私の場合、ほぼ全ての社外人と同様に、定期的な会議をいくつか持っています。
関係者への進捗や課題の共有、対応策の議論などなど、話し合うわけですが、私が回さないといけない会議もいくつかあります。
私が回すというか、基本的には私よりも上のクラスの人への報告、意志確認みたいな位置付けで、いわゆる同僚も出席せずで、資料準備から報告まで、全て私がしなければなりません。
上のクラスの人というのもいくつかの部署にまたがっていますので、みな考えが違ったりしていて、これがまた対応が大変です。
疲弊する
そうすると、会議の準備や回し終わった後、結構疲弊するのです。
確かに、結果として、上の人の考えが聞けるというのはいいことだと思っています。
全てを受け入れる必要はないと思っていますが、そういう意見を反映すべきかどうかや、どうやったら上手く反映できるかを考えるきっかけになります。
もちろん、他人の意見を聞かせてもらうのは、耳が痛いことも多いですし、そんなことを言われてもなあと思ったり、面倒くさいなあと思ったりもします。
別に上の人が言うことが常に正解でもないですが、何が正しいかは誰にも分かりませんから、反証できないと力関係で押し切られることもあります。
まあ、押し切られても、検討はします、で流すことも多いですが。
また、私に指導してあげようとしている上の人たちにとっては、言うことが大切なのでしょうし、そのこと自体は良い面もあると思います。
しかし、どうしても、対応には疲弊します。
さらに、頻度が毎週とかだと、準備も大変ですし、1週間でそんなに進捗ないから報告することもないし、みたいな事もおきます。
偶然の産物
そんなことが積もり積もった先日、さらに言えば、報告だけなら別にメールでいいんじゃないかと思ったので、会議はキャンセルした上で、進捗だけメールで送りました。
すると、1人の人からしか返信がありませんで、内容もまあまあ普通のことでした。
それ以来、特に会議で報告必要なしと思えば、会議をキャンセルするようにしました。
上の人からは特に反応なしです。
そこで気づいたのは、あれ、私は会議をするために会議を設定していたのかな、ということです。
確かに、当初に会議を定期的に設定したのは、上の人に定期的な報告、方向性確認をしながら仕事の勢いをキープするためで、当時は動きもたくさんありましたし、適宜フィードバックをもらうことにも意味がありました。
それが徐々に、方向性は固まってきて、細かい部分の話になってくると、後は現場でお願い、という事も増えてきて、上の人の意見は意思決定ではなく、アドバイスの様相が強まってきました。
当然に、定期的な情報共有の手段は何かしら必要だと思いますが、場面場面で頻度を変えることは必要だったのに私がしていなかったのかな、と思ったのです。
つまり、目的を明確にしていなかった分、実は自分で自分を苦しめていたのかもしれないと。
これは、会議に限らず、仕事全体において言えることですし、改めてになりますが、セミリタイアについても、目的がなにかを明確にしておかないと、要らぬストレスを受けてしまうということなのでしょうね。
必要以上に追い詰められるとか。


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