子どもの幸せを考える




とある有名子役で人気を博し、大人になってからもテレビなどでよく見るタレントさんのインタビュー記事を読みました。

 

まあ別に内容としてはただのインタビュー記事ですので、読んだらなにかすごく仕事のパフォーマンスが上がるとか、お金儲けのヒントが得られるとかそういうことは全くなく、ただの雑談に近い記事です。




イメージが変わった


 


ちょうど私世代のタレントさんで、子どもの頃からテレビでもよく観ていました。

 

子どもだった時の印象のまま大人になったような感じを受けますので、印象としてはちょっと生意気な子どもの時のまま、というのが正直なところだったのですが、いざ記事を読んでみると非常にいい大人、お父さんだなと感じました。

 

絶対に子どもの頃からたくさんのお金を儲けていて、贅沢もたくさんしたでしょうが、よくあるハリウッドの子役スターがたどるような人生を破滅させることはなく、大人になってもタレント活動をされているのですから、もしかしたら私なんかよりもはるかに人生の酸いも甘いも知っているのかもしれませんね。

 

経験してきていることの質や量も私なんかよりも圧倒的に多いのだろうと思いますし、失礼な言い方ですが、自分の頭で考えて行動をしてきた人なのかなとちょっと印象が変わりました。

 

ただの何でもない雑談記事なのに、人柄の良さというか懐の深さみたいなのが感じられたという感じです。




子どもの幸せ


 


なぜそのように思ったのかというと、雑談の中で自身のお子さんのことを語っていて、その中での発言内容が同じく子どもを持つ自分としてはよくわかるというか、非常に共感するところがあったからだと思います。

 

特に小さい子どもはいわゆる社会性が未発達ですから、ダメと言われたことをわざとやることがありますし、大人が見ていてひやひやするような危ないことも平気でやります。

 

大人が思ったようにはなかなか行動をしてくれないですし、でも大人のすることををよく見ていて、なぜそんなことをやっているのかと尋ねてきたり、真似をしたりもします。

 

子どもにはとにかく元気に健康に過ごしてほしいなと思っていますし、第一にやはり幸せになってほしいなと思います。

 

ただ難しいのは、子どもにとってどうなることが幸せなのかに正解はないですし、私もわからないということです。

 

例えば、成功の定義づけをまずする必要はあるとは思いますが、成功するのが幸せであると考えるとしましょう。

 

では子どもが常に成功するように大人がサポートをしてあげるとか、お膳立てをしてあげることがいいことなのかと言うと、そうではないと思います。

 

してもいい失敗、しても問題のない失敗というのは存在していますし、それを子どもに経験させないというのはむしろ子どもにとってマイナスに働くことだと思います。

 

そしてそれは、してはいけない失敗、あるいは、これをすると不幸になる、ということについては経験則でおおよそ分かってはいるからこその思考回路だと思うのですが、その逆のこれをすればいい、これをすれば絶対に幸せになる、という絶対的なものは分かりません。

 

あるのは、経験則で、こうしたほうがいいのではないか、幸せになりやすいのではないかという一種の勘だけです。

 

経験の積み重ねである以上、意外と勘というのは馬鹿にできない要素なのですが、それでも勘は勘でしかありません。

 

確実な根拠としてこうすれば絶対に大丈夫という選択肢はよほどのことでない限りは明らかではありません。

 

そうなると、大人としては不正解を示唆してあげることはできますし、正解かもしれないと思うことを示唆してあげることもできるかもしれませんが、常に正解を示してあげることはできません。

 

中には自分はすべての正解を知っていると思っている大人もいるかもしれませんが、それはただの驕りだろうと個人的に思っています。

 

もし本当にそうであれば、その大人自身が素晴らしい成功を収めていてしかるべきだと思いますが、そんなことはまれだと思いますし、ちょっと前の議論に戻って成功と言っても色々な成功があって、たとえ自分が成功していたとしても子どもには子どもなりの成功があるはずだと思います。

 

