと思います。

 

野党の誰かから言われるのか、与党の実力者から言われるのか、で、同じ発言でも対応が異なってくるという可能性も、変な話だとは思いますが、私は理解ができます。

 

ですので、外野がとやかく言うのは勝手ではありますが、外からしか分からない表面上の事だけでは、女性政治家の対応として、何が正しいのかというのはちょっと判断が難しいなという思いです。





悪いのは問題発言

 



なによりも、一番悪い、というか注意が足りていないのは、この表現を使った男性政治家であることは間違いありません。

 

内容としては、褒める文脈の中で使用したようにも読み取れますが、だったらいい、というものでもありませんからね。

 

マスメディアだって、あたかも一般の人が言っていますという体で、「増税メガネ」という言葉を公共の電波で流していたわけですし、それに似たようなこともやっていると思います。

 

特に男女の機会平等や、ダイバーシティを大切にしましょうというトレンドの中で、女性を馬鹿にする表現を政治の世界の実力者が言った、という理由でマスメディアが批判をするのはよく分かるのですが、ではマスメディアが誰かを揶揄するような表現を公共の電波に流すことは果たしてどう判断すればいいのだろうかとも思います。

 

もしかしたらマスメディア側は、自分たちがそれを創り出して積極的に広めようとしているのではなくて、あくまでもそういう言葉が世の中にあるということを紹介しただけだという主張をするかもしれませんが、そもそも誰かを揶揄するような表現に対して無批判で公共の電波で流してしまうという態度は問題がないのか、とも思います。

 

誰かを公に批判するならば、同時に我々自身も内省をする必要があると思いますが、マスメディアは決してそうはなっていないので少し違和感があるなとは思います。

 

まあいずれにせよ、問題になりそうな発言はしない、一層発言に気を付ける、これですね。

 



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優秀かどうか



 

 

とあるテーマパークで、購入チケットに関して従業員とトラブルになった客が、その後そのテーマパークの社長が出てきてやり取りが始まり、結果的にこの社長の対応が炎上した件について、とある方が、コラムを書いておられました。

 

パッと見て、ピカピカの経歴を持つこの社長が、自分は正しい、何でもできると思い込んでしまったのではないかという分析で、結果としてまずい対応になってしまったのではないかということでした。

 

そのコラムを読んだ限りにおいては、それはあるのかもなと思いました。

 

私の周りにいる人で、学歴や経歴がピカピカな人は、確かに自分に自信がある人が多いなと思いますし、自分は正しい、という思いも強いなと感じることはあります。

 

別に学歴や経歴がピカピカでない人の中にも、自分に自信がある人や、自分は正しいという強い思いを持っている人もいると思いますので、学歴や経歴がピカピカだから、ということがすべての理由付けにはならないと思いますが、少なくとも、そういう人は困難を努力で乗り越える経験であったり、周りからすごいですねと言われる経験であったり、そういうものが比較的多いのではないかと思いますし、そういう中で自己肯定感を高めて、自分はすごいのだという自信をつけていくというのはあり得ると思いますし、全くもって変なことでもありません。

 

人間は常に謙虚でいなさいというのはその一方で確かで、驕ってはいけない、というのも確かだとは思いますけれども。





ピカピカが悪いわけではない



 


そして、だからと言って、ピカピカの経歴の人は使えない、仕事ができない、ということではありませんので、なにかあるとそういう論調にすぐ飛躍する人もいますが、そうではないということも念のために言っておきたいと思います。

 

むしろ、平均を取れば、基本的な仕事の能力はそういうピカピカの経歴の人が高いと言っても過言ではないと思います。

 

仕事の場合、特にリーダーとして意思決定をする場合にはその合理性みたいなのが求められますが、とかく組織や集団で仕事をする場合に私が思うのは、優秀な人を揃えられるかどうかが一番のカギだと思っています。

 

極端な話、リーダーが一流でメンバーが三流よりかは、リーダーが三流でメンバーが一流である方が、その仕事はうまくいくと思っています。

 

極端な話ですので、リーダーはリーダーなりに尊敬されないといけませんので、三流ではだめなのでしょうが、言いたいのは、優秀なリーダーが一人いるよりも、優秀なメンバーがたくさんいた方がいいということです。

