ちょうど、会社を退職した先輩の話を書いたので、以前から感じていたことを。
セミリタイアを目指している中で、その願望が特に高まった際に、田舎暮らしとかweb検索して、いわゆる田舎に移住して暮らし始めた人たちの話を目にする機会が多くあります。
過疎が進む地域における移住促進のために、自治体のホームページなどでもその地域に移住してきた人たちの動機や経験、その後の生活などを取り上げているページがあると思います。
そして、自分の身の回りにも、決して多くはないですがそういう暮らしを選ぶ人が出てきましたし、そういうサイトを読み漁っていると、中学高校時代の同級生が載っているのを発見するなんてこともあって、懐かしく思うこともあります。
違和感
移住を決めた動機については人それぞれなのはもちろんなのですが、それなりの頻度で目にするのは、それまで都会で暮らしてきていて、たくさん稼いで、いい車に乗って広い家に住むのが幸せだと思っていた、でもそうではないと思いなおして田舎への移住を決めたという話です。
当然に、いい車とは何か、広い家とは何かという定義づけは必要ですが、これらは経済的な価値としてのいい車、広い家、ということで考えるべきでしょう。
私はこの手の話を読んでもあまり共感ができません。
なぜならば、自分自身、都会と言われるエリアで暮らしてはいるものの、別にいい車に乗って広い家に住むのが幸せだと思ったことがないからです。
もちろん、いい車というか自分の乗りたい車に乗りたいとは思っていますし、住みやすい家に住みたいと思っています。
お金が腐るほどあれば何も考えずに高級車を買うかもしれませんし、広い家を買うかもしれません。
ただ、極端な話、何のために必死に働いてお金を稼いでいるのですが、という問いに対して何と答えるのかと問われた場合に、いい車に乗って広い家に住みたいから、とは私は答えないだろうということです。
それはすごく漠然とした答えだからです。
しかしながら、ホームページに載っていることを考えるに、世の中にはそういう答えをする人がいるように一見は思えます。
漠然とし過ぎている
幸せとは何かというのは人それぞれだと思いますので、好きな高級ブランドを身に付けたいと思う人もいれば、アイドルの推し活をしたいと思う人もいれば、とにかく毎日おいしいものを食べたいと思う人もいるのは分かります。
ですので、色々な幸せがあることは理解はできます。
で、ここからなのですが、実際に、いい車に乗って広い家に住むのが幸せだと思っていた人たちの中で、実際にどれくらいの人たちがいい車に乗って広い家に住んでいたのだろうか、と思うのです。
もう少し分かりやすく言うと、アイドルの推し活をするためにお金を稼いでいますという人は実際に推し活をしているわけで、幸せを感じるということもできています。
でも、いい車に乗って広い家に住むのが幸せだと思っていた人は、そもそもいい車に乗って広い家に住んでもいないのではないか、つまりそもそもそれらを保有する幸せを感じていないし、それを保有するために頑張っていたわけでもないのではないか、と思ってしまいます。
それなのに、それが移住の動機になるのはちょっと変じゃないか、と思います。
家は少し別かもしれませんが、本当に車が好きな人は、どれだけお金がかかっても、なんとかそれを買おうとすると思いますし、買えなかったとしても買いたいという思いは持ち続けるだろうと思います。
だからこそ、それまで都会で暮らしてきていて、たくさん稼いで、いい車に乗って広い家に住むのが幸せだと思っていた、でもそうではないと思いなおして田舎への移住を決めた、というのは嘘なのではないか、さすがにそんなに頭の悪い人はいないのではないかと思うのです。
ここで透けて見えるのは、お金はそんなに重要なものではない、お金よりも大切なものが移住で手に入るんです、ということを何とかして主張しようとするプロモーション的な姿勢です。
無理矢理な価値観の否定?
私自身も、お金が人生の全てだとは思いませんが、お金は人生において重要なものだと思っています。
なぜならば、お金があることで自分がやれることの選択肢を広げることができることは間違いないからです。
お金が全てではないことには完全に同意ですし、移住をすること自体も全く否定はしませんし、色々な形の幸せが世の中に存在していることは間違いありません。
何のためにお金を稼ぐのだろう、しかもこんなにストレスをためて、と考えることは多くの人がすることなのかもしれないと思いますが、その場合はやはり、何のためにをはっきり理解していないという状況であって、そういう人は多いかもしれないと思います。
しかし、いい車に乗っていい家を買うためにお金を稼ごうという漠然とした目標を持って働いている人、という人はまだ社会人歴が短ければあり得るかもしれませんが、それなりに働いてきた人でそんな人はいないのではないか、と思います。
そんな漠然とした目標を持っている人なんてそんなにいないのではないかということで、例えば自分は必ずフェラーリに乗るんだ、と思ってお金を稼いでいる人は、明確な目標がありますからこのカテゴリーには入りません。
周りがお金を稼いでいるから自分もお金を稼ぐことがとても大事だと思っていたけれども、そうでないことに気付いた、というのであればもっと真実味があるような気がするのですが、それが急にいい車に乗っていい家に住むことが幸せだと思っていた、というのはちょっと違和感があって共感ができないなと思います。
自分はフェラーリに乗りたいと思ってがむしゃらに頑張ってきた、しかしある時にふと気づいたがそれは違うと思ったから働き方や住む場所を変えてみました、というのであればまだ真実味があるような気がします。
まあ、個別ブランド名をそういうところでは出せないというのはあるかもしれませんけれども、フェラーリが欲しい人と思っている人が、あきらめて田舎に移住するとも思えません。
単純に、移住をすることで自分が大切な価値観の実現により自分のリソースを使うことができると思ったという訴求の仕方をすればよくて、そこで変に、別の価値観を否定する必要もないのになと思います。
そうしようとすることで、むしろそれっぽいけれども違和感のある理由を無理やりひねり出してきているような気がします。
広い家でいい車に乗りたい人は田舎に行かなきゃだめでしょ。認識が反対だと思う。都会でフェラーリ乗っても30kmしか出せないのに何の意味があるんだろう?
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