だからこそ、子どもへの接し方は非常に難しいなと思っているのですが、この記事になっているタレントの方の発言はすごくバランスがあるなと思いながら読むことができまして、自分の先入観としての印象を変えたというのも相まって、自分自身でもまたいろいろと考えるきっかけとなりました。

 

なんだかいろいろと経験をされてきているのだろうなと感じました。

 

 

 

 

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資産形成



今月もお給料日になりました。

 

毎度毎度のことですが、安定してお給料が振り込まれますのでありがたいことです。

 

しかしながら、まだまだセミリタイアの目標としている1億円にはたどり着きません。

 

この金額は、妻と私とが以前に話をした際に、目標金額とした数字ですが、最近、この金額は十分ではないかもしれないと思うようになりました。



思い直し


 

というのは、妻が子供の教育についてもっとお金をかけることを考えているということがわかり、私としてもそれを子どもが望むのであれば、あるいは望まなくてもそのような可能性を残しておくためには、そのためのお金を持っておくというのはあり得るなと思うようになったからです。

 

そうなると、もしもセミリタイア基準を資産額を目安とするのであれば、1億円というのは結構ぎりぎりの金額ではないかと思います。

 

住環境として、不動産購入をした上で、その資産価値を除いて1億円があればまだ可能ではないかと思えるのですが、私も年率5%とかで運用できるとは思っていませんし、頑張って3%ではないかと思うと、子供の教育費が想定よりも増える可能性を秘めた今、ちょっと物足りない額だなと思うわけです。

 




金額のゴールは短絡的




もちろん、その1億円の達成時期がいつになるのか、つまり、教育費もあらかた払い終えた段階で達成するのか、それともこれから教育費がかかりますよという段階で達成するのかによっても左右されるでしょうから、金額だけを目標にすることは正しいことではないとわかっています。

 

本来であれば、セミリタイア後に想定される支出を頭の中に入れた上で、いくら以上あればセミリタイアをしても問題なさそうなのかを考えて決断をすべきなのであって、それを単純に金額でゴール設定することは正しくないことなのだろうと考えます。

 

確かに、物事の単純化のために1億円という分かりやすい設定をしたということですので、そこは少し考えが浅はかであったかなと今となっては思いますし、その一方で1億円では足りないのかもしれない、もっと稼がないといけないのかもしれないというちょっとした喪失感のようなものもあります。

 

まあそれでも、セミリタイアできるのはまだ先だなと思える今の時点で、それがわかったということはよかったことかなと思っています。

 

いざセミリタイアをした後でそういうことがわかると取り返しがつかないことにもなりかねません。



学び


 

学びとしては、不確定要素を完全になくすということはどうやっても無理ではありますが、なるべくその要素を減らすということが大切ということなのかなということです。

 

むしろ、確定要素を増やしていくというほうが正しいのでしょうか。

 

しかしながら、確定要素、正確に言えば確定要素を思い込んだものを増やせば増やすほど、逆に考え方に柔軟性を失う危険性はあるなとも思いました。

 

要するに、子どもの教育関連で最大でもここまでという想定をした後、すでに自分がセミリタイアをしていたとして、その後に、子どもの教育費が増えるかもしれないという話が出てきていたとしたら、想定が狂うわけですが、その際に確定要素を変えたくないからということでその可能性を排除してしまいがちになるかもしれません。

 

そうなると、それは子どもの可能性を奪いかねないということにもつながります。

 

あるいは、子どもに対して、トータルこの範囲の予算で教育費を収めるように考えて行動をしてくれということをいうことになるかもしれません。

 

そういうのは、子どもの可能性を私が狭めてしまうということで、結構自分勝手なのかもなとも感じてしまいました。

 

お金を出せばよりいいサービスが受けられるのかどうかということに確約はありませんが、可能性としてはやはりお金をかけたほうがよりいいサービスが受けられるのではないでしょうか。

 

そうなった場合に、損して得取れではないですが、目先の金銭的価値に目をくらむことなく、もう少し長い目線で考えてあえてお金をはりに行くという選択肢はあり得ます。

 