 

という意味では、リーダーだから、責任者だから、という理由で何でもかんでも口を出して、しゃしゃり出てきすぎず、優秀なメンバーの誰かに任した方がいいということでもあります。

 

ある人が、あらゆることに深い知識を持って判断ができるということはほぼあり得ません。

 

得意分野があれば苦手分野もあり、また良く分かっていない分野もあるでしょう。

 

であれば、その苦手な分野や良く分かっていない分野に詳しい優秀なメンバーを周りに置いて意見を聞いた方がいいですし、そうすべきなのだと思います。

 

歴史上においても、名の知れたリーダーの元には、参謀と呼ばれる人や優秀な部下が揃っています。

 

リーダーが優秀であることに越したことはないですが、それよりかはいかに優秀なメンバーを集められるか、ということが、うまく進めるための要因なのではないかというのが私の思いです。

 

という意味では、り―ダーが自分で動かなくてもいいやと思える優秀なメンバーをいかに揃えられるか、あるいはそういう部下を持つことで相対的に自分が低く評価されることの恐怖をどこまで克服できるか、というのも大切な気がしてきます。




自分に置き換える

 



私の場合、部下らしい部下はいませんし、またプロジェクトマネージャーのような形で働く機会が多いので、責任者として自分がしっかり説明しないとと思うこともあるのですが、もしかしたらそう説明も誰か得意な人に任せるというのも一つの手なのかもしれないなと改めて思いました。

 

そういう場面においては、自分が何でも知っていないといけない、自分が何でも説明できないといけない、という思いが強くなるというのは正直なところでして、責任感があると言えば聞こえはいいですが、人に頼ることができない、という状況になっていないというのはあるかもなと思います。

 

そこに至るまでの間であれば、知識も持っている人にたたき台の資料をつくってきてよ、とかいうのはお願いしていますので、自分が何でもやらないといけないというような重症ではないのかもしれませんけれども。

 

それでも責任者として、何か問題が起これば飛び込んで対応をせざるを得ないというのも事実です。

 

このテーマパークの事例に戻れば、社長さんともなればそういう可能性も低いというか、さすがにお客様担当者がどこかにいるだろうという風には思いますので、そうせざるを得なかったのではなく、自ら望んでそこに飛び込んだのかなという気はしますし、もしかしたら過去には同じようなことでうまく言った経験があったのかもしれませんが、結論としてはまあ、慣れないことはするものではありませんね。

 

任せられるのであればその道の専門家に任せるのが一番ですし、そういう人をちゃんと組織においておく、あるいはそこにたどり着くためのコネクションを持っておくというのが大切なのでしょうね。

 

 

 


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海外で活躍!



 

 

 

以前はサッカーの試合をテレビ観戦することもありましたが、なぜだか最近はあまり観なくなりました。

 

正確に言うと、W杯などの試合は観てみようかなと思うことはありますし、日本代表の試合もW杯であれば観ようと思って観るのですが、そのレベルにならないと観ないという感じです。

 

ちょうど昨年やっていたラグビーのW杯は日本の試合もその他の注目の試合も追っていたのですが、普段テレビでラグビーの試合をやっていても積極的に観ようとは思いませんし、スタジアムにも観に行ったことがありません。

 

そんなこんなで、今、サッカーでアジア杯が行なわれていることも知ってはいますが、試合そのものを観てはいません。

 

当然、今、どういう人が代表選手に選ばれているのかも、何名かしか知らない、名前は分かるけど顔は分からないというような状況です。



 


挑戦している!





