野球の審判と誤審

 


ネットの記事を見ていて、審判は辛いよ、という記事を見かけました。

要は、プロ野球の審判なのですが、リクエスト制度ができて、審判が間違っていたら判定が変えられる、その一方でいくら素晴らしい判定をしても当たり前として捉えられて、褒められることはない、という内容でした。


所感


褒められることは確かにないよなあと思いますので気持ちはわかる反面、よほどの誤審でない限り、リクエストされたビデオを見て判定が変わってもそのこと自体は責められません。

要は、選手も観客も、あのハイスピードで繰り広げられるプレーを全て正確に判断できるとは思っていない中で、もし間違っていたら修正してほしいというだけなのではないでしょうか。

以前は、あるいは今でも基本的に審判は絶対だ、という価値観があった、あるわけですから、褒められることがないのが辛い、というのは勝手な話で、褒められたいなら、存在が絶対だ、なんてのはおこがましいことこの上ない主張です。

しかも、別に審判が間違っていても修正するか、しないかは審判に委ねられて、修正しないことだってあるわけですから、そうなると話は全く異なってくるというか、褒める褒めない以前の問題です。


会社の日陰部署


会社の中で、生産現場に携わっている人とか、原材料を調達している人とか、うまくやって当たり前、失敗したらなにやってんだ、という立場かつ、日が当たりにくい部署で働いている人が言うような、そつなくこなしても褒められない、なにかあったら責められる、というのとはまた随分と訳が違う気はします。

そういう部署はなかなか花形部署になりにくいのですが、基礎の基の部署としてかなり大切な仕事をしています。

そういう部署の人たちが文句を言ってもすんなりと受け入れられる気はします。

なぜなら、彼ら、彼女らはミスをしたら隠せないですし、それを取り返すための努力も強いられます。

判断間違ってたよ、ごめんねでは済まされないわけです。

野球の審判も、ひどい誤審をしたら責任追及はされるみたいですが、誤審して、それをごまかすことで、それは実際にプレーをしている選手や監督の給料に反映されるわけで、それっていかがなものかという気はします。

もちろん、人間ですからミスはありますが、それを踏まえた上でのリクエスト制度なわけですから、むしろ間違えた場合でも他の人の人生には影響を与えずにすんで良い影響があるはずです。

審判の威厳、みたいなことを言うくらいなら、逆に間違っていたら間違っていましたと認めないと、それはただの頑固野郎なわけで、それでいて、責められるのはきつい、いい判定をしても褒められない、というのはなにを言っているんだろう、と思います。

プレーのレベルは上がっているわけで、人間では判断できないことが増えているからこそのリクエスト制度と捉えれば、別にミスを指摘するための制度ではなく、納得度を上げるための制度に過ぎません。

リクエストされて、あきらかな誤審なのに判定を変えないということをやっている以上、審判が文句を言うのも同情はできないなと思います。


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