子どもを投資とはあまり考えたくはないですが、ビジネス上の投資ではそういう使うべきところには短期的には損を出したとしてもあえて投資をするということはあり得るわけです。

 

これまでは、おおよその世間の平均などから子どもの教育費はこれくらいになるだろうなというのを試算して、であればこれくらいの資産があればまかなえるのではないかということを考えていました。

 

無論、教育にしてもただバカ高いだけでその価値がない場合もありますから、子どもがやりたいからと何でもかんでもお金をかければいいという話ではありませんし、場合によってはそのお金は出せないということを親として言わなければならない場面はあると思います。

 

それでも、もしも子どもの可能性を高めることができるのであれば、自分のことよりかは優先してあげたいなと思う自分はいて、このあたりもう少し考える必要はあるなと思った次第です。

 

 

 

 


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引きこもり問題



引きこもりの数が150万人近くになっているというニュース記事を読みました。

 

ざっくりと日本の人口を1億人とすると、1.5%の人が引きこもりだということです。

 

私が子どもの頃も、登校拒否の知り合いがいまして、髪の毛もぼさぼさでしたが、それなりに友達はいるようでして、家に遊びに行く友達もいましたし、実は私も1回だけ家に遊びに行ったことがあります。

 

そういう人が引きこもりの定義に当てはまるのかどうかは少し興味深いところではありますが、恐らく入るような気がしますので、そういう登校拒否の人も含めての150万人なのだろうと思います。

 



印象




これを多いとみるか少ないとみるかは人それぞれだと思いますし、経年推移や年齢構成などを見てみるとまた違った光景が見えてくるのかもしれませんが、ぱっと私が感じるのは、多いなということです。

 

もちろん中にはいかんともしがたい理由にて引きこもりの状況に陥らざるを得ない人というのもいるのでしょうし、引きこもりの人は努力が足りないとか、社会貢献をしていないということを言いたいわけではありませんが、その一方で正直なところ、そういう引きこもりの人が社会活動に参加してくれれば、社会にはいい影響もあるだろうになとは思います。

 

社会活動をしている私が社会にいい影響ばかりを与えているとは思えませんが、自他の消費を促すという点では経済活動には貢献をしているのではないかと思っていますが。



解決策は?

 


とはいえ、引きこもりの要因が様々であって、またその要因を解消することで社会に出てくるようにさせるというのも簡単なことではないでしょうし、単純にそこに150万人分のリソースがあるという考え方をするのもは間違っているのでしょう。

 

人手不足に悩んでいる会社の従業員として雇えばいいのではないかとか、社会貢献活動に従事させればいいのではないかとか、余剰リソースとして考えてそれをどう活用するのかを議論する意見もちらちらと見ましたが、多くの人の場合は、そもそも本人がそういうことをできる状況にないから結果として引きこもりになってしまっているのであって、活躍する場がないから引きこもりにならざるを得ないというわけではないと思いますので、幾分かの人はそういう機会を与えることで社会復帰がかなうかもしれませんが、全体としての課題解決手段にはなりづらいのかなと思います。

 

ただし、今はまだ引きこもれる状況があるからということで良しとされたとしても、その状況がずっと続くかと言われれば疑問にはなります。

 

例えばですが、両親が健在だから、両親の経済状況に余裕があるが、その子どもが引きこもっていても今は両親が養っていく余裕があるという状況が考えられます。

 

今はいいかもしれませんが、本当に持続可能かということを考えるとそうではないと思います。

 

そして、持続可能でない状況になれば、引きこもりの状況が解消されるかというと決してそうでもありません。

 

となった場合に、持続可能ではないとなったタイミングで一気に問題が噴出する可能性があり、しかもその時には解消がより難しいという状態になっている可能性があります。

 

まだ問題が対処可能な時に対処しておけば比較的軽い出血だけで済んだはずなのに、問題が大きくなりすぎて対処方法も非常に大掛かりなものになってしまう、最悪の場合は手遅れになっているかもしれない、ということです。

