不用意な発言と本音





とある芸能人が、失踪したペットを探す場合に、そのペットが鳥であった場合に、張り紙なんかもしているけれども、探し出すのは無理でしょうという発言を笑いながらしたことが批判を浴びているという記事を読みました。
 
まあ、ペットの飼い主としてはわらをもつかむ、すがる思いで、張り紙をしているわけでしょうし、それを笑いながら無理でしょうと言ってしまうことは確かにセンスがないかもしれません。

 
ただ、電柱や掲示板などに貼られたそのような類の張り紙を見た際に、どれほど効果があるのかな、と正直疑問に思った経験のある人は多いのではないでしょうか?
 
もちろん、我々個人がそう思う分には、ただ個人的に思っているわけでしょうし、別にそれをSNSやメディアを通じて発信することはないでしょうから、あくまでも個人の意見としてそう思っているだけだと思います。
 
それを芸能人がメディア上でやったために、批判にさらされているような気がします。


心に留めるか、表に出すか

 

例えば、差別的な感情を単に個人的に感じているだけでそれを表面に出さないのであれば、その感情自体は確かに差別的ではあるものの、社会的にはそうは認知されないわけですから、他者から見てその個人が差別をしていると思われることはありません。
 
その個人自体は差別的感情を抱いているわけですので差別主義者なわけですが、それが表面に出ない限り、社会的にその個人が差別主義者だと判定されることはありませんし、当然そのことで批判されることもないでしょう。
 
今回その芸能人が批判されているのも、本質的にはその芸能人がそのような感想を持っているからというわけではなく、その感想を表に出してしまったからではないでしょうか。
 
ただし、もしも批判されるのであれば、その感想を表に出してしまったこと、あるいは笑いながらそれを表現してしまったことに思いやりがなかったこと批判するべきであって、いなくなったペットの鳥を探し出すことは無理ではない、という論調で多くの人が批判するのはなんだか違和感があります。
 

いや、無理ではないかもしれませんが。


さらに言えば、もし仲の良い友人同士が雑談をしている場で、笑いながら無理だよね、という話をすれば、他の参加者も笑いながら、確かに、なんて同調することもあるような気がします。
 
もしかしたら、あくまでもデリカシーがない、場をわきまえない発言であったというだけなのかもしれないなと思います。
 


本音と建前


人間は社会的な生き物ですから、場をわきまえた発言をすることは大切だと思います。

 
真実だから、あるいは可能性が高いからという理由である発言をすることが常にいいことだとは限りませんし、受け手がどのような感情を抱くのかを考えた上で発言をする必要があります。
 
メディアを通して、不特定多数の人がメッセージを受け取るという意味では、誰が受け手なのかも分かりませんし、より一層発言には気を付けないといけないというのはあるかもしれません。
 
そういう意味では、不愉快になる人がいるであろう内容の発言をしたことは批判をされてしかるべきだと思いますが、その一方で我々自身も、何を根拠にして、あるいはどのような視点からその発言を批判するのか、はっきりさせておく必要があるのではないかと思います。
 
建設的な批判はするべきですし、もしかしたらそれをすることによって、我々自身の普段の発言を改めて振り替えるいい機会になるかもしれません。
 
ただ正論を振りかざして、正しい立場にいる安心感から、そうではない立場にいる人を一方的にたたくというのはかなり違和感があります。


世の流れはある

 

ただし間違いなく、そういう、表現にはより一層気を遣わないといけない世の中になってきているのでしょうね。
 
テレビのバラエティ番組が面白くなくなってきているというのも、昔は規制や配慮しなければならないことの壁が低かった分、無茶をやれたというのはあるのではないかと思います。
 
おもしろくなれば無茶をしてもいい、というのはまた違うとは思いますけれどもね。

 

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1 件のコメント:

  1. 本音を言ってもらわないと人物判断を誤り大変なことになるから、なるべく皆が本音を言うようにしていった方がいいのではないか?
    昇進をしてはいけない人が昇進してしまう。結婚してはいけない人が結婚してしまうなど

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