というような状態で、そもそも論ですがどういう選手が選ばれているのかなと、目にする機会があったのですが、非常に驚きました。

 

所属チームが書かれていましたが、ほぼすべての選手が、日本国外でプレーをしているのです。

 

どこのチームなのかとか、どこの国なのかなどは全ては分かりませんでしたので、詳しい人から見れば強豪チームもあればそうではないチームもあるのかもしれませんが、そうであっても、以前とは言っても数十年前かもしれませんが、ほとんどの選手は日本のチームから選ばれていて、いわゆるエース格の人は海外のチームに所属していて、という状況を考えるとガラッと変わったなという思いです。

 

もちろん、日本のサッカー選手のレベルが上がったというのはあるとは思いますが、もしかして、一時期はそういう海外移籍が夢であったのが、当然誰でもがというわけにはいきませんが、現在は、上澄みの人たちにとって海外に挑戦しやすくなったのかなというようにも思います。

 

それは当然ながら、これまで海外に移籍して活躍をしてきた先人の努力が反映されている部分もあるでしょうし、より違った、レベルの高い環境でプレーしたいと思ってそれがかなえられる日本人プレイヤーが増えてきたのかもしれません。

 

お金のことは良く分かりませんが、恐らく海外チームの方がお金もいいのではないでしょうか。

 

その分、枠の問題で争いが激しいとか、ダメだったらすぐ首を切られるというようなことも当然あると思いますので、厳しい世界だと思います。

 

サッカーというスキルがあるか、ないかですので、異なる環境に身を置いた時にも共通言語はあって、サッカーができればある程度周りに自分を認めさせることもできるのかもしれませんが、そうであっても生き残るのは難しい世界でしょう。

 

それでも、海外のチームで活躍したいと思ってそれを実現させている日本人サッカープレイヤーがこんなにいるんだ、ということに大変驚きましたし、彼らのことはほとんど知りませんが、そういう挑戦をしているということは素晴らしいなと尊敬します。

 




海外赴任




海外赴任をしている会社員の人に対して、中にはあいつらは遊んでいる、仕事をしていないと愚痴を言う人はいて、まあそれが完全に的外れだと否定もしませんが、時に異なる環境においてのストレスを感じているのも確かだと思います。

 

その一方で、私の周りでも、海外赴任をするとかはもう考えられない選択肢、というような人もいますが、それはそれでもったいないなと思います。

 

会社の負担でそういう経験ができるのであれば、思い切って一度経験してみればいいのにと思います。

 

それで本当にその人には合わないということも当然あるでしょうが、日本を離れると日本のいいところ、そうでないところも自分の中で感じるようになって、なによりも色々な価値観に触れて心が少し広くなるのではないかと思います。

 

そういうのをかさに着て、だから日本はダメなんだ、というようなことを言うと周りの日本人に嫌われますが、言い方、伝え方次第で、自分を含めた周りをいい方向に変化させられる可能性もあります。

 

海外で仕事をするのは、場所が変わるだけではなくて、言語が変わることもあれば、仕事も変わることがありますし、多くの場合は本社と現地の間に挟まれる形になりますので、決して楽なことではないとは思いますが、もう一度言うように、会社の負担でそういう経験ができるわけで、リスクはそこまで高くはありません。

 

海外駐在になれば給料も増えて人生の勝ち組だ、という精神であるとちょっとダメかもしれませんが、リスクは低いけれども挑戦するか、くらいの精神で、機会があれば受ければいいのになといつも思います。

 

私も、無理に大変な仕事に変わったり、そういう環境に身を置いたりというのは好きではありませんが、海外駐在であれば受けたいと思っています。

 

真面目な話、手当がついて、給与も増えますから、その分の対価としてのストレスについても受け入れやすくなりますし、責任感も強まると思います。

 

国の好き嫌いはありますので、赴任する国は選びたいですが。

 

 

 

 

 


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SNSでも心に余裕を




 

 

メールやSNSを通したコミュニケーションは文字だけですから、そもそもの意図や微妙なニュアンスが伝わりにくくて、便利ではありますが使い方は難しいと思うことがあります。


私が古い世代なだけで、若い世代は今のやり方に何の違和感もないのかもしれませんが。

 

私もいくつかのSNSのアカウントを持っていますが、何か自分の主張を書き込むアカウントは旧Twitterと、このブログだけです。

 

Twitterについては匿名で、自分の興味がある、ある1つの特定の事柄に対してのみ書き込むようにしていまして、それ以外はリツイートもしませんし、フォロワーもその事柄関連をつぶやいている人のみにしていますし、そのフォロワーの方があまりにもいろいろなことにつぶやく人なら、表示頻度を下げるような対応を取ります。