 

であるならば、もしも今ならば問題解決の手があるのであれば、早いうちからそれに対処をしておくことが重要だと思います。

 

それは、問題解決ができれば社会的なリソースが増えるからということが先に来るのではなくて、問題解決を先送りにすれば、将来的に社会的リソースを浪費するかもしれない、という考えに近いと思います。

 

とはいえ、どうやってその問題解決を促すのかというのに答えはないなというのは思うところです。

 

なにか特効薬があるのであればもうそれは使われているはずだと思います。

 

何か考えられうるとすれば、まずは引きこもりとされる150万人を分類して、今すぐにその状況を解消できそうな人、時間を要する人に分け、前者についてはすぐにでもできることをやりつつ、時間を要する人についてもまたその想定される時間の長短で分類分けをした上で対策をしていくことでしょうか。

 

引きこもりにはなってしまっているが、本人としてはなんとかその状況を脱したいと思っている人については、社会的に必要な支援をするべきだろうと思います。

 

その過程で、残酷かもしれませんが、もしかするとこの層はあきらめよう、将来に爆弾が爆発してもそれは受け入れよう、という判断が必要になることもあるかもしれないなと思います。

 

政治家は怖がってそういうことは言わないと思いますが、全員を救い幸せにするということは理想ではあるものの、現実問題として難しいということはよくあることで、むしろ限られたリソースをうまく活用して、どうやって最大の効果を出すのかということを考えることも残酷ですが必要な場面があると思います。

 

まあ、今の世の中だと、支援をするために税金を投入しますということも言いにくい世の中になってしまっているような気はしますが、それはそれで問題解決が遅れてしまいますので良くないと思います。

 

しかし、そんな気概を持った政治家がいないというのもまた現実なのでしょうかね。



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中国出張で感じたこと




 

長らく、中国出張をしており、なかなかブログを更新する機会がありませんでした。

 

中国に出張するに際しまして、業務で使用しているPCやスマホの持ち込みが会社から禁止されて、出張者用のPC、スマホというものを付与されました。

 

また、出張先のホテルであってもそこのネットに接続することは禁じられ、日本からレンタルしたモバイルWi-Fiを使用していました。

 

中国ではかなり検閲が厳しく、場合によってはPCやスマホの没収が起こり、そうなると企業秘密なども抜かれてしまう危険性もあるということでの対応でした。

 

対日本人で厳しい対応をされる可能性もありますので、リスク管理ということでしょう。

 

もちろん、政治の話題を公共の場でしたり、そういう場所に行ったり、何も考えずに写真を撮ったり、ということは禁じられました。


そんなこんなで、ブログを更新するのもためらっていました。

 

であればその出張期間、どうやって仕事をするのかということになりますが、その仕事に関係する資料についてはUSBメモリに保管して、それをPCに接続することは許されましたが、業務メールなどは別のメアドアカウントを新たに設定して、そこでのやり取りに限るというような対応を取りました。

 

最悪のことは起きても仕方がないが、その場合でも影響は最小限にとどめようとすることなのだろうと理解をしています。




中国経済

 



私は普段の中国の都市の様子は知らないのですが、一見すると活気があるという印象でしたが、現地で長い間その都市を見ている人に言わせると、最近は景況感の悪化というのがかなり感じられるということでした。

 

飲み会を含めたいわゆる夜の街からも消費者の足は遠のいているようです。

 

自分がお金を持っているというような、自分の富を見せつけるような行動をSNSで行なうことも非常に制限されているようでしたので、そういう影響もあるのかもしれませんが、高級なものが売れなくなっているように感じるということでしたし、若い世代の一部には給料の額がガクッと減ってしまった人も出てきているようです。

 

ちょっと前までは、中国経済もイケイケどんどんでしたし、コロナ禍でも、行き過ぎとも感じるものの、強権発動をした対応を実行するなど、民主主義国家ではないけれどもそういう国家運営方法もあり得るのかもしれない、と思わせるものがありました。

 

しかし、国家統治体制はそのままで経済的にも困窮してしまうという直近の状況だけを見ると、なかなかしんどいものはあるのだろうと思います。

 

中国の支配階層は、日本のバブルの要因や対応策の研究をずっとしてきたと考えられてきており、だからこそ不動産バブルが起きていたとしてもそれをソフトランディングできるのではないか、とも言われていましたが、理論と実践が違うようにうまくいっていない部分は間違いなくあるのでしょう。

 

そもそもが見栄を大事にする文化ということを聞きますから、バブルがはじけるというそれ自体を恥と思ってしまうということもあるがために、失敗後の回復をどうするかという視点は実はそもそもなくて、失敗しないようにはどうするかばかりを考えていたのかもしれないな、とも感じます。

 

別にそこら辺にホームレスがいるとか、失業者で街があふれているとか、そういう分かりやすい景況感悪化は見て取れなかったのですが、実際に暮らしている人が不景気になっていると感じるのであればそうなのでしょうし、おそらく長引くであろうという見立てであるということでした。

 

日本に帰国した後で、日本も景況感は悪化しているという話がここ何十年も話題になっていますが、わたくしは一つは国内人口が減り続けていることによる内需の減少が影響していると考えています。

 

中国の場合、一人っ子政策や高齢化社会の弊害はあるものの、日本に比べれば内需はまだ大きく盛り上がる可能性を秘めていると思っています。

 

しかしそんな中国でも経済的な回復には苦労をしているという中、日本は果たしてどうなってしまうのかという不安を感じてしまいます。

 

私自身が、では子だくさんになろうとしているかというとそんなことはありませんので、言うだけ番長になってしまっているのですが、人口はいきなり増やそうとして簡単に増えるものではないですし、社会的に増やそうとしないと増えません。

 

さて、セミリタイアをした際に暮らしていきやすい社会になっているのかどうか、ちょっと気になりました。

 

 


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割を食う世代の悲哀



優秀な若手の人材獲得のために給与水準を上げる反面、どこかでバランスを取ろうとした結果、中高年の給与水準を下げることで対応する会社があることに、中高年からは反発の声があるという記事を読み増した。

 

特にその対象となる中高年というのが氷河期世代の人であることもあり、それまで割を食ってきた氷河期世代がさらに割を食う形になっているというような内容でした。

 

絶対額としての給与水準を下げるということなのか、定期昇給の額が従来より下がったのか、どういう内容のバランス対応であったのかというのは定かではありませんが、いずれにせよ割を食ったのであれば不満が出るのは当然でしょう。

 

会社としても、優秀な人材を取れないとその後の存続に関わってくることではありますし、その一方で無制限に人件費を支出するわけにはいきませんから、どこかの水準を上げるのであればどこかの水準を下げることもまた必要でしょうし、やむなしという判断でもあったとは思いますが、そうは言ってもそのあおりを食う人は不満に思うのは仕方がありません。




私の勤める会社


 



私の勤める会社でも、大きな方針としては私が入社したころよりも、若手に手厚い給与体系に変わってきているのは感じます。

 

それによって、中高年の給与の減額対応も確かに行なわれているように思えます。

 

特に非マネジメント層の中高年の給与についてです。

 

プレーヤーとしての能力が若手と中高年とでどれくらい変わるのかははっきりとした答えはないとは思いますが、印象としてはやはり30代から40代前半くらいがそのピークなのではないかと思います。

 

また、その後の成長の伸びしろということで考えた場合には、若手の方が可能性があると考えられるのは仕方のないことでしょう。

 

そうなった場合に、中高年でまだ非マネジメント層であるという点は、単純に考えて、会社の投資対象からは外れてしまうのだろうと思います。




管理職になるかどうか

 



管理職になりたくない若手も増えているという話を聞く機会がありまして、肉体的・精神的に辛いことはやりたくない、という理由も良く分かるのですが、とはいえ会社からしたら中高年にもなって非マネジメント層である人間を優遇する余裕もありません。