 

もちろん、Twitter上で、まったく興味のない事柄が表示されることはありますし、それを読むこともありますが、それに対して何か意見表明をして誰かと議論をするというようなことはありません。




ブログ開設理由




 

このブログを開設したのは、仕事でたまりにたまったストレスのはけ口がどこかにないとまずい、という理由が背景にありまして、それが徐々に自分の考えを整理したり、深く考えずにとりとめもなく書いたりするために書くようになっています。

 

自分の投資戦績を披露するというようなことはしていませんが、セミリタイアを目指していますので、それについての考えや学びなんかも気づいたときには書くようにしています。

 

もちろん誰かに読んでほしい、共感してほしいという思いはありますし、こういう話題はなんだか閲覧数が多いなとか、こういう話題は求められていないのね、などと感じはしますが、閲覧数を増やすためだけに書いているというわけではありませんし、自分の意見を世の中に問う、なんてことも別に思っていません。

 

まあ、許容されるであろうと勝手に思う範囲内で悪口を書いたり、世間でたたかれている人に対して意見を書いたりすることはありますが、直接的にあいつがダメだとか、絶対許さない、というような一方的な正義を振りかざすのは、なるべく避けようと思っているのと、バランスも大事だなと思いながら書いています。

 

そう思っているのは自分だけで、個人攻撃になっていることもあるかもしれませんけれども。

 

まあ、そんなに見ている人もいない、影響力のないブログなので、あまり気にしないでおこうかという思いがあるというのも確かなところですが、文字だけだとやはり本心の本心は伝わりにくいところがあるのは間違いないです。

 

ただ言いたいこと、思ったことをつらつらと書いているだけですので、あまり深いことを気にしなくてもいいのかもしれませんが。




攻撃性

 



ただ世の中には、そういったSNSの怖さをあえて気にせずなのか、あるいはむしろ活用してなのか、いやもしかしたらSNSに限った話ではなくて普段のコミュニケーションでも言えることだとは思いますが、正義を振りかざして他人を攻撃する人たちがいます。

 

私が厄介だなと思うのは、一見攻撃していないように見せかけて、攻撃している言葉遣いをする人です。

 

分かりやすく攻撃をしている人はそういう意味では、まだ対処のしようがありますし、究極的には、また吠えているなあ、くらいで思っておけばいいのです。

 

攻撃していないように見せかけて攻撃している人は、その攻撃性や敵意を全く隠していないのに、あたかもそんなつもりではありませんよ、何なら自分が悪いところもありますよね、というような言い訳の余地を残してきつつ、自分が被害者だというようなことをアピールしてくるので、非常に厄介なのです。

 

まあ、それは性格が悪いという一言で片づけられることなのかもしれませんが、SNSの場になると、ああこの人は被害者でかわいそうと思う人も出てきて、その結果としてその場合の加害者を、一方的な正義でたたく人も出てきてしまうのです。

 

それってなんだかいびつな感じがしますし、決して正義のあることではないような気がするのですが、被害者だとされる人が周りをたきつけて周りが正義を振りかざす、そういうことが起きています。

 

不特定多数にそうやって叩かれるのは、叩かれる側からしたらすごくしんどいですし、SNSではそれが匿名でされるわけですから、まあえげつないなと思います。

 

まさに、自分は安全なところから、一方的な正義を振りかざして、悪いと認定された人をたたきまくるわけです。

 

それをしてあなたの人生に何の得があるのですかと言いたいところですが、正義である以上正しい、ということでの優越感であったり、そのコメントが他者からも許容されやすいために承認欲求を満たせるというのもあるのでしょうかね。

 

別に賛同する人が多いから正しい、そうではないから間違い、ということではありませんし、唯一正しい答えが常にあるわけでもありませんし、相手をやり込めるコミュニケーションそのものがあまりよくないと思いますし、みんなもっと寛容になって肩の力を抜きなさいよ、と思います。

 

安全なところから、独善的な正義を振りかざして特定の誰かをたたきまくること自体があまりかっこいいことでもないですしね。

 

 


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