 

その理由があるとすれば、非常に豊富なノウハウや技術を持っているということで、オフィシャルなマネジメントではないが、組織の中ではマネジメント層待遇のようなものを受けられる専門職である人、というようなことになるかと思います。

 

会社としては利益を出さなければなりませんし、効率性を求めるのであれば、インプットとアウトプットのバランスの効率化を狙うと思いますので、そのような意味で、1プレーヤーである中高年層の待遇を下げるという判断は合理的でもあるのでしょう。

 

もしも、自分はそのような待遇を受けたくないと考えるのであれば、マネジメント層かその待遇を受けられるような層になる必要はどうしてもあると思いますし、そのためには成果を上げるだけではなくて、良好な人間関係を築く必要もあるでしょうし、最終的には運の要素も必要になるでしょう。

 

私も、若いころには、なぜ自分はこんなに働いているのにこれだけの給料しかもらえず、その一方でただ社歴が長いだけの中高年の従業員はパフォーマンスはそれほどでもないのに自分よりもらっているなんておかしい、と憤りを覚えたことがあります。

 

それが今や、逆の立場、憤られる側になっているのかもしれないと思ってしまうこともありますから、若手にとってみれば自分たちの給与水準が上がることは当然だと思っていることかもしれないなと思います。




安定はしている?


 


その一方で、仮に会社の投資対象から外れてしまったとしても、会社を辞めさえしなければある程度の稼ぎは確保されると考えることもできるのがサラリーマンの強みだと思います。

 

もちろん、待遇が下がると不満を感じるでしょうし、何よりも自分に期待されていないような気がしてモチベーションも下がるのではないかと思います。

 

今一度モチベーションを挙げて成果を出して、というようなメンタルであればいいのですが、そういう人はそもそも中高年になってもまだプレーヤーであるということは稀なのが日本の企業なのではないでしょうか。

 

であれば、モチベーションが下がってしまうことは良くないことではありますが、同時に会社に期待もしすぎない、という態度で残りのサラリーマン生活を続けるということも選択肢としてなくはないと思います。

 

私の知る限りにおいては、マネジメント層でもマネジメント層待遇ではなくても、会社の土台を支える活動をしている中高年層もたくさん知っていますし、もう少し会社はそういう人を大切にした方がいいのではないかと思うこともあります。

 

ド派手なことはできないかもしれませんし、著しいパフォーマンスを上げるということもできないかもしれませんが、当たり前のことを当たり前にできる、それをやり続けられるというのもまた一つの素晴らしい能力だと思うからです。

 

しかし、そういう人たちはなかなか報われないというのもまた現実です。

 

さらに、別のところの変化の割を食ってしまうということがあるのであれば、それは確かにかわいそうだなと思います。

 

 

 

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(セミ)リタイア後




大手企業の管理職だった人が早期退職に応募すれば、退職金の上乗せ額が高額になることをチャンスに思い応募をしたものの、再就職先を見つけるのにも苦労する中で、日々減っていく貯金の額を見て、早期退職をしたことを公開するようになったというニュース記事を読みました。

 

いくつか、なるほどなと思うようなことが書かれていました。

 

そもそも早期退職の応募期間が短期間であったために、早期退職後のことを具体的に考える時間がないままに応じ、その後のことは退職後にゆっくり考えようとしていたという準備不足があったのではないかということ。

 

また、退職後はワークライフバランスを重視してゆったり働きたいという思いを持ってはいたものの、前職の肩書、給与水準が考えのベースにあるために、そこから水準が下がってしまう再就職先を魅力的だとは思えない、という人間の欲のようなものがあったのではないかということ。

 

要するに、何かビジョンがあって早期退職に応じたということではなくて、衝動的に応じたがために、計画性のない行動になってしまったということなのかなと思います。




計画はあくまでも計画だが


 


どれだけ準備して計画をしていたとしても、あくまでもそれは計画であって全て思い通りに行くなんてことはあり得ませんし、さらに人間の心理状態も揺れ動く中、何があっても自分の行動を全く後悔をしないなんてことはないと思います。

 

後悔をしないなんてことはない、と思っていても後悔することは当然にあります。

 

ただ、後悔をすることもあるだろうと思っていれば、いざ実際に何か後悔をすることがあったとしても、ああやっぱりなと思える割合が幾分かあるだろうとは思います。

 

例えそれが20%の割合であったとしても、100%の後悔をするよりかは、80%の後悔ですむ、くらいの話かもしれませんけれども。

 

ただやはりポイントとしては、事前準備の大切さや計画を立てることの重要さなのかなと思います。

 

退職って結構大きな意思決定ですから、そんなにポンと決めていいものではないと考えますし、その視点では衝動的に行動をしてしまうのは良くないよ、というのがこの記事から感じられることかなと思います。

  


 

私のシミュレーション

 



前もってセミリタイアの可能性を考えていると、その想定がどこまで正しいのかは分かりませんが色々と試算をして、どれくらいの資産があればセミリタイアをしてもいい水準になるのかを考えるようになります。

 

セミリタイア後の働き方も、もしもアルバイトであればどれくらい稼げるのか、というようなことも考えますし、どこか小さな会社で働くとしたらどうかというようなことも考えます。

 

そういうことを考えると当然に、今までの自分の肩書なんかは関係なく、例えば自分より学歴の低い人、若い人に教えを乞う、従う場面もでてくるでしょうし、いい年してアルバイトをしているのかと思われるのはちょっと嫌かもな、とか、そういう時にいやいや自分は昔は企業で働いていて、資産もつくったから今は悠々自適に生きているんですよとか強がりを言ってプライドを保とうとするのかなとか、その後の人生のシミュレーションもするようになります。

 

私は記事にあるような、前職の肩書や給与水準がどうしても頭にあるという人の気持ちは良く分かります。

 

それって間違いなく自分の価値を証明するステータスですし、それが下がるというのは自分の価値が下がるというのと同じようなものです。

 

先ほどあった、自分のプライドを保とうとするのかなというのは、そういう気持ちが自分にあるからこそ、そうではない、自分はあえて自分の選択肢としてステータスを下げたんだというような言い訳をしたくなるのだろうと思います。

 

その一方で、そういうことを考えていると、じゃあ自分はそうなるくらいならばセミリタイアをしたくないと考えているのだろうかとか、なぜ自分はセミリタイアをしたいと思っているのだろうかとかいろいろと考えます。

 

また別の機会には、今はまだそこまで分からなくとも、年齢を重ねるごとに健康面での不安がでてくる、思うように行動ができなくなってくるということもインプットされてきて、何を大切にして生きていくべきなのだろうかということも考えます。

 

周りを見ていると、この人は出世をしていくだろうな、自分はこの人よりかは出世をしないだろうなというようなことも見えてきて、会社人生で何を目標にして生きていくのがいいのだろうか、違う生き方はあるのだろうか、ということも考えます。

 

その積み重ねが、自然とセミリタイアに向けた心の準備にもつながっているような気はします。

 

それでも、セミリタイアをしたらしたで絶対になにかしらの後悔をするとは思っています。

 

もしも後悔をしないのだとしたら、セミリタイア後に今よりも生活水準が目に見えて上がる、自分のやりたいことが思う存分できてそれが達成意欲を満たしてくれているということがあった場合のみでしょう。

 

でもそんなことは恐らくないのではないかとも思います。

 

不要なストレスから解消される、ということは間違いなくあるのですが、そのストレスがあるときはそこから逃げることに幸せを感じても、そのストレスがなくなった状態では逃げる幸せというのは感じなくなるはずで、決して長続きはしない幸せだろうと思います。

 

セミリタイア後に、ワークライフバランスがとれる状態になった際に、自分は何をしたいと思っているのか、というのが大切ですね。

 

まだ答えは出ていません。

 



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